写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

6年後のお礼

2011年10月15日 | 生活・ニュース

 夕方の散歩で、家のすぐ近くまで戻ってきたとき、小学生の男の子と母親が病院から出て来たのと出くわした。目があったとき母親が「あっ、紙芝居をいただいた……」と、私の顔を見ながら笑いかけて来た。 「病院内の保育園に、この子を預けていたとき、紙芝居を園に贈っていただきました」という。

 あれは6年前。定年退職をした後、「工房木馬」と看板を掲げて趣味で木工をやっていた1年があった。キッチン用品や額縁、木馬や機関車などの子供のおもちゃなどを作って遊んでいた。家の近くにある病院の中には、看護師のお子さん用の保育園が設けられている。そこに紙芝居の台をプレゼントしたことを思い出した。

 園長さんが図書館から紙芝居を借りてきて、私が贈った紙芝居の台を使って初めて園児に演じて見せたとき、私を招待してくれた。幼子がくりくりした目で紙芝居を見ていた。終わった後、帰っていく私に園児が声をそろえて「おじちゃん、ありがとうございました」と頭を下げた。かわいいつぶらな瞳を今も覚えている。

 散歩から帰った時に出会った小学生は、あの時の園児であった。母親とは初対面であったが、誰かに私が贈ったことを聞いていたのだろう。私を見つけ、愛想よくその時のお礼を言ってくれた。幼かった子も、今は小学3年生だという。「こんなに大きくなって……」と思わず頭をなでる。「今から塾に送っていくところです」と母親。仕事を終えたあと、息子と合流して塾への送り迎えのようだ。

 「他人からもらったものは直ぐに忘れてしまうが、上げたものはいつまでもよく覚えている」とはよくいわれることである。このたびは、これとは全く逆で、母親はもらったものを良く覚えていてくれ、上げた私はそんなことを全く忘れ去っている。見も知らぬ人から、6年も前のお礼を言われた。
  (写真は、6年前の保育園での紙芝居)


体の切れ

2011年10月14日 | スポーツ・山登り・釣り・遊び

 ここ1週間、体に切れがなくなっている自覚があった。体がだるい。足が重い。体が鈍(なま)っている証拠だ。こんな時、ハートリーが元気だったころは、一緒に山に登ることがよくあった。1時間足らずで登れる城山であったり、家の裏にある平家山であったり、岩国山であったりした。

 奥さんが出かけていった午後、思い立って高さ150mの平家山に登ってみることにした。昨年は何かと忙しかった。山にはもう、1年以上登っていない。ストックを取り出し、登山靴をはいて家を出た。薄曇りでやや蒸し暑い日、滑りやすい急な坂道をゆっくりと上っていった。

 登山口から林に入った所で、殻に入った栗を拾いポケットに入れる。やや進むと、足元から何かが飛び出した。茶色のカエルだ。小さな花の周りでは蝶が舞っている。虫の声もそこかしこ。前回登った時に比べると、道は渓谷状にえぐられ歩き難くなっている。シダや小枝が狭い道に覆いかぶさっているところも多い。最近、あまり人が通っていないことがうかがえる。

 久しぶりの山登りとあって、息の上がるのも早い。歩き始めて15分、早くも小休止を取った。脈拍を測ると120だ。数分休んで100になったことを確認してまた上る。今までは家を出て40分もあれば頂上に着いていたものが、途中3回休んだため1時間10分もかかった。体力が落ちているのか、暑かったからか。ひとりでの山登りに少し自信がなくなってきた。

 頂上の大きな岩の上に座り、岩国の街を一望する。右手には城下町、真南には山の上の新興住宅団地、左手には駅前商店街と遥か霞んで米軍基地、さらにその左手には工場群と厳島。それら全てが乳白色に霞んで見える。20分間、何も考えることなく座って眺めていた。

 1両だてのジーゼルカーが山裾をおもちゃのように走っていく。聞こえてくる音はない。国道を車が絶えることなく行き交う。突然救急車のサイレンだけがどこからか聞こえてくる。工場の煙突からは真っ白い蒸気が吐き出されている。自分とは何ら関係なく、それぞれが一生懸命に生きている様子を高みの見物。

 気を取り直して、直滑降のように真下に向かう道を降りて帰った。合計3時間の山歩き。体は軽くなり切れは戻ったように感じたが、肝心の頭の切れは相変わらず。この対策は何がいいのか。何十年来の課題はまだ続く。


ひと工夫

2011年10月12日 | 木工・細工・DIY

 同好会の親睦小旅行で、宮島に行く日が迫ってきた。参加人数は14名となった。史跡の案内役を買って出たからには、落ち度や間違いがあってはいけない。探訪個所の観光案内のパンフレットはすでに作り終え、人数分のコピーもしてある。「準備万端、抜かりはないな」と思っていたとき、「あっ、これがあったらいい」と気が付いたことがあった。

 先日、下調べに出かけた日、天気も良く表参道も厳島神社界隈も大勢の観光客でごった返していた。外国語での会話も、そこかしこから聞こえてくる。そんな中、ツアー客の前に立ち、ハンドマイクを片手に史跡の説明をしている女性ガイドがいた。次々に団体さんがやってくる。先頭には必ずガイドがいて、みんな揃ってハンドマイクを持ち、旅行社の手旗を高くかかげて先導していた。

 あのときの状況を思い出し「そうだ。あの人混みの中、迷い子を出すことなく皆を引率して歩くには、これが要るんだ」と膝を叩いて立ちあがった。納戸から草刈り用の鎌を持ち出し、裏山に上って行った。まっすぐに伸びた小指ほどの太さの姫竹を1本切って帰った。長さを1mくらいに切りとり、節をきれいに削る。その先に赤い模様の入った小ぶりなハンカチを、竹竿が入るように縫って手旗を作ってみた。

 ガイドが持っていたと同じように、目につきやすい手旗が出来上がり自画自賛。満足して左右に振って遊んでみたが、今一つ気になることがあった。宮島に行くには電車や船に乗る。その間、長さ1mもある竹竿を振り回して歩くのは少し気が引ける。「そうだ、こうしてみよう」。改良に取り掛かった。

 1mのものを真っ二つに切った。小さな竹の穴の大きさを確認する。この穴に差し込むものを物色した結果、買い置きの竹細工の楊枝を少し削ればいいことが分かった。早速加工して片方の穴にきっちりと差し込んだ。2本をつないでみると、いいあんばいである。竹竿を組み立て式にすると、携行するに便利、機能もバッチリ。手旗があれば迷い子が出ることもあるまい。一方、旗ばかり見ていて、足元がおろそかになりはしないかと、今ハタと考えている。


おやすみなさい

2011年10月11日 | 生活・ニュース

 10年間飼っていたハートリーが逝って、間もなく4カ月が経とうとしている。いなくなった直後は、ハートリーが家の中に残したドアの傷跡や壁紙の汚れにやたら目が行き、楽しかった日々を思い出すことが多かった。この頃になっても、時にまだそんなこともある。ハートリー離れをするには、もう少し時間がかかりそうだ。

 先日、車を走らせているとき、ある年配者がラジオでいい話をしているのを聞いた。眠たくなって先に寝室に行くときは、必ず奥さんに「おやすみなさい」と挨拶をして行く。ひとりで外出する時にも、きちんと「行ってきます」と元気な声で言ったり、何がしかの会話をして出かけるようにしている。

 人間年をとると、いつ何時、何が起きるか分からない。外出時はおろか、家の中にいようが、就寝中でさえも同じことである。そうであるなら、日々の小さな別れが奥さんとの最後の別れになってもいいように、気持ちよく元気に挨拶をして、寝たり出かけたりする。そうすれば万一の場合でも、残された方に大きな悔いは残らないように思うと話していた。

 ハートリーが逝った日の朝、私はハートリーに声をかけずに出かけた。最後の瞳は見ていない。犬との別れでさえ、若干の悔いが今も残っている。そんなことを思っているとき、古い歌を思い出した。 

 ♪ 化粧の後の かがみの前で いつも貴方の 手を借りた 
   
背中のボタンが とめにくい 一人ぼっちの部屋で 
   
今は居ない貴方に そっとそっと おやすみなさい  ♪
 
 昭和45年に布施明が歌った「そっとおやすみ」という歌である。こちらは未練を残して別れた男に、そっとそっと「おやすみなさい」と挨拶をするお話。目の前にいない相手にさえおやすみの挨拶をしている女もいる。いわんや、四六時中顔を合わせて暮らしている我ら2人、出かけるときは明るく挨拶だけでなく、そっとハグくらいはしてみたいが、奥さんがな~
   (写真は、紅葉が始まった我が家の「花水木」)


おまえもか!

2011年10月10日 | 生活・ニュース

 この時期、毎年のことながら知人から白菜の苗をいただいている。「さあ、今日は天気もいいし、白菜の苗を植えましょうよ」。朝食を済ませ、新聞でも読んでみようかと思っているとき、奥さんから作業指示が飛んできた。麦わら帽子に長靴姿、格好ばかりは一人前。何から何まで、奥さんの指示に従い反論することもなく素直にお手伝いをした。

 苗を植え終わり、椅子に腰かけてひと休みをしているとき、奥さんが何やらポリ袋を持ち出してきた。「これも植えておきましょうよ」と、さらなる作業を促す。テーブルの上に置かれたポリ袋の中からは、何種類もの紙袋に入った種が出て来た。

 印刷してある産地を見て驚いた。絹さやえんどう、いんげん、小松菜、天王寺かぶ、法蓮草はアメリカ総太り大根はニュージランド。聖護院はイタリア。唯一、春菊だけが日本の京都産であった。 

 今日まで、スーパーで買ってきては、いろいろな野菜を食べて来た。その中でも、ピーマンとかブロッコリーとか、いかにも外来種と思われる野菜は別として、小松菜とか
聖護院などは純粋に日本産の野菜で、種はいうに及ばず当然国産品だとばかり信じ込んでいた。

 ところがそんなものまで、いつの間にか今では外国からの輸入品に変わっている。国産品もどこかではきっと売られているのだろうが、近くにある園芸店では、こんな状況である。

 近年、日本のカロリーベースの食料自給率は先進各国と比べても断トツの低さであると報じられていた。
2007年では、オーストラリア 173%、カナダ 168%、フランス 111%、ドイツ 63%、イギリス 65%、イタリア 63%。日本はわずか39%だという。

 カロリーベースで食料自給率を表す方法に若干の問題はあるようだが、米・小麦・トウモロコシ・大豆など、米以外の穀物はさることながら、菜園で育てればいいような園芸野菜の種までもが輸入品だという現実に唖然とする。

 工業立国のなれの果ては、食料自給率を先進国で最下位に落としめたばかりか、食物を育てる元となるその種さえも他国の手に委ねるまで、農業から足を洗ってしまっていることを知った。