米アカデミー賞受賞作「おくりびと」など数々に名作を手掛けた撮影監督の浜田毅が、紫綬褒章を受章した記事を新聞で読んだ。1951年、北海道生まれ。森崎東や深作欣二ら日本映画界を代表する映画に請われるようになっていたという。
「映画監督」という言葉はよく目にするが「撮影監督」という言葉はあまり目にしたことがない。一体どんなことをする人か。調べてみると「撮影監督とは、映画の照明と撮影、つまり画面に映る映像すべてにおいて責任を負う人」とある。
具体的には、撮影作業の中で、カメラを設置し動かす、照明を配置する、映像の構図を求める、レンズを選ぶなどの仕事で、映画の外観に対して責任を負うという点で、撮影監督は映画監督に次ぐ重要性を持つ。
映画監督が世界的な賞を受賞したという記事は今まで何度も読んだことはあるが、映画監督の影に隠れた存在の撮影監督がこんな立派な賞を受賞したということは大変珍しいのではなかろうか。その浜田毅は「どう撮るかではなく、何を撮るか。全てはそこから始まる」と言っている。
この言葉は、映画の撮影にとどまらずエッセイを書く上でも同じことである。琴線に触れるような出来ごとに出会ったとき、感動したり共感したりする。それをエッセイにするとき、どういう書き方をするか、どんな起承転結にするか、どんな形容詞を使えばいいのかではなく、何をテーマにして、読んでくれる人に何を伝えたいのかが明快であることが一番大切なことである。
いいかえれば、文章表現のテクニックのうまい下手の前に、何を伝えたくて書いているのか。その「何を」という取り上げたテーマの良し悪しでそのエッセイの良し悪しの大方は決まる。撮影監督の「何を撮るか」という言葉を読んで、エッセイの書き方のことに思いが至った。