ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(122)

2010-10-09 17:45:18 | Weblog



10月9日

 拝啓 ミャオ様

 前回からの、山登りの話の続きである。

 北海道の家を出て、二日間は雨で足止めをくい、次の涸沢(からさわ)までの一日は晴れたものの、翌日は雨で山小屋で停滞して、そして稜線に向かう今日は、またすっきりと晴れてくれた。
 私は、涸沢からザイテングラートの岩尾根の道をたどり、紅葉が始まったばかりの光景を前に、何度もカメラのシャッターを押しながら、ようやく、信州と飛騨とを分ける白出乗越(しらだしのっこし)の穂高岳山荘に着いた。

 (ちなみに、ザイテングラートとは、ドイツ語であり、主稜尾根に側面から分かれた支尾根、側稜(そくりょう)のことである。
 なぜに、この涸沢から奥穂に登る道にその名前がつけられたのか、それは恐らくには、当時のヨーロッパ留学などで、スイス・アルプスに登って帰国した若者たちが、よく似たアルプス的景観のこの穂高の山にと、名づけたのかもしれない。 
 昔の帝大生などの、ドイツ語を習い始めたばかりの若者たちは、自分たちだけに通用するある種の若者言葉として、普通の日本語の会話の中に、盛んにドイツ語の単語を入れて話していたようである。
 当時のことを書いている本の中には、シェ-ン・メッチェン(きれいな娘さん)とか、マイネ・リーベ(恋人)とかいった仲間内で話す言葉がよく出てくるからだ。) 

 さて、ザックを小屋において、軽装で奥穂高岳(3190m)に向かった。さすが日本第三位の高さの山であり、飛騨側から吹きつける風で、日陰の岩は一部分、凍りついていた。この後の、涸沢岳の岩場の下りのことが、少し頭をよぎる。
 それでも、素晴らしい天気の下、頂上に着くと、その広大に広がる展望に、これから先の懸念など忘れてしまった。

 東側には、八ヶ岳の山なみが見えていたが、富士山から南アルプスや中央アルプスに至る山々は雲海に囲まれ、所々に少し雲がついていた。
 しかしその手前、眼下に見下ろす上高地の景観は、まるで箱庭のような美しさだった。霞沢岳(かすみざわ、2546m)と焼岳(2444m)にはさまれた間には、梓川(あずさがわ)が流れ、上高地(約1500m)の幾つかの家並みや大正池が見え、目を上げると、南の彼方には、二つの3000m級の火山群、乗鞍岳と御岳(おんたけ)山が重なり広がっていた。
 
 西には遠く、ひとり白山(はくさん、2702m)だけが見え、その手前から北側にかけては、延々とこの北アルプスの峰々が連なっている。
 北アルプスで、最も魅力的な核心部の連なりである、この穂高連峰から槍ヶ岳へとつながる3000mの岩稜尾根は、槍の頂から二つに分かれて、一つは東鎌尾根から次第に高度を下げ、樅沢岳(もみさわ、2755m)で、西側に平行して並び続いてきた笠ヶ岳(2897m)からの山なみを併せて、さらに北西へと伸びて、黒部五郎岳(2840m)、薬師岳(2926m)から、遥かなる立山(3015m)、剣岳(2999m)へと続いている。
 樅沢の先、三俣蓮華岳(2841m)から分かれた尾根は、鷲羽岳(2924m)から野口五郎岳(2924m)、烏帽子岳(2726m)へと伸びて、さらには長大な後立山(うしろたてやま)連峰となって、針ノ木岳(2821m)から鹿島鑓ヶ岳(2889m)、五竜岳(2814m)、そして白馬岳(2932m)へと続いている。
 一方、目の前の、ジグザグの岩の稜線が印象的な、前穂高岳(3090m)の向こうには、梓川の対岸に、蝶ヶ岳(2677m)から常念岳(2857m)へと並ぶいわゆる常念山脈があり、さらに大天井岳(2922m)で槍の東鎌尾根から来た山稜と合流して、燕岳(つばくろ、2763m)から餓鬼岳(2647m)へと続いている。

 北アルプスの展望の山々としての魅力は、確かに日本有数の高山景観にあるのだが、さらには上にあげたように、二本から三本の主稜線が並行していて、互いの山なみを見ることのできる、ある種の配置の妙にもある。
 
 私はそれら北アルプスの峰々の殆んどに登っているし、この奥穂高岳の頂にも何度も立っている。しかし、そこからの眺めは、今でも飽きることはない。
 夏と比べればはるかに人は少なく、頂上の祠(ほこら)を祀(まつ)った所や展望台座付近に、数人の登山者たちがいるだけだった。
 それでも私は彼らから離れて、ケルンの立ち並ぶ山稜を少し先まで歩いて行き、眼下に涸沢と前穂高の岩稜を眺めることのできる、いつもの場所にまで来て、そこで腰を下ろした。
 遠くに彼らの声が聞こえていた。風も弱く、上に何かを着込むほど寒くもなかった。秋の北アルプス3000mのピークとは思えないほどの、穏やかな山の頂だった。

 大自然の広大な景観に囲まれて、ひとりでいることは、なんという大きな安らぎだろうか。
 子供の頃から今に至るまで、四季折々にそこに訪ねて行けば、いつも変わらずに、ただ黙って私を受け入れてくれる山々・・・。そのことを知っただけでも、私の人生は十分に意味のあることであり、この世に生まれてきたことに、ただ感謝するばかりである。


 前にも触れたことのある、旧ペルシヤの詩人、ハイヤームが書いた『ルバーイヤート』(平凡社 岡田恵美子訳)からの一節。

 「大初の神秘を、お前もわたしも知りはしない。
  その謎は、これから先も解けぬであろう。
  この世の垂れ幕のこちら側でいかに語りあおうと、
  幕が落ちれば、われらはもうこの世にいない。

  われらが消えても、永遠に世はつづき、
  われらの生の痕跡(こんせき)も、名ものこりはしまい。
  わらが生まれるまえ、この世に欠けたものはなにもなく、
  われらの死後、なんの変化もあるまい。」

 つまりそうした、変わらないだろう大自然に近づくことが、永遠へと近づこうとする、私たちのはかない夢、願いなのかもしれない。私もまた、限られた短い時間の中でしか、生きられない生き物たちの、ひとりであるから・・・。


 再び、白出乗越の小屋に戻り、一休みした後、涸沢岳(3110m)へと向かった。しかし、先ほどまで晴れていた奥穂から前穂の稜線には、少しだけガスの雲がかかり始めていた。
 さて涸沢岳からが、緊張する岩場の下りになる。しかし、時間がたち霜も溶けたのか、心配していた凍った岩は見あたらなかった。その上、人が少なく(北穂までの間に会ったのは、3パーティーの6人だけだった)、さらに、私は今までに何度もこの稜線を行き来しているのだが、毎回少しずつ鎖を張り巡らせた箇所が増えていて、そうびびるほどの所はなくなっていた。
 それでも途中からのぞく、切り立った岩壁の眺めは迫力がある。ガスは思ったほどには増えることもなく、稜線の草紅葉の彼方に、おなじみの、前穂の恐竜の背びれのような山稜が見えていた。

 途中で、写真を撮るために何度も休み、白出乗越から3時間近くもかかって、北穂高岳(3106m)北峰山頂に着いた。北側にさえぎることなく槍ヶ岳が見えてはいたが、しばらくすると東側からの雲に隠れてしまった。
 しかし、今日の7時間半ほどの行程は、もうここで終わり、後はこの頂のすぐ下にある北穂高小屋に泊るだけだった。
 
 槍・穂高間の大キレットをはさんで、その南と北にある、北穂高小屋と南岳小屋。この相対する二つの小屋は、北アルプスの中でも、特に展望に優れていることで有名であり、私の好きな小屋でもある。
 この北穂からの槍ヶ岳と、南岳からの穂高連峰。私は今までに何度、カメラのシャッターを押しただろうか。それでも飽きることなく、今回もまたやってきてしまったのだ。

 楽しみにしていた夕映えの光景は、遠くの白山方面がきれいだったけれども、槍ヶ岳は雲に包まれたままだった。
 しかし翌朝になると、周囲の山々の雲は取れていて、朝焼けの空の彼方に、妙高山、浅間山、八ヶ岳から、富士山と南アルプス(写真下)、さらには中央アルプスと、それぞれの山なみがはっきりと見え、待望の槍ヶ岳も朝日にうす赤く染まっていた(写真上)。 
 望むらくは、槍の頂上から稜線にかけてが、初雪にでも被われていればとも思うのだが、それはぜいたくというもの。
 
 さて、今日も快晴の空が広がり、後は眼下に見える涸沢に向かって、下るだけだ。着いた日からもう三日がたっている。下の紅葉は進んだだろうか・・・。
 この山の話は、さらに次回へと続く。

 ミャオ、家のカツラの木の黄葉も、始まるころだと思うのだが。

                       飼い主より 敬具             

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。