ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(97)

2010-05-06 20:51:08 | Weblog



5月6日

 拝啓 ミャオ様

 連休の間、全国的に良い天気が続いて、気温も上がり、各地の行楽地は観光客でにぎわったとのことだ。
 九州にいるミャオにとっても、それはもう寒さを心配しなくて良い、過ごしやすい季節になったということだろう。しかし一方では、この休みの間、そんな山の中にも、恐らくは田舎の景色を求めて、多くの人々がやって来たことだろう。
 知らない人を怖がるオマエにとっては、それは、心休まらない毎日だったに違いない。それまでのように、私と一緒に家に居られれば、そんな心配もなかったのに・・・、ごめんね、ミャオ。

 私も、この連休の間、ほとんど家に居たのだが、昨日は山登りに行ってきた。それまでは、晴れていても山がかすんでいたり、風が強かったりと、満足できる登山日和だとはいえなかったのだが、昨日はようやく山が見える天気になり、この後は天気の悪い日が続くという予報もあって、とりあえず、今の季節にしかできない山歩きをしたいという思いで、出かけてきたのである。

 目的は、去年果たせなかった、札内川右岸、トムラウシ沢源頭にある1278m峰である。4年前には、そのトムラウシ沢を挟んで反対側にある1263m峰に登って、そこから中部日高の山々を眺めることができたのだが、いかんせん余りにも回りに木々が多いヤブ山で、すっきりとは見えなかったのである。
 しかし、その時反対側に見えた1278m峰の頂は、前回(4月28日の項)の1151mコブの頂のように、木々を越えて雪の丸い盛り上がりが見えていた。あそこなら、最高の展望台になるはずだと思ったのだ。

 しかし、今日の天気は、午後から雲が広がるということだった。とすれば、なるべく早く登る必要があったのだが、このところの山がかすんでもやったような天気から、今日も無理だろうと準備もしていなかった。
 いつものように、朝日の昇る5時に起きると、窓の外には、山が見えていた。急いで朝食をすませて、準備をしてクルマに乗ると、もう6時に近かった。
 行く手には、日高山脈の白銀の峰々が立ち並んでいる。何度見ても心躍るひと時である。この山々たちとなら、いつまでも一緒に生きていけると・・・。

 札内川に沿って走って行くと、ところが、今年はもうピョウタンの滝先のゲートところで、通行止めになっていた。いつもなら、4kmほど先の札内ダムまで行けるのに。
 仕方なく少し戻って、ピョウタン園地の駐車場にクルマを停めて、そこから歩いて行く。しかし、足元は、雪山のためのプラスティック・ブーツだから、舗装道路では歩きにくい。
 30分ほどで、トムラウシ沢下降点につき、そこでアイゼンをつけて、雪の河原を歩いて行く。このところ初夏のような天気が続いていたから、朝なのにもう雪面は緩んでいて歩きにくかった。
 しばらく歩いて、川の反対側に渡り、尾根に取り付かなければならない。しかし、雪解け水で溢れる川を渡るのは大変だ。靴を脱ぐ手間をかけたくはない。何とか倒れた樹を利用して渡り、小さな沢から尾根に取り付こうとしたところ、目の前にヒグマの足跡があった。

 写真でも分かるように、ストックや私の足跡と比べてもかなり大きな足跡だ。それも私が向かう同じ方向を目指して、点々とついている。ツメの跡までが分かるから、比較的新しく、少なくとも昨日から、今日の未明の頃のものだろう。
 ヒグマはそう簡単に人を襲うことはないし、まして冬眠明けの体力が十分ではない時のヒグマだから、そうおびえることはないのかもしれない。
しかしこの足跡から見ても、相当の大物だし、これから尾根伝いで登るとはいえ、こちらはひとりきりだし、気になってしまう。(ヒグマに関しては、’08.11.14の項参照)

 さらに、これから登ろうとする道の尾根も心配だった。地図で見ても写真で見ても、上部での雪の乗った急勾配のやせ尾根は、このルートでの最大の難関にも思えた。
 さらに出発が遅れ、ゲートが手前で閉まっていて、余分な歩きで時間を取られたこと、天気も午前中までだということ・・・私は、あきらめるための理由を、自分に幾つも言い聞かせた。

 雪の沢を戻り、舗装道路を歩いて、私は駐車場に戻ってきた。1時間半ほどが過ぎていた。しかし、せっかくの天気の日に、このまま帰るわけにはいかない。
 そこで、前にガイド・ブックで見たことのある、このピョウタン園地(380m)からすぐに取り付くことのできる山、南札内岳(825m)に登ることにした。雪山の時期にこんな低い山では、せっかく出てきたのにもったいない気もするが、どこにも行かずに家に戻るよりは良い。

 案内板を見て、橋のたもとにクルマを停め、歩き出す。入り口には標識もなく、ただ工事現場のように、赤いテープが上部に向かって、幾つもつけられているだけだ。道は、茂るササに被われていて良く分からないが、右斜面に雪が残っているので、そこをたどって行く。
 所々雪が切れて、木々にテープがついている尾根通しに上がると、確かにササ刈りの跡があって、道がつけられていたことが分かる。しかしこの激しいササの勢いからすれば、もうほとんど廃道といってもいいくらいだった。
 再び戻って急な雪の斜面を登りきると、細い尾根になりササが途切れて、所々岩も出てくる。やがて、右側山腹からの、古い造材道跡らしい雪面と一緒になる。そこからは、はっきりとした2m幅ほどの雪堤が続き、歩きやすくなる。そして、ずっと下から続いている、シカの足跡もあった。
 この日は、下の帯広でも23度にまで上がるほどの暖かさで、溶け始めた柔らかい雪に足を取られて、途中で何度も腰を下ろして休んだ。
 静かなダケカンバの林が続く尾根の向こうから、もうルリビタキの声が聞こえている。この声を聞くと、もう初夏の山なのだと思う。

 ひと登りした尾根の途中が、南札内岳(825m)の山頂らしかった。赤テープが周りの木々に巻かれていて、測量ポールが雪面から出ていた。展望は、木々の間から低い山々が見えるだけで、これではつまらない。
 さらにその先に続く、尾根をたどって行くことにする。そこからは、人の足跡はもとより、もう赤いテープもなかった。ゆるやかに登ると、880m点の高みに着き、それまで見えなかった西側が開けて、木々の間から、白い山々の姿が見えた。
 良かった、ここまで来てようやく主稜線の山々を見ることができたのだ。右手のピラトコミ山(1587m)から続いて、1823m峰、1643m峰、コイカクシュサツナイ岳(1721m)、そしてヤオロマップ岳(1794m)である。

 ザックを雪の上に置いて、そこに腰を下ろした。11時15分、下から2時間半程かかっているが、前回と同じように、余りにも簡単な私の春山登山だった。
 今までの自分の、山行歴からすれば、いささか物足りなくも思えるが、そのような楽な登山に決めたのは、私自身であり、つまり妥協のなせる業でもある。冒険しないこと、余り疲れないこと、そしてそこそこに楽しめること。つまりいずれも若者ではない、年寄りの性向の表れなのかもしれない。
 それは、自分で恥じ入るべきことでもないし、自分の衰えを悲しむことでもない。大切なことは、自分なりにと意識して、自分なりにと実行するだけのことである。

 思い出したのは、あのドイツの哲学者、ショーペンハウアー(1788~1860)の言葉である。
 「すべて物事を局限するのが幸福になるゆえんである。我々の限界、活動範囲、接触範囲が狭ければ、それだけ我々は幸福であり、それが広ければ、苦しめられ不安な気持ちにさせられることもそれだけ多い。」(新潮文庫 「ショウペンハウアー 幸福について・人生論」 橋本文夫訳 )

 もっともこの言葉に批判がないわけではない、現代社会の、個別化、個家族化を予言しただけの、消極的幸福論に過ぎないという人もいるし、それもその通りではあるが、ここで立場を、普通の社会の枠から一歩外へ、自分だけの枠組みへと踏み出した人たちのために考えれば、それは、彼らへの救いの言葉になるのかもしれない。
 つまり、人は生きていく上で、いつも、自分で納得できる言葉の保障を求めているのかもしれない。

 下りは雪の斜面だから、早い。1時間ほどで降りてきた。空には、もう雲が広がっていた。私は、汗にぬれた衣類を、Tシャツに着替えた。クルマに乗って窓を開け、ゆっくりしたスピードで、川沿いの道を走って行った。
 平野の方には、まだ青空が広がっていた。それはこの連休の間の、私の、日高山脈への小さな雪山登山だった。

                      飼い主より 敬具