ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(98)

2010-05-10 18:46:49 | Weblog



5月10日

 拝啓 ミャオ様

 連休の頃、20度を越える暖かい日が三日ほどあったけれども、その他の日は10度から15度位までしか上がらず、朝はまだストーヴで薪を燃やしている。
 とはいっても、季節は明らかに進んでいく。二日前の雨の後、庭の芝生の緑が一気に広がり、枯れた色のままだったカラマツの枝先に、淡い緑色が見えてきた。
 そして、一際鮮やかな花の色の、エゾムラサキツツジも開き始めている。家の北側の軒下に、しぶとく残る雪も、もう一塊ほどになってしまった。
 林の中からは、ウグイスやセンダイムシクイの鳴く声が聞こえてきて、前の広い牧草地では、あわただしくヒバリがさえずり、その高い空の上からは、風きり音をたてながら、オオジシギが急降下してくる。
 北国の、春なのだ。

 一週間ほど前に、家の近くにある湿原に行ってきた時には、もうミズバショウの花が点々と咲いていた。そして、昨日、そろそろ良い頃合いだと思って、出かけた。
 牧草地の脇を通り、カラマツ林を抜けて、トドマツの植林地の斜面を降りて行く。沢水の音が聞こえて、すぐ目の下のところに、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)の、黄色い花に縁取られた沢が流れている。
 長靴を履いたまま、沢に降り、水の中を歩き、時には左右の小さな河原を歩いて行く。雪解け水でできた小さな沢や湿地には、ヤチブキの花が群れて咲いている。(写真)
 しばらく行ったいつもの所に、やはり今年もいっぱいに緑の葉を出している。アイヌネギ(ギョウジャニンニクと呼ばれるニラの仲間)である。

 そこで、ナイフを取り出し、三つ四つと一所から出ているもののうち、双葉のものを一つだけ、地面の茎の所から切り取る。こうしておけば、地下の球根は、また来年、しっかりと大きな葉を出してくれるからだ。
 ここは、私の他には誰も来ない。他の人たちが来る場所のように、取り尽されることはないから、毎年同じだけの野草の恵みに預かれるのだ。そんな群生地のいくつかを、歩いて周り、30分ほどで袋がいっぱいになった。
 帰りには、まだつぼみのヤチブキやオオバナノエンレイソウを、二つ三つ切り取って持っていく。花瓶に入れて、母の仏壇の前に飾るためだ。

 家に戻って、水を張ったタライにアイヌネギを入れて、軽く洗い、仕分けをして袋に詰める。幾つかは、楽しみに待っている友達にあげ、残りは冷凍しておけば、長い間、食べ続けることができる。
 ヤチブキは、もうおひたしにして食べたし、さらにこれから一ヶ月ほどの間は、ウド、タラノメ、フキ、コゴミ、ワラビ等が相次いで出てきて、山野歩きに忙しい時期となる。

 注意すべきは、ヒグマとダニである。まあ、ヒグマの方は、ひとりジュークボックス状態で、何か下手な歌うか口笛を吹き続けていれば、良いけれども、ダニは防ぎようがない。家に戻って、着ていた服を脱ぎ丹念に調べて、見つける他はない。
 しかし、髪の毛につくとやっかいだ。二三日は頭のあちこちがもぞもぞとして、髪の毛をかきむしるがどうにもならない。頭を洗っても、しぶとくて流れ落ちない。
 余りのことに、掃除機のホースを頭に当てて、吸い取ろうとする。しかしただでさえ薄い髪の毛が、ごっそりと吸い取られるのではという心配と、しかしいつまでも、このもぞもぞ状態には耐えられないという思いで、ためらいながらも、頭に吸い口を当てる。

 ばきゅーん・・・、あへー、気持ちいい、しかし毛が、毛が吸い取られるー、山火事の跡のようなわが頭になったらと思うと、恐ろしい、しかしやめられない。
 まったく、人が見ていたらなんと言うだろうか。で、結果としては、それぐらいでは、髪の毛にしがみついた、わずか1、2mmほどの大きさのダニを取ることはできないのである。
 そしてさらに一日二日して、全身の肌が敏感になっていた所に、頭にいたダニがそろそろと、私のまだかろうじて若さの残る、やわ肌に噛み付くべく、首筋辺りに下りてくるのだ。
 キターッ!。
 私は、それをつかみ取り、簡単につぶしはしない。セロテープで完全密封の状態にして、敵の正体をしげしげと見るのだ。そうしてできた、ダニの標本が、毎年、毎年増えていくだに。
 昔、母が元気な頃、この私の家に来て、野山を歩き回り、その後、二三日して、近くの温泉に入りに行った時に、ダニが体について膨れ上がっているのを見つけて、恐怖の叫び声をあげ、その声が風呂場全体にこだましたと、同行していた、叔母さんが話てくれた。

 都会にいれば、もうほとんど見られなくなったハエや蚊も、ここでは行列のできる家になるしまつだし、ダニの他にもアブや蚊と、人間の血を吸いに来る昆虫は多いのだ。
 都会で、暴れまわっている血気盛んな若者たちには、少し血抜きをしてもらうために、こんな田舎にでも来て、飢える昆虫たちのために、私の代わりのボランティア活動をしてほしいものだ。

 話は変わるけれども、同じ若者たちでも、真面目に勉学に取り組む者たちもいる。NHK教育TVで日曜日に放送されている、アメリカの名門、ハーバード大学の講義中継番組、『ハーバード白熱教室』、その大講堂で、教授の話を熱心に聴いている若者たちである。
 日本の大学のいい加減な講義風景とは、なんと違っていることだろう。恐らくはこの学生たちの中から、いつかアメリカを、世界を導いていくほどの人材が生み出されていくのかもしれない。

 今年の4月から放送されている、この『Justice(正義)』がテーマの、シリーズ番組のすべてを見たわけではないのだが、政治哲学講師の、マイケル・サンデル教授の語り口が、日本語字幕の翻訳者の力もあるのだろうが、わかりやすく、一時間もの間、退屈することもなく聞いて見ることができた。
 昨日は、特にドイツの哲学者、カント(1724~1804)の思想をもとに卑近な例を挙げながら、あの名著『純粋理性批判』の考え方の核心部分を捉えていく。学生たちとの、質疑応答を交えながらの話は、私にさえ、なるほどと思わせるものだった。
 こんな解説をしてくれる講師がいたのなら、若き日の私も、途中でカントの本を読むのをあきらめることはなかっただろうに。
 これからも数回続く予定の、彼の話が楽しみである。

 もう一つ、この番組の前の日に、NHK・BShi で『ショパン生誕200年記念ガラ・コンサート』の演奏会の模様が放映された。5年に一度の、あの有名なショパン・コンクールが開かれる、ポーランドはワルシャワ・フィルハーモニー・ホールでの、今年の2月29日の公演である。
 曲目は、ショパン(1810~1849)のピアノ協奏曲第1番ホ短調を、デミジェンコのピアノで、そして第2番ヘ短調の方は、あのキーシンのピアノで、オーケストラはいずれも、ワルシャワ・フィルである。

 有名な第1番の方を弾いたデミジェンコも悪くはなかった。しかし、なんといっても見所は、もう一つの方の第2番を弾いた、あの名手キーシンのピアノ・テクニックであり、まさしく脱帽する他はなかった。
 それは作曲したショパンの手を離れて、まさしくキーシンのピアノ協奏曲になっていたのかもしれない。彼の思うショパンの激情と叙情とが、鮮やかなコントラストとなって、描き出されていたからだ。
 演奏後、聴衆が熱狂の歓声を上げたのもうなずける。私でさえ、1番と比べれば余り演奏されることもなく、それまで強く意識して聴いたこともなかった、第2番ヘ短調の曲の認識が変わるほどの衝撃を受けたのだ。
 作曲者、楽譜、演奏者の関係を、再び考えさせられた。誰が正しいとかという問題ではなく。音楽は生きているし、時代と伴に変わり得るものなのだ。

 いつも言うことだが、良い時代になったと思う。わずか2ヶ月ほど前の外国でのコンサートを、鮮やかな画面のハイビジョン放送で見ることができるのだから。そこでは、キーシンの細かな表情はもとより、その演奏ぶり、鍵盤に叩きつける彼の運指法まで、はっきりと見て取ることができるのだ。
 さらにその数日前から、私はテレビの音楽番組の時に特に気になっていた、劣悪なスピーカーの音に、とうとうガマンできなくなり、とりあえず、まず簡単に安上がりに良い音に変えること、すなわち、イヤホーン端子にパソコン用の安いアンプ内臓の小型スピーカーを取り付けて、聞いていたからだ。
 それだけでも、もう音は、一聴瞭然(いっちょうりょうぜん)の違いだったのだ。

 あの神童と呼ばれ、年少の頃からの超絶技巧をもてはやされていたキーシンも、もはや39歳になっていたのだ。奇しくもショパンは、同じ歳にこの世を去っている。
 アンコールで弾かれた、ワルツの2曲はともかく、エチュードの『革命』の、凄(すさ)まじい演奏は、遠く離れた地に居て、他国に支配された故国を思う、ショパンの怒りと熱情に満ちた激烈な感情を、キーシンはそれ以上の、溢れる音の響きで表現していたのだ。
 作曲者の意図したもの、その解釈の良し悪しを越えて、演奏される音楽が作り上げていく、人間の思いとは・・・。

 ミャオへの私の思いを、どうしたら伝えられるのだろうか・・・。

                      飼い主より 敬具


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