ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(100)

2010-05-20 18:23:35 | Weblog



5月20日

 今日は、雨の一日になったけれども、それまでは天気の良い日が続いて、気温も毎日、20度前後まで上がっていた。

 そして、一気に、北国の春が押し寄せてきた。
 見る間に、庭の芝生が、全面の緑に被われ、シバザクラが点々と花をつけ、チューリップの花がいっせいに咲き始めた。
 エゾヤマザクラが開花して、キタコブシの白い花も開き始めた。周りの林の木々の枝先は、緑や赤みがかった若葉でいっぱいになり、見上げると、カラマツの並木はいつの間にか、すっかり緑色になっていた。
 朝日が差し込み始めた林の中から、鳥たちの声が聞こえていた。

 日が十分に高くなったころ、外に出て、畑仕事に取りかかる。スコップで土起こしをしていた所に、枯葉や生ゴミなどで作っておいた堆肥(たいひ)を入れ、さらに肥料などを入れて、畝(うね)作りをしていく。
 そこに、ジャガイモのタネイモを入れ、キャベツの苗を植えていく。トマトの苗は、まだ霜が心配だから、来月になってからでもいいだろう。
 毎年出てくるアスパラの根元に肥料をやり、越年のイチゴの苗を植えかえる。

 というと、たいした仕事に思えるが、一人で食べるだけだからということもあり、さらに本来のグウタラな性格もあって、土地は広くあるのに、わずか猫の額(ひたい)ほどの広さしか耕していないから、簡単に終わる仕事なのだ。
 ああ、ミャオ、それはオマエの額と比べて言ったのではないよ。あくまでもたとえだから。

 一息ついたところで、家の林の中を歩き回る。木々や草花の芽吹きなどを見るためだ。その中でもすぐに目につくのが、あのオオバナノエンレイソウだ(写真)。
 毎年毎年、写真に撮っているのだが(’08.5.18、’09.5.13)、あきることはない。大きな葉の上に、そのさえざえとした白い花がついている。そしてかすかに、風に揺れている。
 前にも書いたように、この十勝地方には、オオバナノエンレイソウの群生地が、幾つもある。家の林の中に咲いているのは、ほんの少しだけれども、毎年咲いてくれるその姿を見るだけでも、心洗われる気がする。

 林の間から、日高山脈の山々が見える。しかし、気温が高いために、春がすみのように、かすんでいる。
 恐らくは、この気温の高い数日の間に、一気に雪解けが進み、山は冬の姿から、残雪の山の姿へと変わっていることだろう。やはり、私が登ったあの日だけが、空気も澄んでいて、ベストの時だったのだ。ありがとう、山々たち。

 ところで今日は、一日中、雨が降り続いていて、気温は朝から殆んど上がらず、8度という肌寒さで、家の中ではストーヴを燃やしている。しかし、久しぶりのこの雨は、広く地面に染み渡り、木々や草花をうるおすだろう。
 窓の外に見える、新緑の木々の枝先や、緑の草花たちが雨にぬれて、かすかに動いている。朝のうちのあれほど鳴いていた、小鳥たちの声も聞こえない。雨の音が聞こえるだけの、静かな、午後だ。

 私は思う。私は、つまるところ、この静けさを求めて生きてきたのではないのかと。自分の望まないイヤな音を聞かないために、余分な音に満ち溢れた所から離れるために。
 それは、人間であることの、小さなわがままなのかもしれない。その自由な思いを貫くために、私は、幾つもの不自由さに耐えてきたのだ。
 そして、今ではもうその静けさの中で暮らすことに、慣れてしまった。けれども、それは、静けさに厭きてしまったということではない。静けさの中にいることが、当たり前のことになってしまったのだ。
 その静けさは、いつの日にか訪れるだろう、大いなる静寂、沈黙の世界へとつながっているのかもしれない。今のうちから、その沈黙の世界に、慣れておくということではないのだけれども。

 5月6日の項で少し触れた、あのドイツの哲学者、ショーペンハウアー(またはショーペンハウエル、1788~1860)の言葉を、さらにもう少したどってみたい。

 「われわれの境遇がなるべく簡素であれば、いや生活様式が単調だとというだけでも、そのために生活そのものの意識、ひいては生活に本質的に伴う負担の意識が最も少ないのだから、それが退屈を生じない限り、われわれは幸福になるわけである。
 このような生活は、波も立てず渦も巻かず、小川のごとく流れていく生活である。」
 「だから『幸福は自己に満足する人のものである。』というアリストテレスの言葉を、何度でも繰り返してみるがよい。」

 名著『意思と表象としての世界』で、世界の本質は「生きようとする意志の力」であるとした彼の思想は、生の哲学であり、その後の実存主義哲学の先駆でもあるといわれている。しかし一方では、彼は無心論者でもあり、近代厭世(えんせい)哲学、ペシミストであるとも言われている。
 つまり、生の哲学と厭世哲学という相反する彼の評価こそが、上にあげた消極的幸福論とでもいえる言葉に、つながっているのかもしれない。ショーペンハウアーの本を読む時、私はいつも、日本人として、あの兼好法師の書いた『徒然草(つれづれぐさ)』を思わずにはいられないのだが。

 ちなみに彼は、33歳の時、早くも大学講師の職を辞し、43歳の時には田舎に隠棲(いんせい)し、生涯を独身ですごしたとのことだ。

 そういえば、ミャオも無神論者だし、母親が傍にいた子猫のときを除けば、生涯独り身だったし・・・。

                      飼い主より 敬具

参考文献: 『幸福についてー人生論ー ショーペンハウアー』(橋本文夫訳 新潮文庫)、ウィキペディア他。