5月30日
拝啓 ミャオ様
青空が広がり、彼方には、まだ残雪豊かな日高山脈の山々が立ち並んでいる。家の周りは、萌え出づる新緑に被われ、さわやかな風が吹き渡っている。
色鮮やかなチューリップやシバザクラの花が、庭のあちこちにいろどりを添え、スモモの花も、咲き始めた。
林の中から、鈴を転がすようなキビタキのさえずりの声が聞こえてくる。気温17度、なんというすがすがしい日なのだろうか。
皆が元気に生きている、その声に満ち溢れた北国の春なのだ。
しかし、その前の一週間は、春とは思えないほどに、暗くて寒い日が続き、気温は10度にも満たず、薪(まき)ストーヴに火をつける毎日だった。
ようやく、全道的に晴れマークが出た昨日、私は、待ち望んでいた山登りに出かけた。前回と同じように(5月16日の項)、またしても土曜日になり、人出が多くなる日を避けたい私には、少しためらいがないでもなかったが、そんなぜいたくを言っている場合ではない。
晴れた日には、山に登って、美しい山々の姿を楽しむこと。まさに単純な、私の人生のテーマである。生きている間にできることはそう多くはない、余計な理屈を考えずに、実行していくだけのことだ。
しかし、年のせいかグウタラと支度をして、またしても出かけるのが遅くなり、十勝三股の林道入り口に着いたのは、7時過ぎだった(今頃の北海道の日の出は4時前)。
そこから、十六の沢林道に入って行く。前回の林道の時と同じように、今年は雪が多いから、まだ林道には残雪が残っていて、恐らくは終点の杉沢出合いまでは行けないだろう。
それでも、かなり入った所で、車が一台路肩に停まっていた。私もその先で停める。
プラスチック・ブーツをはいて、身支度を整え、林道を歩いて行く。そこには、まだ新しい大型四駆のタイヤ跡が続いていたが、先のほうの土場(伐採集積地)跡に、その車も停まっていた。
その先は、50cmほどもある残雪が道いっぱいにあって、そこに登山靴の足跡がついている。前回と同じように、その跡をたどって行けるので幾らかは楽なのだが、誰もいない道をたどる、小さな冒険心の楽しみは薄れることになる。
谷間の林の上に見事な青空が広がり、白い山なみが見えてきた。ニペソツ山群の北端にある、小天狗(1681m)である。今回目指すのは、その後にある1618mピークである。
今回、なぜこの無名の山を目指したかというと、第一の目的は、東大雪の名峰、ニペソツ山(2013m)の姿を眺めるためである。
ずいぶん昔のことになるが、まだ私が、北海道に憧れ、北海道の山々に登りたいと思っていたころ、是非とも登らなければならない山の一つが、ニペソツ山であった。
おおらかな広がりはあるけれども、アルペン的な山容の山が少ない北海道の山々の中にあって、日高山脈の幾つかの峰々と、このニペソツ山、石狩岳、利尻山などは、写真で見ると、北アルプスのような峻険(しゅんけん)な岩稜に縁取られた見事な姿で、日ごとに私の思いをかきたてたのである。
そのニペソツ山には、その後、誰もが感動するあの前天狗からの初対面をして以来、春、夏、秋と、4度ほど登っている。そして、そのたびごとに、前天狗のコルからの、颯爽(さっそう)としたニペソツ山の眺めに、見とれるばかりだったのだが、さらに他にも、少し離れた所からその姿を眺めてみたいと思っていた。
西側の、大雪、十勝岳連峰から見る、その侵食された山ひだの西面の姿も悪くはないのだが、あのニペソツ山の東壁が隠されてしまい、長い頂稜とあいまって、どうしても今ひとつの感を否めない。
とすれば、東側、あるいは南北側からの眺めである。東に相対する山は、クマネシリ山群の山々(1635mの西クマネシリ岳など)であるが、それらの山からニペソツの東壁は望めても、南北に続く頂上稜線が少し間延びして見える。
東側からの迫力ある東壁を望むのは、もっと近くから少し振り仰ぐ姿になるが、下の糠平(ぬかびら)湖岸、糠平ダム堰堤(えんてい)、あるいはホロカ山(1166m)辺りからの方が良いと思う。
そして、南北方向からだが、実はこの方向からの方が、東壁は多少隠されるけれども、長い頂稜が引き締まった形になり、東壁に落ちる山頂が鋭くとがって見えるのだ。
まずは、南側のウペペサンケ山(1836m)からだが、東壁も見え、確かに山稜も引き締まるが、あの北アルプスの白馬鑓ヶ岳(しろうまやり)に似た感じで、むしろ重厚な山体になり、今ひとつ鋭さにかける。
ただしそのまま、ウペペから西に山稜をたどり、東丸山(1688m)辺りに来ると、西側山腹に、火山の山らしい裾野の広がりが見えてくる。
その優美な山すその広がりは、その北にある丸山(1692m)の頂に立った時に、最高の姿となる。様々に変化する、ニペソツ山の姿の一つである。
最後に北側では、石狩、音更連峰からの眺めになるが、その稜線にあるニペの耳(1895m)や石狩岳(1966m)などからは、鋭さはあるのだが、今ひとつ形がまとまらない。むしろ音更山(おとふけやま、1937m)まで下がるか、さらに言えば、石狩岳へのシュナイダー・コース途中からの、天を突くような姿の方が素晴らしい。
さらに離れた十石峠(じゅっこくとうげ、1576m)、ユニ石狩岳(1756m)方面からは、裾野を引く火山系山体の上に乗った、天狗岳(1868m)とニペソツ山という姿になるが、その鋭い山頂の形も悪くはない。
今回は、その十石峠方面からいつも眺めて目をつけていた、方角的に延長上にある、小天狗北のコブ、1618m標高点を目指すことにしたのである。新たなニペソツの姿を見つけるために。
先行者の足跡をたどり、樹林帯を登り、ハイマツの尾根に出る。見晴らしが開けて、青空の下、正面に天狗岳、左にまだたっぷりと雪をつけたウペペサンケ山が見える。
小天狗へと続く雪堤(せきてい)の途中から、先行者の足跡は左へトラヴァースして、天狗、ニペソツ方面に向かっている。ここからは、足跡のない、すっきりと広がる雪面を歩いて行けるのだ。
ひと登りで、小天狗の山頂に着く。一気に西側の展望が開けて、石狩連峰から、トムラウシ山、十勝岳連峰の姿が素晴らしい。しかし、ニペソツ山は、南側に立ちはだかる天狗岳の後になってまだ見えない。
一休みした後、山頂から1618mピークへと続く尾根へと降りようとするが、所々出ているハイマツと雪に足を取られて一苦労する。やがて、低いダケカンバの斜面になって、雪質も落ちつき、さらに下ると、すっきりと広がり続く雪堤が、1618mピークへと続いている。
誰もいない、ただひとりの雪の回廊(かいろう)を、さくさくと足音だけを立てて歩いて行く。正面に盛り上がる1618の山頂、その右に石狩連峰が連なり、三国峠へと続いている(写真)。その下には、十勝三股の樹海が広がってる。空は晴れて、やさしい風が吹いていた。
私は、何度も立ち止まっては、その景色を眺めた。この1キロ余りの雪堤の道こそ、まさに”天国への1マイル”と呼ぶにふさわしかった。
西行法師の有名な歌にあやかって、私もつぶやいてみる。
『願わくば、雪の上にて春死なん、その山々の皐月(さつき)のころ』
最後の雪堤の登りが終わると、意外に広い1618mの頂上に着いた。4時間ほどの行程だった。
期待したニペソツ山の展望は、ここからだと、手前の天狗岳の連なりと並んだ形になり、その鋭い形の片鱗(へんりん)はうかがえるものの、今ひとつ抜きん出て屹立(きつりつ)するほどの姿にはなっていなかった。
しかしそれ以上に、私を満足させたのは、やはり十勝三股の樹海の上に、さえぎることなく続く石狩連峰の眺めであった。
40分ほど頂上にいたが、南側に少し雲が広がってきて、戻ることにした。雪堤を下り、振り返り山々を眺めながら、”下界への1マイル”を歩いて行った。
ニペソツ山の、期待の展望は十分にはかなえられなかったが、それでも、あの”天国への1マイル”への道をたどれたことは幸せだった。
1週間もの、暗い日々が続いた後、それは私の前に開けた、幸運なめぐり逢いのひと時だったのだ。ありがとう、1618mピーク。
これからは、何と今までとは逆に、1週間もの山登り日和の晴れた日が続くとの予報だが、残念ながら、私は北海道を離れなければならない。ミャオが待っている九州へ、戻らなければならない。
こうして、私が良い思いをした後は、今度はミャオが良い思いをする番なのだ。ミャオ、もうすぐすると、毎日、あの生魚を食べられるようになるからね。待ってておくれ。
飼い主より 敬具