ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(116)

2009-12-01 17:56:46 | Weblog



12月1日

  朝のうちに、少し日が差していても、すぐに雲り空になって、夕方から夜には、時折小雨が降るという日が続いていた。気温も10度くらいまでしか上がらない。午前中に、飼い主と散歩に出かけたりはするが、ほとんどは、暖かい家の中で寝ている(写真)。

 夜になって、さすがに、一日中、鬼瓦顔(おにがわらがお)の飼い主の顔ばかり見ていると退屈してしまい、少しばかりの刺激を求めて、夜の闇の中に出て行く。しかしそれも、トイレのついでに、家の周りを点検するくらいだから、そう長い時間ではない。
 思えば、ほんの二週間ほど前までは、半ノラのつらい毎日を送っていたというのに、もうそんな苦労などは忘れてしまった。ワタシたちネコは、今、居心地の良い暮らしをしていれば、それだけで十分であり、なにもつらい昔を振り返る必要などはないのだ。
 苦労したことは、経験としてしっかり憶えてはいるが、人間のように、今あえて思い出して、過去を偲(しの)ぶよすがとしたり、あるいは未来への足がかりにしたいなどとは思わないからだ。

 つまり、ワタシたちネコ族は、人間ほどには、苦労の代償としてのぜいたくを望んだり、さらなる欲望に駆られたりはしないものなのだ。取り立てて不満のない、心地よい今があれば、それで十分である。
 それなのに、人間たちは、ワタシたちのこの小さな幸せを小馬鹿にして、微笑むだけだ。そして、自分たちはといえば、ひたすら貪欲に、それ以上のものを追い求め、気ぜわしく走り続けている。ワタシたちネコの手元には、自分の持ちものなどない。しかし、人間たちは誰でも、自分の手に余るほどのものを所有している。それほどもあるのに、まだそれ以上に際限なく、欲しがろうとするのだ。
 そのために、一喜一憂しては、思い悩み、他人を見下しては、勝ち誇り、負けては落ち込む。人間たちは、この地球上の生物界では、唯一、例外的な存在なのだ。全く、恐るべき生き物だと思う。その彼らが、その地球さえも、破壊し尽くそうとしているのだから。
 モンスターとは、そんな人間たちのために作られた言葉に違いない。

 しかし、ワタシたちネコは、その人間に飼われているのだから、文句を言う資格などないはずだ、飼い主の人間が飢えれば、ワタシたちは、すぐにでも捨てられ、最悪の場合、殺されたり食べられたりもするのだから、というお定まりの反論をする人たちがいるものだ。
 そういう身勝手で、自分の側からだけの論法は、一見筋が通っているように見えて、実は恐るべき個人主義の悪意が込められている。

 これは飼い主から聞いた話だが、飼い主が若いころヨーロッパを旅していた時のことで、たまたまその時、安宿から同行していた若い男が、駅のホームからゴミを捨てるのを見て注意したところ、その若い彼は言ったそうだ。「オレが、ゴミを捨てるから、そのゴミを掃除する人が必要になる。つまり、オレが彼の働き口を与えているようなものさ。」

 今の世界にまかり通る人間たちの理論は、そうした類のものなのだと思う。世界の自然環境の変化や、リーマン・ショックの経済不安くらいでは、まだまだ自分たちの深刻な状況が分かっていないのだ。
 この生物界では、飛びぬけて優れた頭脳を持ちながら、その人間が最終的にたどり着くのは、自分たちの母なる地球を破壊することなのだ。
 飼い主が言っていたが、先ほど亡くなった現代思想界の巨人、レビストロースの本には、「この地球は人間なしで始まって、人間なしで終わる。」と書いてあったそうだ。
 と、まあワタシが考えた所で、それこそ、昔、この家のおばあさんが良く言っていた、「犬の臓(ぞう)にもならん」(何の役にも立たない)ことなのかもしれないが。

 今朝は、久しぶりに冷え込んで、マイナスの気温だったが、空はすっかり晴れ上がり、ベランダにも日が差しこんできて、暖かくなってきた。飼い主が、そのベランダにござを敷いて、ワタシを呼んでいる。いつもの、ブラッシングをしてくれるのだ。
 よっこらしょと起き上がり、ほいほいと歩いて行く。明るい日差し溢れるベランダに出る。ニャーオ。

 
 「ブラッシングをしてやって、気持ちよさそうに寝ている、ミャオを見ると、私の心も、柔らかく、ブラッシングされるようだ。
 ミャオは、私がいない時は仕方なく半ノラなって、ひとりっきりの、つらい時を過ごさなければならない、だからこそ今は、しっかりと可愛がってやらねばと思う。
 実は、先日、私がいない間、いつもミャオにエサをあげてくれているおじさんから、「そういえば・・・」と、話を聞いたからだ。
 私が、戻ってくるしばらく前まで、ミャオは夕方になると、それまでのネグラだった、あのポンプ小屋(’08.11.21の項)の方からではなくて、何と家の方からやってきていたというのだ。
 つまり、ミャオは、ずっと家のベランダで寝泊りをして、私を待っていたのではないのか。だから、私が戻って来た時には、すぐに、ベランダでニャーと鳴いたのだ(11月20日の項)。
 さらにおじさんが言うには、ミャオの恐るべき敵であったあのマイケル猫が、しばらく前に、少し離れた所にある橋の上で、何と、車にはねられて死んでいたとのことだ。

 ミャオとマイケルの間の関係は、愛と憎しみがせめぎ合う壮絶な物語であり、ミャオはそのために手ひどい傷を受けて、命さえ危なかったほどなのだが、それらのいきさつについては、これまでに詳しく書いてきた。(’08.2.15~17、’08.4.14~4.25、4.30等の項)
 つまり、今までミャオは、その怖い敵であったマイケルが、家のベランダにもやって来ていたために、自分の家にさえ近づくことができなかった、がしかし、今度私が帰って来た時に、そのベランダにいて私を待っていたということは、もうマイケルが死んでいなくなっていたからなのだ。
 他のネコが来ることもない、そのベランダで、ミャオは終日を過ごし、いつになるかも分からない私の帰りを、ひたすらに、待っていたのだ・・・。

 ミャオは、日の光を浴びて、寝ている。私が、立ち上がろうとすると、少し目を開けて、ニャーと鳴く。どこにも行かないからね、ミャオ。」