ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(117)

2009-12-05 17:29:42 | Weblog



12月5日

  一昨日のことである。その日は、飼い主と一緒に、いつもの散歩に出かけた所で、なぜか気が進まなくなり、家の前で座り込んでしまった。
 飼い主は、動こうとしないワタシを見て、家に戻ってしまった。ワタシも、その後から家に戻り、ずっとコタツの傍で寝ていた。
 毎日やっていることでも、どうしても気が乗らない時があるものだ。人間の場合は、仕事として、そんな時でもやり続けなければならないのだろうが、ワタシたち動物は、そうではない。やりたくないものは、ただやらないだけだ。
 そういうふうに、ワタシたちがなったのは、つまりそういう性向になったのは、一つには、ワタシたちの本能から来るものだろう。神様がささやくのだ、何か良くないことがあるから、やめるべきだと。
 思えばその時、ワタシの体調は今一つすぐれずに、鼻の頭も乾いていたし、ただこのまま寝ていたかったのだ。

 そして夕方になって、いつものように生ザカナをもらい、バリバリと食べると、ワタシの体に元気がみなぎってきた。家の中を、ダダーっと走り回った後、ベランダに出て、辺りを見回した。
 そこでしばらく、観察していると、すっかり薄暗くなった庭の端の草むらで、何か動くものがある。ワタシはベランダから庭に下り、忍び足で草むらに近づき、そこで辛抱強く待った。

 待つこと。これほど、私たち動物の特性を表わすものはないだろう。人間も確かに待つのだろうが、その時間は短く、いつも周りの誰かに待つことの不平を口にしながらだ。
 とその時、再びかすかな音がして、動くものがあった。ワタシは、目を見開き、緊張で毛を逆立てながら、自分の体を低くして身構えた。
 来た。その瞬間、ワタシは、反射的に獲物に飛びかかった。ワタシの鋭い爪が、相手の柔らかい体に食い込む。さらにもがこうとする相手の首元にも、ガブリと噛みついた。
 獲物は、小さなネズミだ。動けないほどに強く噛みついた後で、押さえていた前足をはずして、くわえたまま、ベランダに上がり、家に入って行った。飼い主に見せなければ。


 「外に出ていたはずのミャオが、鳴いている。ミャオは、外から帰って来た時には、いつも一声鳴いて、私に知らせる。しかし、二度三度と鳴きやまない。
 サカナはやったばかりだし、ミルクでもほしいのか、よっこらしょと腰を上げて、居間に行ったところ、ミャオの姿が見えない。あれっと思って、声をかけると、鳴き声は何とテーブルの下からだ。
 また他のネコと争って、ケガをしたのだろうか。腰をかがめて覗き込んで見る。別に、普通にミャオは座っている。しかし、その前に、なんとネズミが一匹。

 また、取って来たのか。ミャオは、目を見開いたまま、ニャーオと鳴く。まだ興奮が収まらないミャオを、なんとか獲物から引き離し、ネズミを紙に包んで取り上げた。
 体長6cmほどの、小さなカヤネズミだ。まだ温かみが残っていたが、もう絶命しているらしく、ピクリとも動かない。
 立ち上がった私を見て、ミャオがしきりに鳴く。そのまま、ミャオを家の中に閉じ込めて、外に出て、死んだネズミを土の中に埋めた。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。

 しかし、死体になってしまっても、どんな小さな生き物の体でも、それをエサとする動物たちはもとよりのこと、植物たちにとってさえ、次の世代を生むための有用な栄養源になるのだ。人間を除いて、この生物界に無駄な仕組みなど何もないのだ。

 そういえば、前に読んだことのある本の中で、映画監督の羽仁進氏が、話していたことを思い出した。少し長くなるが、引用(一部略)してみる。

 『・・・ある時、三十頭くらいのライオンの群れが、一頭のバッファローを狩りで仕留めたんです。ライオンが食べきれないで残ったバッファローには、ハゲタカの群れがやってくる、ハイエナも来る、ジャッカルも来る。小さな虫の類もたくさん来る。
 翌朝の八時くらいになると、一本の大きな骨になる。それも微生物の作用なんかでどんどん分解されて、数週間すると頭の一部くらいしか残らない。
 そういうのを何度も見ていると、動物は死んでも、何百という大小の生きものの新しい生に生まれ変わるんだな、ということがわかるわけです。その生命体が死ねば、それもまた次の生命体に食べられてその中に組み込まれていく。
 地球上に総体としての生命が続く限り、生命というのは死ぬことがない。そういう全体像が見えてくると、個体の死なんていうものは大したことがないと思うわけです。
 (ただし生きている個体の側の視点からいうと)、個体には、生きようとするものすごい意欲が与えられている。』
 
 (『証言・臨死体験』 立花隆著 文春文庫より。ついでに、この本とそれに先立つ『臨死体験(上)(下)』は、もう十年以上も前に評判になったものであるが、神秘的な世界と科学の世界のはざまにある問題を取り上げた、優れたノンフィクション・シリーズである。)

  ともかく、そうして難しく考えなくても、ミャオがネズミなどの獲物をとることは珍しいことでもなくて、ネコの本能という以上に、半ノラとして暮らしていたミャオの日常を、私に教えるものでもある。
 今回は、サカナを食べたばかりの後だったからだけれども、半ノラの時なら食べていたかも知れないのだ。
 今まで、私が傍にいる時に見ただけでも、ネズミやモグラは数匹くわえてきたし、蛇とも闘い、最近ではトカゲも取って来たし(9月1日の項)、小鳥も数羽は見ているし、何といっても忘れられないのは、あの大きなキジバトを捕まえてきて私の目の前で食べたことである(’08年3月9日の項)。

 こうしたミャオの狩りの行為は、もちろん非難されるべきことでもなく、またあえて、ほめてやるべきことでもないのだが、そうすることについては、むしろ長い不在の期間を作る飼い主の私に、その責任の一端があることだけは確かだ。良し悪しはともかくとして。

 二日ほど前の新聞に、ある有名な女性タレントの飼い猫が、写真入りで紹介されていた。他にも同居するネコがいて、それなのに拾ってきた猫だそうだが、美人の飼い主と一緒に写っているその元気そうな猫は、なんと19歳とのこと・・・。
 ということは、年寄りネコだと思っていた家のミャオは、今、14歳くらいだから・・・。
 ニャーオ、おー来たかミャオ、よしよし。」