ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(119)

2009-12-14 19:34:32 | Weblog



12月14日
 
 ようやく晴れて、青空が広がり、所々に白い雲が浮かんでいる。
 朝、飼い主と散歩に出たのだが、家から少し行った日当たりのよい所で、ワタシは座りこんでしまった。飼い主は、ワタシの気持ちを察して、散歩に行くことをやめて、ワタシに声をかけ、一緒に家に戻った。
 そして今は、ベランダにいるというわけだ。このところあまり晴れた日もなかったから、今日は久しぶりに、自分のいっちょうらの毛皮干しができるのだ。

 部屋の方からは、飼い主の聴く、外国の古い時代の音楽が聞こえてくる。飼い主が、どんな音楽を聞こうと、ワタシはあまり興味はない。外で時々聞こえる、鳥たちの声や、梢を渡る風の音だけで十分だ。
 今は、風の当たらない、日当たりのよいベランダで寝ている。家には飼い主もいる。それで十分だ。


 「天気が悪い上に、長い間風邪をひいていて、何もする気がせず、何という九日間だったことだろう。ようやく今日辺りから、体調が元に戻り始めたようだ。
 四日前に、風邪は治りかけていたのだが、大した意味もないこのブログの記事を書いたり(前回)、他の仕事をしたり、寒い中ミャオと散歩に出たりしていたために、風邪が長引いてしまったのだ。
  熱もなく、咳も出ず、ただ頭が痛くて、少しボーッとしているだけなので、日常生活で困ることはなかったのだが。もっとも、私はいつも、ボーッとした人生を送って来たようなもので、生まれてこの方、ずっと人間社会への対応免疫が十分ではなかったために、いつも風邪をひいていたのかもしれない。

 ところで、そんな風邪をひきながらも、出かけていたミャオとの散歩だが、その道すがらには、所々にサザンカの花が咲いている(写真)。
 冬の間は、他に殆ど花が咲いていないのに、このサザンカだけが、鮮やかな花を咲かせている。赤の他にも、樹によっては、薄紅、桃色、白などの花もあるが、やはり常緑の緑の葉には、このサザンカの赤い色が良く似合う。
 まだまだ蕾がいっぱいあるから、冬の間中、咲き続けてくれるだろうし、その甘い蜜は、メジロやヒヨドリたちにとっては、冬の間の大切なえさ場にもなる。
 
 冬の花と言えばサザンカだが、その花に代わるようにして、冬の終わりから春にかけては、同じ仲間のツバキの花が咲く。どちらも、厚い常緑の葉を持った亜熱帯系出身の樹なのに、どうしてこんな寒い時期に花が咲くのだろうか。

 サザンカの花は、その花びらの一枚一枚が、樹の根もとに散り落ちて、きれいな模様になるけれど、ツバキは潔(いさぎよ)いというべきか、花ごとにぼとりと落ちる。
 はっきりとは覚えていないのだが、ある人の家を訪ねた時に、その落ちてきたツバキの花が一輪、白い小皿に活けられていたのを見たことがある。元来ツバキは、その花が首元から落ちるので、余り生け花には使われていなかったのだが、その時の白と赤の色が、今も鮮やかに、脳裏によみがえってくる。
 
 サザンカからツバキの花を思い出し、そして『赤い椿の花』という小説を思い出した。今はもう、知る人も少ない田宮虎彦(1911~1988)の書いた小説である。
 その古い文庫本が今も私の手元にあるのだが、この田宮虎彦は、学生時代になぜか心惹(ひ)かれて、彼の書いた幾つかの短編小説を、次々に夢中になって読んだことがある。

 実は、その時に彼の小説を思い出したのは、サザンカの花を見たからというだけではなかったのだ。その前の日の夜、たまたま見ていたテレビの番組の中で、あのアニメ番組として有名だった『フランダースの犬』が、ほんの10分足らずのダイジェスト版ドラマとして、紹介されていた。
 その時に、番組の数人のタレントたちと、そこに参加していた数十人ほどの女の子たちも一緒に見ていたのだが、そのうちの何人かが涙を流していた。私も、思わず涙がこぼれてしまった一人なのだが、その時のことと重なって、田宮虎彦の小説を思い出したというべきなのだろう。

 人の心の中で、連関して思い出されるものが、いつしか一次元的な平面上に、過去の事実として連記されて行き、やがてそれらが、一つの線でつながっているのが見えてくる。無意識の中で関連付けられて、思いもしなかったことが、夢として現われてくるものと比べれば、今という秩序だてられた自分の意識下でのことだけに、過去の事実として、はっきりと思い出すことができるのだ。

次回は、この『フランダースの犬』と、田宮虎彦、そして私の幼いころの思い出、この三つのつながりについて、書いてみようと思う。 


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