ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(121)

2009-12-20 10:07:02 | Weblog



12月20日


 毎日、雪の日が続いている。寝ることが、ワタシたちネコ族の特徴の一つであるとしても、こうも外に出られない日が続くと、さすがに、もう寝あきるくらいである。
 うつらうつらとしていて、ハッと目を開けると、ニタニタ笑う飼い主の、あの鬼瓦(おにがわら)顔だ、全く、いい加減うんざりする。
 人間は、どのネコかを選ぶことができるが、ワタシたちは、飼い主を選ぶことはできない。エサをもらうようになれば、どんな人間であれ、飼い主様として従い生きていくほかはないのだ。

 実はそこに、ワタシたちネコ族の、宿命的な問題点があるのだ。つまり、ネコ側からの、待遇改善の要求や、フリーエイジェント制度(一定期間をその飼い主のもとですごしたネコは、自由に新しい飼い主を選べる権利)が、十分に実行されていないからだ。
 ワタシたちネコが一致団結して、ユニオンを作ったところで、もし相手の飼い主たちが、ワタシたちの目の前で、マタタビやキャットフードでもちらつかせようものなら、ワタシたちネコ・ユニオンが総崩れになるのは目に見えている。
 つまり、ネコと飼い主の関係において、ワタシたちネコは、初めから本質的に弱点を抱えていて、アホな飼い主でも、ただつき従うほかはないのだ。

 ワタシの飼い主にしても、寒い冬場はこうして一緒にいてくれるから良いものの、その他は長い間、私を放り出して、どこかへ行ってしまう。最近、飼い主がこのブログで、『母を尋ねて三千里』や『家なき子』などの話をしているらしいが、一体、このワタシの方はどうなっているのだと言いたいくらいだ。

 さらに、こうして毎日、いつも同じ鬼瓦顔ばかり見ていては、時々いやになる。もしできることなら、やはりやさしい女の人の方が良い。例えば、吉永小百合さんとか、いやし系のあの安めぐみさんあたりに、やさしく、ミャオとか声をかけてもらいたい。うー、たまらん。

 そこに、野太い飼い主の声がして、ワタシの夢は破れる。
 「ミャオ、いつまでも寝てないで、たまには外に行って来い。」
 あーあ、飼いネコはツライよ。


 「もう五日間も、寒い雪の日が続いている。日中の気温も、マイナスのままの真冬日で、暖房設備が十分でないこの家では、ひとしお寒さが身にしみる。
 もっとも、北海道では、暖冬の予報に反して、12月としては記録的な寒さになっているらしいが。私の小屋がある十勝地方では、もう今の時期からー25度を下回ったということだ。
 しかし、そんな寒さの中でも、あの小屋の中には、しっかりとした暖かい薪ストーヴがある。薪のはじけて燃える音を聞きながら、柔らかい暖かさに包まれて、揺り椅子に座っていたことを思い出す。
 とは言っても、こちらは、少し寒い家だけれど、風呂には入れるし、ちゃんと水洗トイレもあって、普通の生活が送れる。その上、いつも傍には、ミャオがいるのだ。何事もすべてに満足することなどできないし、半分くらいがちょうど良いということなのだろう。

 さて、前回からの続きだけれど、先日の『フランダースの犬』から、サザンカの花のつながりで思い出した、田宮虎彦の短編小説について、少し考えてみたいと思う。


 戦時中から、戦後にかけて、そして昭和の時代を通して活躍した田宮虎彦(1911~88)の小説は、大きく言えば、三つの系統に分けられるだろう。
 一つには、『落城』等の、明治の時代を迎えてもなお、徳川幕府に義を通し続ける東北の、架空の小藩の悲劇を描いた連作や、その他の歴史小説もの。
 次は、『足摺岬』や『絵本』、『小さな赤い花』等の、私小説的色彩の濃い、幼少年期や青年期のことを書いた、短編、長編小説。
 三つ目のものは、大人の愛の物語である、『別れて生きる時も』、『赤い椿の花』そして、亡き妻との間の愛をうたった『愛のかたみ』(その後、作者自身の意向により絶版)等である。

 私は、何も、それぞれのジャンルの作品の一つ一つを、文学評論として語るつもりはないし、その余裕もない。あくまでもここでは、今回の私の思い出につながるものとして、二つ目にあげたグループの中から、特に彼の子供時代のことを描いた作品についてだけ、少し考えてみたいと思う。
 そこでは、彼の子供時代のつらい思い出が、繰り返し、小さな短編となって語られているのだ。つまり、『異母兄弟』(昭和24年)、『父という概念』『童話』(27年)、『異端の子』(28年)、『母の死』(30年)、そしてそれらの集大成とでも言うべき長編の『小さな赤い花』(36年)等である。

 その中心をなす物語は、絶対家父長的な性格の男の所へ、後妻として嫁いだ母のもとに生まれた少年が、その鬼のような父親によって、上の兄たちとは差別され疎(うと)んじられて、そのうちに病弱な母は里に帰されて、少年も一緒について行くが、そこで母は亡くなり、少年は一人残されるという、昔にはよくあっただろうと思われるような話である。
 そのころ、私は、その同じような内容の短編を次から次に飽きることなく読んでは、時には涙を浮かべていたのである。
 今回、一連の思い出のために、その幾つかを読み返してみたが、確かに、その当時の若い私としては、子供時代の記憶がまだ生々しくあって、とても他人ごととは思えずに、多分に自己同化して読んだのだろう。
 それは、自分のつらい過去の思い出をたどり、本に書かれていることを読むことで、その当事者と語り合うことになる、つまり、同じ痛みを持った者同士として、話し合うことによって、その心の傷を癒(いや)していたのだ。

 それは、いつの時代にも言えることだ。今でも、様々な事件の被害者や、同じ病を抱えた人たちが集まって、話し合う場が設けられることがあるけれども、それらは確かにお互いの癒しの場になりうるだろうし、必要なことだと思う。
 体の傷も、心の傷も、本当のところは、その当事者たちでしかわからないことであり、いつも人は、自分が傷ついて初めて、あの時の人の痛みが分かるものなのだ。

 ただし、その話し合いの場やあるいは小説の中で、十分に語り終えて、心にたまったものを出すことができたら、そこにとどまっていてはいけない。次へと歩みださなければならない。
 思い出の中だけでは、人は生きられないし、その間にも、自分の人生の持ち時間は、刻一刻と少なくなってきているからだ。
 
 今回、それらの短編小説を幾つか読み返したけれども、もう今では、私の胸に激しく突き上げてくるものはなかった。しかし遠い日の、古い写真を見るように懐かしい思いがした。
 彼の短編小説の中に、『子別れ』(昭和25年)という作品があるが、そこには彼の小説のひとつの本質が見えている。母馬と仔馬の別れを、思いを込めて描いていて、美しいリリシズムとヒューマニズムに溢れてはいるが、今にして思えば、やはり感傷的に過ぎるのだ。
 彼の作品が、その後忘れ去られたのも、今の時代にも合わない理由もよくわかる。しかし、とは言っても、いつに時代にも、私がそうであったように、彼の作品を必要とする人たちがいることも、また確かである。

 ついでに、田宮虎彦のことについて、少し書き足すとすれば。当時、彼の作品は、次々に映画化され、テレビ・ドラマ化されていた。その中には『足摺岬』(1954年、吉村公三郎)、『銀心中』(1956年、新藤兼人)、『異母兄弟』(1957年、家城巳代治)などがある。
 1988年、彼は、脳梗塞の後遺症のために執筆できないとの遺書を残して、投身自殺した。

 前回書いたように、記憶は、時の流れとともにいつしか、同じ平面上にひとしく書き残されていくだけのことだ。夢、幻のように・・・。

<参考文献 > 『足摺岬・絵本』、『落城』、『別れて生きる時も』、『赤い椿の花』(以上角川文庫)、『落城・足摺岬』(新潮文庫)、『井上靖・田宮虎彦集』(講談社版)、『永井龍男・田宮虎彦集』(集英社版)。以上すべて絶版であり、現在、講談社文芸文庫に、『足摺岬ー田宮虎彦作品集』があるだけ。他にウェブ上のウィキペディア等を参照。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。