ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(122)

2009-12-24 21:29:18 | Weblog



12月24日
 
 五日間もの間、毎日雪が降ったり止んだりで、なかなか外にも出られなかったのだが、昨日あたりから、道路の雪も解けて、ようやく飼い主と一緒に、散歩に出かけられるようになった。
 辺りの臭いを嗅ぎながら、まずは、いつもの枯れ葉のたまり場になっている所で、トイレをすませる。この場合は、自分の臭い付けではないから、しっかりと、前足で枯れ葉を寄せ集めて、その臭いの源を隠す。
 くんくんと臭いをかいでみて、これで大丈夫だ。小走りになって、先で待っていた飼い主のもとへと急ぐ。そしてお互いに、ニャーと鳴き交わし、また一緒に歩いて行くのだ。

 前回、飼い主の鬼瓦(おにがわら)顔がどうだのと、少し文句は言ってみたものの、他にワタシが心を許しているのは、あのエサをくれるおじさんぐらいのものだし、やはり、何といっても、一番信頼できるのはこの飼い主なのだ。
 だから、そんな飼い主と行く散歩は、私にとっては、運動を兼ねての、ちょっとしたレクレーションでもある。そういえば、飼い主が戻ってきてもう一月余り、安心して食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活を送っているワタシは、すっかり太ってしまった。
 最高の喜びでもある、生ザカナをいただく他に、しっかりとキャットフードも食べ、ミルクも皿いっぱい分飲んでしまう。ワタシの14歳という年齢からすれば、これでは太りすぎだろうとは思うのだが。
 そこで、傍にいる飼い主を、じっと見てみる。良く言われることだが、飼い主は、いつの間にか、そのペットに似てくるというけれど・・・。確かに、あの鬼瓦顔がふっくらとしてきて、どこかカバに似てきた。そして、体全体が、メタボ化してきているように見えるのだ。
 いかん、これでは、ワタシと飼い主が、ともに要介護の道を歩むことになるかもしれず、反省はするのだが、他に楽しみとてなく、ただ食っては寝、食っては寝・・・。
 ああ、天国は近いのかも、南無阿弥陀仏。そうだ明日はクリスマス、キリスト様の誕生をお祝いして、心からのアーメン。


 「雪の日が続いていたが、ようやく晴れて、全く久しぶりに、山登りに行くことができた。そのことは次回に書くとして、ともかく、雪に降りこめられて、その前の長い間風邪をひいていたことと併せて、いろいろと仕事や用事がたまっていた。
 それは、年の瀬だからといって、取り立てて、気ぜわしく動き回るため、という訳ではないのだ。最低限として、ミャオと私の食料が十分に確保されていれば、それだけでも正月は迎えられるのだから。
 
 今日も、庭仕事などで動き回った後、ようやく一休みして、のんびりしたところで思い出した。明日はクリスマスなのだ。私は、日本人であり、慣習的に仏教徒なのだろうが、キリスト教徒ではない。
 だけれども、私はクリスマスの日を外国で迎えたこともあるし、長い旅の中で、幾つもの教会を訪れて、賛美歌を聞き、共に歌い、十字を切り、祈ったこともある。
 それは、いずれにとっても背教(はいきょう)的な行為というわけではない。私としては、ごく自然に、郷に入れば郷に従え(When in Rome,do as the Romans do.)の格言に従っただけだ。

 私が、キリスト教の教会に、なぜにそれほど近づいたのかというと、学生時代に選択科目の一つとして学んだものだし、さらにその後、社会に出てからも、ヨーロッパの絵画や建築、クラッシック音楽などに興味を持つようになって、どうしても詳しく知る必要があったからだ。
 もちろん、私の乏しい知識力では、それらのことを十分に理解できるはずもないのだが、ただ今まで、一通り、眺めた経験があるから、キリスト教に対しては、いくらかの親近感があるというだけのことだ。
 キリスト教に帰依(きえ)することもなく、かといって仏教徒の信者というわけでもなく、どちらかといえば、己の中にある原初的な自然の神の存在だけを、ひそかにおぼろげに思っているだけである。
 つまり、キリスト教にしろ、仏教にしろ、それらは私にとっては、芸術的な感興を与えてくれ、思索的な示唆を与えてくれる重要なものではあるのだが。


 だから、クリスマスの日、私は、キリストの誕生を祝うために、あの大好きなバッハの『クリスマス・オラトリオ』を聴くことにしている。それは、恋人や家族とともに楽しく過ごす日本的なクリスマスの日の思い出が、余りないということでもあるが。
 しかし、それは、負け惜しみ的な寂しさから言っているのではない。実のところ、私は、この日のために、ツリーを飾ったり、ケーキやチキンを買ったりはしないし、ただ、バッハの作ったクリスマスのための音楽をCDで聴くだけだが、キリスト教徒でもない私には、それで十分だと思っている。

 ところで、そのヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)の『クリスマス・オラトリオ』(1734)についてであるが、オラトリオと名付けられているが、それは例えば、数多くのオラトリオを残したヘンデル(1685~1759)の作品が、一つの話でまとめ上げられているものと比べれば、6部に分けられていて、それぞれが、クリスマス当日と、その後の祝祭日のために演奏されるべく作られた、六つの教会カンタータ集であるともいえる。
 それらの六つのカンタータそれぞれが、キリストの誕生を祝う祝祭的な喜びに満ちていて、他のバッハの、宗教曲の大作である、『マタイ』と『ヨハネ』の二つの受難曲と『ロ短調ミサ曲』などと比べれば、聴きやすく、親しみやすいものだともいえるだろう。

 その『クリスマス・オラトリオ』の、クリスマスの第1日目に演奏される第1部の曲は、ティンパニの連打に始まる前奏の後、『いざたたえよ、この良き日を』という合唱曲になり、そして二つの説明のレチタティーヴォの後は、その序奏から素晴らしい第4曲の(カウンター)テノールのアリアになり、第5曲の有名な合唱曲の後、第6曲のレチタティーヴォでイエスの誕生が告げられ、そして第9曲まで、幼子(おさなご)イエスをたたえるアリアや合唱が続く。
  さらに次の、クリスマス第2日目に演奏される、第2部の第1曲のシンフォニアの、何という天国的な美しさ・・・、その後にある有名なアルトのアリアなど、書いていけばきりがない。

 この『クリスマス・オラトリオ』の演奏を、レコードの時代には、有名なリヒター盤(Archiv)で聴いてきたが、その後は、クルト・トーマス(edel)やガーディナー(Archiv)、鈴木雅明(BIS)などの指揮するCDで聴いていたが、今年は、ルネ・ヤーコブス(harmonia mundi)のものを聴くことにしよう。
 実はこのヤーコブスのCDは、すでに持っていたのだが、今年最高の企画もののCDボックス・セット、『SACRED MUSIC』(harmonia mundi 29枚組)の中の2枚だったのだ。ダブることになったが、私はためらうことなく買ってしまった。このCDセットについては、また後日、詳しく書きたいと思う。

 クリスマスの日に、静かにひとり、バッハの曲を聴くということ・・・ミャオは、ストーヴの前で、静かに寝ている。それで良いのだ。

 写真は、昨日、山に登った時に、林の中で写したものだ。まだ木々には、雪が付いていた。青空を背景に、天使のような、綿毛のような雪が、私の目にやさしく映った。」 

(参考文献) 『名曲解説全集15声楽曲』、『名曲大辞典』(以上、音楽之友社)
  
 


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