ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(85)

2009-10-16 21:33:17 | Weblog


10月16日
 拝啓 ミャオ様

 まず始めに、上の写真は、2007年10月27日、12:47、北アルプスは立山連峰の、別山から見た剣岳の写真である。なぜそんな2年前の写真を、今になって、ここに載せたかについては、後で説明する。       


  実は、昨日、札幌まで行ってきた。私の数少ない友達の一人が、失明の恐れがあって、札幌の病院に入院したからである。
 彼は、一月近い入院で、少しやつれて見えたが、何より手術のかいあって、失明を免れて順調に回復しているとのことだった。ひと安心だ。
 1時間ほど彼と話をして、病院を出ると、もう3時を過ぎていた。それから、またクルマに乗って、来た道を戻り、家に着いたのは、夜の7時半だった。往復、五百数十キロ、まだ全線開通していない高速道路を使ったとはいえ、私には、いっぱいいっぱいのキツイ旅だった。
 若かりし頃には、クルマで4時間かかって登山口まで行き、8時間ほど山歩きをして、また4時間かかって家に戻るという、無茶なことをやったものだが、この年になって、そんなことをしていたら、間違いなく、死にかかわるほどの事故を起こすだろう。ああ、恐ろしや。
 ただ、途中の、日高山脈や夕張山地の山すそや谷あいを染める、今を盛りの紅葉がきれいだった。それなのに、途中でクルマを停めて、写真を撮る余裕すらなかったのだ。やはり反省すべき点は多い。一泊の旅にして、ゆっくりと紅葉を眺めて行く旅にすべきだった。
 もちろんそのことは、考えていたのだが。つまり、大雪か十勝岳連峰の雪の山に登って、近くで一晩泊まり、次の日に札幌に行って、友達を見舞ってから帰ればいいと。
 ところが、なかなか山がすっきりとは晴れてくれないのだ。唯一良い天気が続いたのは、10日からの三連休の時だけで、私が出かけたくない日だったのだ。ところがそうして、日にちがたち、山どころか、その友達の見舞いにさえ行けなくなってしまう。10日ほど先には、私の北アルプス遠征の山旅がある。
 というわけで、無理に出かけたのであるが、ともかく友達の病状が回復しつつあり、私も無事に家に帰りつくことができただけでも、良かったと思うべきなのだ。

 今朝の気温は2度と冷え込み、霜も降りいる。晴れた空の下には、日高山脈の山々も見えているが、前回の写真の時のように、すっきりと全山が見えているわけではない。さらに、いつも昼前には、稜線の辺りには、雲がかかってきて、やがて、山々の姿も隠れてしまうのだ。
 そんな天気なので、なかなか山に出かける気にならない。私の山に登る第一の条件は、晴れた日に、それもできるなら、一日中快晴の空が続く、平日の日に行きたい。
 休みの日にしか山に登れない人にとっては(ほとんどの人にとってはそうなのだろうが)、余りにもぜいたくな条件かもしれない。しかし、いつも言うように、物事には必ず二面性があるものだ。
 いつも我々は、月を見る時に、余り意識することもなく、餅つきウサギの見える表側だけを見ているけれども、その月にも、実は見慣れない裏側の姿がある。
 それと同じように、そのゼイタクに見える私の思いの裏には、今にいたるまでの、幾つもの哀しみの堆積物が隠されいるのだが、そんなことは、誰にしもあることで、いまさらここで言うべきことでもない。
 ただ、そんなふうに山登りに出かける日の条件を限ったからこそ、私は、確かに、極上と言える山の景観を、度々、目にすることができたのであり、ありがたいことなのだ。

 ともかく、このところ、北海道の天気が落ち着かない。いつもなら、一日二日と、秋の高気圧にすっぽりと被われた快晴の日があるのに。ただし、数日前のあの連休の時のように、その気になれば、山登りに出かけられる日もあったのだが。
 その日は、日ごろの辛い仕事に耐えて、休日に山を楽しむ人たちへの、神の恵みであり、日ごろからぐうたらに過ごして、ゼイタクを言っている私への、神の見せしめ、お仕置きであったのかもしれない。ごめんなさい。
  しかし、そうして、私の思う快晴登山の条件から外れた日ばかりが続くと、なおさらに、あの白銀に被われた山の姿を見たい、という思いはつのってくる。
 そこで、パソコンにため込んでいる、山の写真を見ては、素晴らしかった山々の姿を思うのだ。上の写真は、その一枚である。

 深く記憶に残る山旅だった。最初の日の午後から晴れてきて、二日間快晴の日が続いた。私は、ひとり、会う人もまれな、初冬の立山連峰の山々を心ゆくまで楽しむことができた。
 雪は、ひざ下位で、アイゼンはつけていたが、持っていったピッケルを使うほどではなかった。
 みくりが池温泉小屋を基地として、一日目は、午後晴れてから、雄山(3003m)を往復し、二日目は、剣岳(2998m)の姿を見るために、剣御前(2777m)と別山(2874m)を歩き回り、三日目は、浄土山(2831m)から竜王岳(2872m)に登り、そして雄山から大汝山(3015m)、富士ノ折立、真砂岳(2861m)へと縦走した。
 ああ何と、幸せな山歩きの日々であったろうか。一面の青空の下に、いつも、雪に彩られた山々の姿が遠くに近くにあり、私はその中を、ひとり歩いていたのだ。

 そんな単純明快な山の姿を好む私だから、私が撮る山の写真は、私の思い出として繰り返し見て楽しむだけのもので、決して芸術的な写真にはならない。雲ひとつない、快晴の空の下の昼間に、写真を撮るものだから、プロの山岳写真家が見れば、光線の陰影に乏しく、遠近感もなく、べったりとした面白みに欠ける写真、いわゆる絵はがき写真、お子様お絵かき写真の類にしかならないのだ。
 しかしそれは、自分で楽しむためのものだから、それで良いのだとかたくなに思うことこそ、近づきつつある、老人の頑迷(がんめい)さの現われなのかもしれない。前に書いた(10月11日の項)、ラ・ロシュフコーの箴言(しんげん)集の言葉を、少し入れ替えるべきだろう、「人は年をとるにつれて、いっそう物狂おしくなり、またいっそう頑迷になる」と。
 それにしても、私もいつかは、どもならん、ジジイだわ、と言われるようになるだろう。あーあ。

 ところで、幕末の時代、北陸地方の福井に、橘曙覧(たちばなのあけみ、1812~1868))という歌人がいた。清貧の生活に甘んじながらも、家族を愛し、多くの優れた歌を残した。
 有名な歌の一つに、後になってまとめられた、52首からなる独楽吟(どくらくぎん)という歌集がある。出だしはすべて、「たのしみは・・・」から始まる歌である。そのすべての歌が素晴らしいが、今回は、その中から、自然にかかわりのある二首をあげておく。

 「たのしみは 空暖かにうち晴れし 春秋の日に 出でありく時」
 
 「たのしみは 意にかなう 山水のあたり しずかに見てありく時」
 
 (『独楽吟』橘曙覧 岩波文庫)

 この歌から私が思い浮かべたのは、前回にもふれたあの『方丈記』や『徒然草』の世界にも共通している、日本的な静かなる山野の情景であり、さらに作者の、鴨長明(かものちょうめい)や吉田兼好(よしだけんこう)のような、独居する世捨て人の姿、あるいは法師姿である。
 ところが、この歌の作者、橘曙覧の現実は、妻子とともに五人家族で、あばら家に、肩寄せあって暮らす毎日であったのだ。そして、彼はその生活を、厭(いと)うどころから、妻や子供たちともども、心から愛していた。この『独楽吟』の歌集のすべての歌を読むと、その思いが痛いほどに伝わってくる。そこには、古き日本の、あたたかい家族の姿が見えてくるのだ。
 そんな家族に囲まれて暮らしていても、いや、それだからこそ、彼はひとりになりたい時もあったのだ。その散歩に出かけるひと時こそ、家族の安らぎとは別の、自然が与えてくれる安らぎの時間であったに違いない。
 
 ゼイタクに、時間を使うことのできる今の私には、それゆえに、あたりまえの、慣れきった安らぎがあるだけだ。他人をうらやんでも仕方がない。ただこの静かな時間が続いているだけで、私には十分なのだ。そして、ミャオと・・・。

                        飼い主より 敬具