ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(83)

2009-10-08 17:47:28 | Weblog

10月8日
 拝啓 ミャオ様


 朝6度、日中も8度までしか上がらない。昼頃から、台風の影響によると思われる、強い雨が降り出してきた。

 6年前、同じように北海道にまで来た台風によって、家の林に大きな被害が出た。カラマツの木が、数十本も倒れたり傾いたりしたのだ。直接、家に倒れ掛からなかっただけでも、幸いだったのかもしれないが、いまだにその傾いたカラマツの木のすべてを、処理し終えてはいない。
 もともと、北海道の木々は、余り台風のような強い風に襲われたことがないし、まして、地元の在来種でもない植林用のカラマツ(長野県原産)には、特に被害が大きかったようである。

 そのカラマツを、私は、薪ストーヴの燃料にしている。薪ストーヴで燃やす木としては、広葉樹の、特にミズナラやカシワなどの、ナラ類などが良いと言われているけれど、家の林の中にあるものを切るわけにはいかないから、よそから買わなければならない。
 それは、北海道の一般的な暖房器具である、灯油ストーヴによる燃料代よりは、はるかに安いし、環境にかける負荷も少ない。ただ、薪割りの作業をしなければならないが、それも、自分の運動になり、楽しみでもあると考えれば、問題にはならない。
 ところが、私が使うカラマツの木の場合、費用はさらに安上がりになる。家の林の木を、切ればよいだけだから、チェーンソーを使うための費用や燃料代がかかるだけだ。
 しかし、問題は、薪用に短く切られて売られている木を、薪割りするだけと比べれば、手間がかかることであり、危険なことだ。まず、林の中にある木を、切り倒すことから始めなければならない。
 他の木々もある中で、間伐(かんばつ、植林地での間引き伐採)のため、あるいは、傾いたりしているものを選んで、その45年生にもなるカラマツの木だけを、切り倒さなければならない。
 この伐採(ばっさい)作業は、毎年、どこかで死者が出るほどに危険な作業なのだが、今後も安全に、私ひとりでやっていけるかどうかは分からない。今の所、毎年、10本ほどのカラマツの木を、切り倒してはきたのだが。
 さらに、その切り倒した20mほどもある木の、枝を切り払い、薪以外にも使用できるように、大体6尺(180cm)区切りの長さで、切っていく。
 そしてそれらの木を、何箇所かにまとめて並べて置き、できればその時に皮むきもしておいた方が良いのだが、殆どは次の年などに皮むきをして、さらにもう1年たって、前に書いたように(9月28日の項)、林の中から、抱きかかえたり、チークダンスをしたりして、運び出すというわけだ。
 あーやれやれ、書いているだけで疲れてしまう。つまり、物事には、すべて、一面的だけではない、様々な成り立ちの過程が含まれているということだ。

 長々と、こんなことを書いてきたのは、昨日、家の駐車スペースにしている空き地の所に、一本のキノコが出ているのを見つけたからだ(写真)。まん丸に肥え太った、いかにもおいしそうなキノコだった。
 しかし、すぐに気がついた。まず、よくこんな所に生えている、あのハタケシメジ(食用)とは、明らかに違うこと、さらに、北海道ではボリボリと呼ばれるナラタケ(食用)とも、全く違うこと。
 ただ一本だけ、こんな所に。それは、間違いなく、毒キノコの、あの猛毒のイッポンシメジだったのだ。
 初めて目にした、このキノコを確認するために、図鑑を持ってきて調べ、写真も撮った。その後、このままにしておくのも薄気味悪く、引き抜いて、向こうの植林地の中に穴を掘って埋めてしまった。

 考えてみれば、このイッポンシメジにとっては、哀れなことになったものだ。せっかく、長い間、地下の菌糸(キノコの胞子が発芽し伸びたもの)としてあったものが、もう一つの菌糸と結びつき、ようやく子実体と呼ばれる、我々が普通目にする、茎とカサからなるキノコになったのに、そして次の世代を残すべく、胞子(ほうし)を出す準備をしていたというのに。
 しかし、どうして、毒キノコと食べられるキノコがあるのだろうか。確かに、人間だけでなく、虫や動物たちも食べているようなキノコは、ポツンと一つだけ生えているのではなくて、数がまとまって生えているか、一つずつでも、あちこちに生えている場合が多い。
 しかし、このイッポンシメジは、私も初めて目にしたくらいだから、あたりに同じキノコはなく、その一本きりなのだ。つまり、自分の子孫を残すためには、誰からも食べられてはいけないキノコなのだ。めったに、地上には出てこないからこそ、出現した時には、絶対に、次の世代を残していかなければならないのだ。
 そのために、イッポンシメジは、自分の体に毒を仕込んだのではないのだろうか。なんという、生き方だろう。こうした例は、何もこのキノコだけではない。他の植物や、動物たちにも見られることなのだ。
 それほどまでに、自分の個体を意識して、次の世代を残すことに執心(しゅうしん)すること、つまりは生きのびることにひたむきな生き物たち、ということになるのだろうか。

 今の時期、北海道は知床の自然河川では、サケやカラフトマスが、群れをなして川をさかのぼり、それぞれの子孫を残すための、争いを繰り広げているところだ。そして、そのサカナたちを捕まえようと、ヒグマたちが集まってくる。
 ヒグマたちにとっては、厳しい冬を冬眠という形で迎えるために、まして、メスのヒグマにとっては、その冬眠の穴の中で出産を迎えるために、ぜひとも栄養を蓄えておかねばならないからだ。

 私は時々、思うことがある。私たち人間は、今まで、何をしてきたというのだ。そして、これらから、何をしようというのだ。
 同じように思うのだ、私は、今まで、何をしてきたというのだ。そして、これから・・・。 

 雨は、風をまじえて降り続いている。北海道への、台風の直撃は、なんとかまぬかれそうだが、それでも、雨戸は閉めておかねばならない。安上がりに、自分で作った窓だから、出来合いのサッシの窓ほどの防水効果もなく、吹き付ける雨が部屋に入ってくることもあるからだ。
 しかし、嵐の後には、必ずいつか、晴れた青空の日が、来るはずだ。ミャオ、オマエのいる九州では、余り台風の影響はなかったようだが、元気にしているだろうか。会いたい、ミャオ。

                         飼い主より 敬具