ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(111)

2009-09-08 21:55:39 | Weblog



9月8日

 昼間はまだ暑いけれども、今日あたりから、今までのベタついた夏の空気に代わって、涼しい秋の空気が入ってきたようだ。今朝の気温は、14度まで下がったと、長袖に腕を通しながら、飼い主が言っていた。
 その後、しばらくたって、いつもの朝の散歩に出ようと、ワタシが飼い主を呼びに行ったところ、なんとテレビ・ニュースを見ているはずの飼い主が、自分の部屋のベッドの上で寝ていて、弱々しくワタシに鳴き返した。
 これは、行く気がないのだと察したワタシは、仕方なくベランダに出て、そこで寝て過ごした。

 昼ごろになって、ようやく飼い主の歩きまわる足音がして、何かを食べている音が聞こえ、その後、ベランダにいるワタシの所へやってきた。
 手には、ヘアブラシが握られている。ワタシは甘えた声を出して、ゴロンと横になった。体中をブラッシングしてもらう。小さくニャーと鳴きながら目を細める。特に、首のまわりは、いつまでもやってもらいたいくらいだ。
 飼い主は、ブラッシングを終えて、そのブラシから一握りほどになった毛玉をとって、この毛を集めて、冬用のワタシ用のベスト位は作れそうだなあと言った。
 飼い主に連れられ、自分の毛で織ったベストを着て、東京の高級住宅街を散歩するワタシの姿。それを見て、ご当地の、ヴィトンやシャネルを着た他のお猫様、お犬様方は一体何と思うだろうか、あのクリバン(有名なクリバン・キャットのネコ・カレンダー)ならどう描いてくれるだろうか、と想像して、思わずワタシはおかしくなり、飼い主の顔を見上げて、ニャーと鳴いた。


 「朝食の後、めまいがして、気分が悪くなり、ようやくのことで、隣のベッドのある自分の部屋までたどり着いた。そして数時間、うつらうつらしたりして、そのまま寝ていた。
 頭の中に、様々な病名が浮かんだ。脳炎(のうえん)、脳腫瘍(のうしゅよう)、脳閉塞(のうへいそく)・・・、そして、いざとなれば、救急車を呼ばなければならない、自分で電話できるのか、この家のこと、ミャオのこと、北海道の家のことなどなど。
 さらには、私の周りの死んでいった人たちのこと、自分の今までのこと、彼女たち・・・、うつらうつらと。


 途中で、二三度起きあがろうとしたが、めまいと気持ちの悪さはなおっていない。すぐにまた、ベッドに横になる。昼ごろになって、浅い眠りから目覚めて、ようやく起き上がることができた。
 用心深く、そろりと立ち上がり、ゆっくりと一歩を踏み出す。歩いて行ける。良かった。
 腹が空いていて、買っておいた菓子パンを食べた。これだけ食べることができるから、もう大丈夫だ。


 それにしても、一過性のめまいだとはいえ、こんなことは初めての経験だった。そして、老齢へと向かおうとしている自分のことを思った。
 前回、書いたように、自分のためのレクイエム(鎮魂曲)を用意しなければ、それを枕元で聞けるようにしておかなければ、とさえ考えたのだ。さらに、他人から見れば、まるで私の人生のような、ガラクタばかりにすぎない持ち物の数々も、その日のために、整理処分しておかなければならないと思った。
 人は、死に近づいて、初めて、過去、現在、未来への、自分の持ち時間に気づくことができるのだ。

 若いころ、私は、生意気にも、哲学書の数々に手を出し、いずれも中途半端なまま、読み終えることができなかったのだが、そんな中の一冊に、ハイデガー(1889~1976)の『存在と時間』がある。
 当時流行(はや)っていた、サルトルらの実存主義哲学の、先駆者のひとりであるハイデガーを、まず知ろうと思って読み始めたのだが、とても、たんなる文学思想かぶれの、青二才の手に負えるものではなかった。
 そのまま歳月が流れ、つい二三年前に、『偶然性と運命』(木田元、岩波新書)を読んだ時に、その『存在と時間』の一節が、分かりやすく説明されていた。そのことを、今回、ふと思い出したのだ。


 そこに書いたあったものを、さらに簡単に言えば、・・・人間は、日常的には、自分自身の死から目をそむけ、目の前に毎日現れてくる事に対応しながら生きている。
 そこでは、将来は、いつか来るかもしれない可能性としてあり、次に、すでにあったことは、もはや忘れ去るべき過ぎ去ってしまったものとしてあり、現在は、それだけが、今あるものとして存在し、それぞれの結びつきの中では、現在だけが大きい。
 しかしそれは、自分にとっては、目の前のことに対処するだけの、与えられた時間、世界的に共通する時間に、生きているにすぎない。
 それならば、本来あるべきはずの、自分の時間を生きるにはどうするのか。
 それには、誰にも代わってもらうことのできない、いつか来るはずの自分の死、何の可能性も残されていない、終局の死に至る自己を見つめ、あらかじめ自覚しておいて、その思いを意識して繰り返し、それによって、初めて、本当の自分の時間を知ることができる・・・。

 といったように、自分流に解釈してみた。もちろん、こんなふうに考えることにも、ハイデガーの考え方にも、幾つもの異論があるだろうけれども、まあ、それほど深く考えないで(哲学的ではなくなってしまうが)、人生の考え方の一つだとすれば、納得できないこともない。
 ハイデガーの意図する所からは外れるが、簡単に言えば、人は、死を意識して初めて、今までの、そしてこれからの、自分の持ち時間を知るのだ。
 つまり、そのことが、今回、私がベッドに伏して気がついた、一番大きなことである。そして、そんなふうに私が考えたことは、なにも今回が初めてではない。人は、繰り返し、しょう懲(こ)りもなく、学ぶこともなく、今ある日常が、同じように続くのだろうと漠然(ばくぜん)と思い、自分の時間について、深く考えようともしないのだ。

 少し前に、本屋で『オー・ヘンリー短編集 DVD BOOK』(宝島社 780円、写真)を買った。
 ひとつには、このオー・ヘンリー短編小説集の映画化である、『人生模様』(O・Henry’s Full House 1953年、ヘンリー・ハサウェイ、ハワード・ホークス監督らによるオムニバス映画)をまだ見ていなかったし、本として、それらの短編の幾つかが、英語の原文と、訳文で掲載されていたからでもある。
 というような、一石三鳥のさもしい根性から買ったのであるが、結果として言えば、まあ、それなりのものではあったというところだ。

 まず映画は、小説の映画化として、映像に見合うべく脚本化され、変えられていて、小説ほどの切れ味はない。ただ、チャールズ・ロートン、マリリン・モンロー、リチャード・ウィドマーク、アン・バクスターなどの俳優陣が素晴らしい。
 さらに、驚いたのは、あの『怒りの葡萄(ぶどう)』『赤い仔馬』などで有名なノーベル賞作家の、ジョン・スタインベックが各巻のナレーターとして登場していたことだ。

 次に、ここの翻訳文だが、例えば、新潮文庫の大久保康雄訳の『O・ヘンリ短編集(一~三)』とは比べるべくもない。改めて、その文庫本を取り出して、読みなおしたほどだ。
 そして若いころ、このO・ヘンリ、スタインベック、ヘミングウェイという作家たちの、それぞれの少し肌合いの違う、しかしまぎれもないアメリカの短編小説を、夢中になって読んだことを思い出した。
 そんなO・ヘンリの短編の中から一つ選べば、ヒューマニティとユーモアに溢れる、やはり『警官と讃美歌』ということになるだろうか。そして、これはもちろん、小説で読むべきである。

 そこで考えたのだが、この短編の中の主人公、ソーピーの生きている時間は、その場しのぎの、日常に対処するための与えられた時間に見えて、実はまぎれもなく、主体的な自分の時間だったのではないのだろうか、と。」