ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(80)

2009-09-28 17:56:25 | Weblog



9月28日
 拝啓 ミャオ様

 長い間、天気の良い日が続いていたが、今日は久しぶりに、雨の一日になった。朝の気温は10度で、日中も15度位までしか上がらない。これからは、冬に向かって、少しずつ寒くなっていくのだろう。
 庭の生垣(いけがき)には、一輪の、恐らくは最後の一つだろう、ハマナスの花が咲いている。
 
 昨日は一日中、快晴の空が広がり、秋らしい爽やかな風が吹き渡っていた。山登りには、うってつけの日なのだが、私は日曜日には、どこにも出かけたくはないのだ。
 その少しうら哀しい気持ちを抑えるように、外に出て、しっかりと仕事をした。まず長い間、手入れをしていなかった、林内の仕事だ。わずかな広さの林だが、あちこちへと歩き回るための道がついている。
 その林内の下草は、大体はササだから、ほうっておくとすぐに道をふさいでしまう。少なくとも、年に、二三回のササ刈りが必要だが、それも、一仕事である。
 例えば、私たちが何気なく登っている登山道でも、ササ刈りをされているのを、見かけることがあるが、大変な作業だっただろうと思う。一年でも刈らないでおけば、道の真ん中にでも、ササが芽を出し伸びてくるからだ。
 
 さらに、この林の中には、隣地との境からいつに間にか侵入して、増えてきたセイタカアワダチソウの繁茂する一角があって、それを刈り取らなければならない。繁殖力の強いこの外来種の雑草は、ほうっておくとすぐに2mほどの高さにもなる、一大群落を作ってしまうからだ。
 できれば、その一つ一つを抜いた方が良いのだが、手間がかかるので面倒になり、最後には長いカマで刈り払ってしまう。残念なのは、その時に、せっかく伸びていた、カエデ、ミズナラ、シラカバなどの幼樹も、知らずに切ってしまうことだ。

 この林は、カラマツの植林地だったのだが、今では、その中にあった小さな広葉樹たちを、大切に手入れをしながら育てている。カラマツの新緑や黄葉も悪くはないが、今では、林内にある様々な樹々の、芽吹きや新緑、そして紅葉から落葉への、移り変わりを見るのが私の楽しみになっている。
 できることなら、もっと広い林を買いたかった。そして、なるべく自然な形の、針葉樹と広葉樹の混交林に育てて、後の時代にまで残る小さな森にしたかったのだが、最初から予算に限りのある私には、それでも分相応の、この小さな林で良かったのかもしれない。  


 さて、この二三日で、ササ刈りとセイタカアワダチソウ刈りの仕事を終えた後、次は、去年やその前に切り倒して、皮むき丸太にしていたものを、林内から運び出すという仕事がある。私の背丈より高いか少し低いか位のものだが、重くて転がしたり、チークダンスよろしく抱きかかえたりして、運ばなければならない。
  ああ、この日曜日、世間では愛し合う二人が手をつなぎ、肩を組んで楽しいデートをしているというのに、この私は、汗を流しながら、こんな、ずん胴の丸太を相手に、踊らなければならないのだ。不肖(ふしょう)、私、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)は、そんな責め苦にあえぎながら、それがまた、ほんとはイヤでなかったりして・・・、オマエはM(えむ)か!とミャオの声。

 などと思いつつ、何とか、十数本の丸太を、日の当たる壁際に並び立てかけて、一仕事を終える。さらにここでしばらく乾燥させた後、チェンソーで適当に切り分けて、それを斧(おの)で割って、薪(まき)を作るのだ。まあ、今の所、冬場はミャオのいる九州に戻るから。一冬分というわけではないし、まだ楽な方なのだが。

 さて、今日も、汗だらけになった体を洗うために、ゴエモン風呂を沸かさなければ。と、その風呂小屋の方に歩いて行く時に、私は、家の傍に生えているムシトリナデシコの花に、蝶がとまっているのを見た(写真)。この辺りでは、よく見かけるウラギンスジヒョウモンだ。
 別に珍しい蝶ではない。夏の間、日本全国で見られる蝶だ。しかし、9月も終わり、ましてここは北海道だ。その上、この二匹の蝶は、それぞれに、もう羽がボロボロになっている。そんな姿を見て、はじめ私は、何と哀れな姿だろうと思った。

 しかし、その二匹の蝶は、それぞれの破れかけの金魚すくいみたいな羽で、それでもヒラヒラと飛んでは花にとまり、無心に蜜を吸っていた。
 私は、気がついた。そうなのだ。なにも、彼らにとって、今の己の姿は、恥ずべきことでも哀れなことでもないのだ。ただ、己の命のある限り、ひたすらに生きている、というだけのことなのだから。
 自分を卑下(ひげ)することもなく、誰かに哀れみを乞(こ)うこともなく、己の生の本能に従い生きること。それは、本能に生きるだけの彼らが、知性ある人間と比べて、単純であり劣っているからだとはいえない。

 先日、少し触れたことのある(9月8日の項)、あのハイデガーふうな時間の観念を考えれば、この蝶たちは、自分の死を意識しないで、ただ場当たり的に毎日を生きているだけにすぎない、ということになるのかも知れない。
 がしかし、本能としての死を、人間以上に、自然の摂理(せつり)の中で、日々強く意識している彼らが、自分の時間を意識していないとは思えない。むしろ、我々以上に、自己の生と死を強く意識しているからこそ、何としても生き続けたいと思っているのではないのか。
 あの旧約聖書、創世記の神の言葉のように、生き物たちはすべて、神から祝福されて、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」たる存在であるべきだ。ただ、地球環境を破壊し続ける、人間という恐るべき敵である生き物たちを除いて。

 悲しいことに、私でさえも、その人間の一人であるということだ。しかし、同じ生き物のひとつとして、私にもできることは、なるべくこの山の中でひっそりと、だけれどもしっかりと生きていくこと位しかないのだが。ミャオ、オマエも、あの蝶と同じ考えの仲間なのだろう。どう思う・・・。

                        飼い主より 敬具 


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