ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(65)

2009-07-14 21:28:39 | Weblog



7月14日
 拝啓 ミャオ様

 このところ、雨の日の後には、晴れた日になり、晴れた後には雨になる。はっきりとした、天気の変化の繰り返しだ。
 それでも、雨の日は、涼しくて過ごしやすく、長袖シャツでちょうど良いくらいであり、決して蒸し暑くはならない。
 しかし、今日は晴れて、暑くなった。温度は一気に前日より10度ほど高くなり、26度位まで上がった。ただし、汗はかいても、日陰に入れば涼しいのだ。
 来週には、私の恒例の、本州の山への遠征があるから、何としても今週中に、もう一度、大雪の山に花を見に行きたいと思っていた。しかし、今日は、晴れていたがすぐに山には雲がかかってしまい、私の山登りには適さない日だった。この先の予報でも、一日中、晴れてくれる天気の日はないのだが・・・。

 家の前には、花の咲き始めたジャガイモ畑が広がり、その彼方に見える、南日高の山々も、残雪は殆ど消えてしまい、すっかり木々の緑に被われて、夏山の姿になっている(写真)。
 若い頃には、さあこれからは沢登りの季節だと、意気込んで、どこを登ろうかと楽しみにしていた。しかし、私も年を取ってきたから、これからは、もうのんびり登山にしたいのだ。そうすると、どうしても一人で行く沢登りの、危険さの方を、先に考えてしまう。
 しかし、もっと暑くなれば、やはり沢登りに行きたい、と思うようになるかもしれない。
 冷たい流れに足を浸して歩いてゆき、水しぶきを浴びながら滝を登り、自分でルートを判断しながら、最後はヤブをこいで頂上に達する。その心地よさと、小さな危険を乗り越えていく楽しさの後には、自分なりの達成感もある。
 昔は、こうした、日本の山におけるワンダリングの仕方こそが、まさに夏の山登りにふさわしい、基本的なスタイルだったのだ。               


 しかし、今ではその元気もなく、天気が悪いこともあって、最近は、すっかり、新しいテレビと仲良くなっているのだ。近くにいる友達に、オレはひきこもりになってしまって、病気ではないだろうかと言ったら、もともと、山の中に一人で住んでいて、何が引きこもりだと笑われた。


 最近放送されて、録画しておいたフランス映画を、二本、見た。『まぼろしの市街戦』(1967年)、と『ロバと王女』(1970年)である。
 『まぼろしの市街戦』は、あのジャン・ポール・ベルモンド主演の『リオの男』などの、数々の喜劇風アクション映画を作った、フィリップ・ド・ブロカ(1933~2004)の監督による作品である。
 話は、第一次大戦末期の北フランスのとある町、敗色濃いドイツ軍が撤退するにあたり、進軍してくるイギリス軍に一矢を報いるべく、時限爆弾を仕掛けていった。
  その情報を受けて、フランス語が堪能(たんのう)な一人の伝書鳩通信兵(アラン・ベイツ)に、潜入命令が下される。彼が侵入したのは、爆破計画を知った住民たちのすべてが逃げ出した後の、少数のドイツ兵たちだけが残っている町だった。
 しかし、一ヵ所だけ、人々のいる所があった。町外れの、精神病院である。ドイツ兵に追われた彼は、そこに逃げ込み、カード遊びに加わり、たまたま持っていたカードから、”ハートの王(キング)”(フランス語の原題、”LE ROI DE COEUR") だと呼ばれ、彼らの王にまつりあげられる。
 患者たちは、誰もいない町に繰り出し、それぞれに衣装を探し出して身につけ、そこに、彼らだけの楽しい王国が出現するのだ。

 自らを、ヒナギク枢機卿(すうききょう)だと名乗る男(ジュリアン・ギマール)は、ハートの王の戴冠式(たいかんしき)のセレモニーの時に、皆を前に話すのだ。
 「人生は悲しみに満ちている。
  泣きながら生を受け、
  悲しみの中で生を終える。
  創造主である神が、
  我々に悲しみを望むだろうか。
  我らが王国は違う、
  ここは喜びに満ちている。
  天国は鉄格子に被われた王国である。」

 そうして、彼らは喜びに満ちた、ひと時の時間を楽しむのだ。やがて戦争が終わり、爆破を免れた町に、本来の住民たちが帰ってくる。つかの間の王国の住民たちは、衣装を脱ぎ捨てて、鉄格子の中の精神病院へと戻っていくのだ。そして、あの通信兵も・・・。
 
 公開後、何年かたった後で、この映画を都内の名画座で見たが、なにぶん若い頃のことで、十分に理解していたとはいえないが、それでも、フランス映画らしい、ウィットに富んだ反戦映画だと思っていた。
 今回見直して、これは反戦映画ではあるだろうが、と言うよりは、むしろ当時の、フランス人のある意味で享楽(きょうらく)的な人生観や、哲学観(つまり、自由、平等、博愛)を、高らかに掲げ宣言した、映画ではないのかと思ったのだ。
 王国の住民である彼らの回りに、ユーモアと皮肉をこめて、ドイツ軍兵士とイギリス軍兵士を配して、さらに、逃げ出した一般住民とも対比させている。洗練とウィットに縁取られた、フランス人の楽しい人生を、映画の中に歌い上げるべく、作られた物語、それは大人のための童話だったのだ。

 フィリップ・ド・ブロカの作品は、この映画の前後に作られたベルモンド主演の、ドタバタ活劇調のものが有名であり、この映画でもその一端は見えるが、なによりも、ここでは、哲学的風刺が、一際効いているのだ。
 精神病院の中と外、どちらが正しいのだろうと・・・。

 そして アラン・ベイツやギマール他の俳優陣も素晴らしい。特に、ピエール・ブラッスール、ジャン・クロード・ブリアリ、ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルト、ミシュリーヌ・プレールなどのフランスの役者たちは、いずれも芸達者である。

 もう一本の『ロバと王女』は、確か日本未公開だったと思うけれども、物語は、シャルル・ペローの童話『ロバの皮(PAU D'ANE、映画の原題)』によるもので、実の父親である、王に求婚された王女が、お城を出て、ロバの皮をかぶった娘におちぶれるが、最後には、隣の国の王子様と、めでたく結ばれるというお話である。つまりは、大人のための子供の童話なのだ。
 当時のヨーロッパの童話劇の舞台ふうに、設定をしつらえて、童話の教訓劇を演じていく。その中でも、妖精の女王の家に電話があったり、最後の祝宴の場には、国王夫妻が、ヘリコプターで降りてきたりと、今の時代の舞台劇であることを示している。
 さらに、あの全編が歌のセリフによる『シェルブールの雨傘』の監督でもある、ジャック・ドゥミらしく、幾つかの歌も挿入(そうにゅう)して、楽しませてくれる。


 しかし何といってもこの映画の魅力は、王女役のカトリーヌ・ドヌーヴにある。同じ年に公開された『哀しみのトリスターナ』の薄幸(はっこう)の少女の、哀しい美しさとは違う、王女様の美しさだ。
 この映画の時のドヌーヴは、27歳、今年でもう66歳になる彼女は、近況を見せてくれる画面でも、相変わらずに美しい。いつの時代にも、様々な役を巧みにこなし、その時の年齢なりに演じている。彼女の出演している映画に、駄作はないといえるかもしれない。

 これからは、もう私は、こんな田舎にいて、映画を見に行けないなどと、不平を言うことはないだろう。大画面のテレビで見る映画に、すっかり感心してしまったからだ。
 残りの人生で、今まで見てきた映画を、再びこのテレビの大画面で、見直していくという楽しみも出てきたわけだし。
 さらにこの所、私は町に出るたびに、リサイクルショップに立ち寄っては、信じられないほど安い値段で売られている、中古本を買い集めてきた。それは、若き日の憧れに思いをはせ、今の自分を律するためにも、どうしても読み返さなければならない、数々の本である。
 他にも、聴くべき大量のクラッシックCDがあり、そして、まだまだ登りたい山々がある。
 私が、心の王である王国は、今ようやく姿を現したばかりだ。とてもそう簡単に、死ぬわけにはいかないのだ。
 こんな、神をも恐れぬ、ごうつくばりの鬼瓦権三(おにがわらごんぞう)に、明日はあるのか・・・。

 ニャーオーン。おー、そうだった。ミャオがいたんだったな。心配しなくっても、オマエのことは忘れていないから、なんとか戻るまで、元気でいてくれ。


                     飼い主より 敬具


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