7月19日
拝啓 ミャオ様
昨日今日と、止むこともなく、雨が降り続いている。その前の日に、庭の草刈は終えていたので、よかったのだが、やはりこうして、天気の悪い暗い日が続くと、心もいつしか重たくなってしまう。
気温は終日、15度以下で、涼しいというよりは、少し肌寒いくらいだ。家の中での仕事も色々あるのだが、本来のグウタラな性分ゆえに、なかなかはかどらない。
全国の週間天気予報では、梅雨明けはさらに伸びて、来週の終わり以降にずれ込むとか。ゲッ! これでは、今年、予定していた山には行けない、ということで、この二三日は、改めて他の地域の山に登るべく、計画を立てなおしていたのだが。
すでに一ヶ月前に、安い飛行機の切符を購入していて、いまさら変更はできない。つまり梅雨が明けていない中、山登りに出かけることになるのだ。雨の中歩くのはイヤだ。では、どうするか。
前回にも書いたのだが、毎年、大雪の山々には、この花の時期だけでも、三度位は行っているのに、もう10日も前に一度行ったきりなのだ。
テントか山小屋泊まりのための、2日続く天気の日を待っていたのだが、天気が今ひとつ良くなく、行く機会がなくて(どこかのツアー・パーティーのように、悪天候の中、出かける勇気はない)、ついに、本州の山に登りに行く時が、来てしまったのだ。
つまり、大雪の山には行けず、さらに本州の山に行くにしても、雨の中と、最悪の状況を迎えているのだ。
ふてくされて、しかたなくこの二日間、新しいテレビの前でゴロ寝して、バカバカしいバラエティー番組でも見て、ひとりで笑い声を上げていて、ふと気づいたのだ。そこで、はっと座りなおして、考えた。
これは、私が最近、余りにもテレビの良さばかりを吹聴(ふいちょう)して、のめりこんでいたから、それが、神様の逆鱗(げきりん)に触れ、天候の異変となって現れたのではないのだろうか。
そして、神様の、怒りに震(ふる)えた声が聞こえてきたのだ。
「なんのこしゃくな、取るに足りない鬼瓦(おにがわら)顔の、馬鹿な中年男めが、生意気にも、日ごろからえらそうに、自然を賛美しているくせに、近代文明の悪しき道具の一つである、新しいテレビなんぞを手に入れたからといって、いい気になりおって、一番大事な、自然の生活から離れて、人間文明の利器である、テレビのことばかり話しおって、第一、お前のもっとも大切な家族である、あのミャオ猫のことも、遠く離れた九州に放り出しているくせして、けしからん、当分、山に入ってはならん。」
まさしく、仰せの通りでありますと、私としては、首をうなだれ反省するしかないのだ。「ああ、八大竜王(はちだいりゅうおう)、雨やめたまえ。」(幸田露伴、『五重塔』より)
しかし、哀れでけちな人間である私は、飛行機の切符を無駄にするわけにはいかない。飛行機には乗るが、しかし、晴れるまで、山の下で待つことにしよう。何とか神様の怒りが収まり、そのお恵みで、二三日の晴れ間が出てくれるまで。
去年の、北アルプス白馬岳から唐松岳の山旅(去年の7月29日、31日、8月2日の項参照)も、天気が悪くて今ひとつ楽しめなかったが、代わりに、それなりの別な喜びを見つけたように、山の麓にいても、何かがあるかもしれないし、自分で何かを見つければよいのだ。
まあ、この年になると、物事をそう深刻には考えなくなるものだ。すべてを悪く考えても始まらない。
いつも例に挙げる、アランの『幸福論』(集英社文庫)だが、その中の一節、「最大の不幸とは、物事を悪く考えることではないのか・・・人が想像する不幸は、いつも実際よりは誇張されているものだ・・・」。
何か起きたら、まずは、あせらないことだ。一日思い悩んだとしても、翌日には、それほどのことではないのが分かる。目の前に進む道が閉ざされたとしても、幾つかの逃げ道はあるはずだし、最悪の場合でも、死んだふりをして生きていれば、いつか元の道に戻れるはずだ。
それは、前回、書いた、映画『まぼろしの市街戦』で、私が学んだことでもあるのだ。
人は誰でも、生まれながらの哲学者であり、誰でも、自分で書いた本を持っている。その本には、それぞれの歳の数だけの、ページ数があるはずだ。何かが起きたら、そのページを、丹念にめくってみればよい。
まあ、早く言えば、歳を取れば、純粋に悩むことはしなくなり、ごまかし方を覚えるだけなのかもしれないが。
話は変わるけれども、歳を取るということで思いついたのだが、今、家の林の中のあちこちで、オオウバユリ(エゾウバユリ)の花が咲き始めている。(写真)
東北や北海道に見られる花で、他の本州や九州などで見られる薄紅色のウバユリと比べると、草丈が高く、花の数も多い。ウバユリの名は、花の咲く頃には、ユリ科の花には珍しい、幅広の下葉(歯)が枯れ始めることから、姥(うば)と名づけられたと言われている。
今の季節に咲き、かすかに甘いユリの香りがして、暗い林の中の、その辺りが明るくなる。その名よりは、ずっと若々しく、華やかな花の姿だ。
家の林でも、始めは、一、二本見つけただけのものが、いつの間にか増えてきて、今では、あちこちにもう、二十株余りはあるだろう。中年男の私に合わせて、たくさんの姥の仲間が増えたということか。
そういえば、この林の中の道には、もう花期は終わったのだが、6月の頃に、一輪咲きの白い花をつけた、たくさんのツマトリソウの花が咲いていた。
まるで、いつまでも一人でいる、私を揶揄(やゆ)するように、と思っていたら、その名前の由来は、妻とり草ではなくて、つまどり(ふちどり)草の意味だったのだ。
恥ずかしい勘違いはよくあることだが、年取ってからの勘違いは、哀れである。
そうして、ますます、引きこもりになってしまう。というよりも、私が、ひとりで山の中の家に住んでいること自体が、世間から見れば、すでに引きこもりなのだろう。
しかし、実は、この自然の中の家に君臨する者こそ、あの『まぼろしの市街戦』のハートの王のように、あえて街を捨て、見えない鉄格子に囲まれた、自分だけの帝国に移り住んだ、心の王である、不肖(ふしょう)、鬼瓦熊三(おにがわらくまぞう)の私自身なのだ。
自画自賛の、馬鹿な裸の王様は、そうして、鬼瓦顔のまま、大都会を通って、離れた遠い所にある、高い山々に登りに行くのであります。
夜半、ミャオーンと、鳴く声が聞こえて、私は目を覚ます。ああ、ミャオ、元気でいるか。これから私は、山登りに行くけれど、心配しないでくれ。
私はオマエと同じで、山の中では臆病(おくびょう)だから、今までもそうだったが、風雨の中、無理に歩いて行くようなことはない。去年の北アルプス登山でも、天気が悪くて、三日間も山小屋で、じっとしていたのだから。
帰ってきたら、また、山の話をしてあげるからね。
飼い主より 敬具