ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(68)

2009-07-31 21:25:53 | Weblog



7月31日
 拝啓 ミャオ様

 もう長年にわたって続いている、私の恒例の夏の旅行は、残雪と高山植物の花々に彩られた、本州の高い山に登ることになっているのだが、今年は、当初の計画から、二転三転して、加賀の白山(はくさん)に行くことになってしまった。

 私が白山に登りたいと思ったのは、深田久弥の名著『日本百名山』に選ばれている山であったからではない。確かに名山と呼ばれるにふさわしい山ではあるだろうが、ずっと前から、写真やテレビで何度もその姿を見ていて、いつかは登りたいと思っていた山の一つだったのだ。
 それまでに、北アルプスの山々の頂から、晴れていれば、いつも西の方に、一塊になった大きな山群が、雲の上に浮かんでいるのを、何度となく見ていた。
 そして、白山の最高峰、御前峰(ごぜんがみね)の2702mという高さは、日本では、一際高い富士山は別格として、3000mを越える南北の日本アルプス、そして木曾の御嶽山(おんたけさん)、そして3000mを切る中央アルプスと、八ヶ岳連峰につぐものである。
  私は、いわゆる『百名山』信者ではないから、そこで選ばれている、すべての山に登りたいとは思わない。『百名山』に選ばれていなくても、日本全国に良い山は幾つもあるからだ。
 しかし、白山は、そういった肩書きはともかくとして、映像や写真で見る高山としての雰囲気や、豊かな高山植物群にもひかれて 、いつかは登らなければと思っていた山だったのだ。
 しかしこの白山は、北海道から東京を経由して行くには、遠く離れていて、なかなか、行く気にならなかった山なのだが、今回の梅雨空の天気こそが、私を、その山の麓、金沢へと連れてきたのかもしれない。

 さて、金沢の宿に泊まった次の日の朝、外は曇り空だったが、朝一番の天気予報では、昨日と変わらず、曇り時々日も差すでしょうとのこと。 
 駅前5時30分発の、白山別当出合(べっとうであい)行きバスには、私と同じ中高年の人たちが十数人。彼らと、話好きな若い車掌との掛け合いで、車内に笑い声が広がっていた。
 「田舎のバスは、おんぼろグルマ、でこぼこ道を、ガタゴト走る・・・」とかいう、コミカルな歌を、昔聴いた覚えがある。今では、そんな歌など歌われることもないだろうが。
 しかし、金沢の町を離れて、山間部に入っていく頃から、そんな乗客の明るい気持ちにこたえてくれるように、少し日が差してきて、2時間後の終点につくころには、すっかり青空が広がっていた。
 なんと、ありがたいことだ。計画の変更に変更を重ねて、たどり着いたこの白山で、やっと晴れてくれたのだ。雨を止めてくれた八大竜王(7月19日の項)に感謝し、私をいつも見守ってくれた母に、そしてミャオに感謝するばかりだった。

 別当出合の広場には、バスから降りた私たちのほかに、下の市ノ瀬にマイカーを停めて、シャトル・バスで上がってきた人や、チャーター・バスで来た人たちで、結構な賑わいだった。
 私は、その人ごみを避けるように、左側にある観光新道の入り口の方へ、歩いて行った。幸いなことに、殆どの人は、右手に架かる大きな吊り橋を渡って、そこから対岸の尾根へと取り付く、砂防新道の方へ向かうようだった。
 ガイドブックにも、砂防新道の方が、時間も短くて室堂に着くし、観光新道の方は、下りの帰り道として使われることが多いと書いてあった。
 その名前は、砂防ダムの工事のための道だったから、砂防新道と名づけられ、一方の観光新道も、見通しの良い尾根道に取り付くので、そのように呼ばれるようになったとか。
 しかし、それにしても、今ひとつの味気ない名前だ。例えば花の名前をつけるとかしたら、もっとやさしい響きになっただろうにと思う。

 小さなブナの林の急坂を上ると、すぐに尾根に出て、朝もやの彼方に、別山(2399m)を頂点にして、チブリ尾根が長々と、市ノ瀬へと下っているのが見える。三日目には、あの尾根を通って、降りてくるつもりだった。
 緩やかな尾根道と、そして急な登り坂の繰り返しが続く。後から来た人たち、三人に抜かれてしまった。その背中を見ると、デイパック(日帰り用のザック)の軽装だった。
 私は、南アルプスの縦走に合わせて、色々と緊急時のための装備を詰め込んでいて、少し重ためのザックになってしまっていた。まあ、それは自分への言い訳で、明らかに年齢のために、体力が弱ってきているということなのだろう。

 2時間ほどで、今まで登ってきた支尾根は、市ノ瀬から上がってきた尾根に合流する。そこにつけられた山道は、越前禅定道(ぜんじょうどう)と呼ばれていて、その昔から白山信仰登山で使われてきた道であり、今も白山登山のコースの一つとして残っている。
 さらに展望は開けてきて、尾根道の斜面は、ニッコウキスゲの群落で黄色く染まっている。と、上の方から、黒い服の一行が降りてくる。近づいてきた彼らは、何と、黒い作務衣(さむえ)などを着た、若い僧侶たちの一団だった。

 すれ違う時に、彼らは普通の登山者たちと同じように、挨拶したけれど、半分ほどは、私の前で手をあわせていた。その20人ほどの列の中には、年配の袈裟(けさ)衣を着た人も二三人混じっている。
 そのうちの、若い修行僧の一人に、どちらのお寺ですかと声をかけると、彼は明るい顔で、私を見て言った。「永平寺からです。」
 私は、小さな感動で、一瞬、胸を熱くした。私もその昔、母と一緒に訪れたことのある、行く年来る年の除夜の鐘の中継でもよく知られている、あの越前の名刹(めいさつ)永平寺。その厳しい戒律で有名な、曹洞(そうとう)宗の禅寺で修行する、頭を丸めた若い僧たちの面々。
 そして、あの永平寺の元貫主、宮崎奕保(えきほ)禅師の言葉を思い出す(’08.12.30の項、参照)。
 ただ過ぎ行く時の中、この世には、様々の人生があり、様々な思いを抱えた、老若の人々が生きているのだ、当たり前のことだけれども・・・。
 
 さらに、私はあえぎながら、尾根道をゆっくりと登って行った。前回の登山から日が開いていたためか、日ごろの恥ずべきぐうたらな生活のためか、すっかり疲れて、バテてしまった。
 その辛さを慰めてくれたのは、尾根道沿いに咲いていた、高山植物の花々たちである。なかでも、ハクサンフウロの紅紫の鮮やかな、しかしどぎつくはない、さえざえとした色合いの素晴らしさ。私は時々立ち止まっては、その花々を見つめた(写真)。
 それまでに、北アルプスの山々で、何度も見たことのある花で、格別に意識することはなかったのだけれども、その名前のもとになった、この白山で見る花の色は、今まで見た色とは違い、一際鮮やかに見えたのだ。

 5時間もかかり、バテバテの状態で、やっとのことで昼半ばに、室堂の山小屋に着いた。山上にはすっかり雲が湧き上がってきていた。一休みして、それでも、その日のうちにと、さらに往復1時間余りかかって最高峰の、御前峰に登ってきた。
 幸いなことに、頂上では、一瞬雲が取れて、周りの幾つかの池に、剣ヶ峰と大汝峰の姿も見ることができた。しかし、私が下りてきたその後は、山々は深い霧に包まれてしまった。
 大勢の登山者でにぎわう山小屋の中、その中の一人である私も、皆と一緒に食堂で食事をすませて、まだ明るさの残る夕方には、狭い布団の上で体を縮めて、寝ていた。
 明日の予報は、曇りだけど、なんとか、天気が良くなってくれるようにと祈りながら・・・。(次回に続く。)

                     飼い主より 敬具


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