ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(62)

2009-07-01 18:05:58 | Weblog



7月1日
 拝啓 ミャオ様

 九州では、大雨が降り続いているという。ミャオは、どうしているだろうか。
 つい1週間前までは、オマエは、家に帰って来さえすれば、待っていた飼い主がぬれた体をふいてくれ、後はふかふかの布団の上で、ぐっすりと安心して眠ることができたのに。
 今では、他のネコの来ない空き家や、物置小屋の隙間の、固い床の上で体を縮めて横になり、それでも他の物音が気になり、いつもウトウトとしか寝ることはできないのだろう。
 そして、朝夕、おじさんのところへ行って、同じキャットフードを食べるだけだ。
 といって私が、おじさんに、オマエの大好物の生魚をやってくれるようにと、あらかじめ頼んでおくわけにはいかないのだ。
 あのアジコは、どこの店にでも売っているわけではないし、冷蔵庫に入れておけば臭いもするようになるし、大きすぎるものは、年寄りネコのオマエのために、食べやすいように、包丁で切ってやらなければならない。そう気安く、人に頼めることではないのだ。

 しかし、ものは考えようだ。一年のうちの半分近くを、ノラで暮らさなければならないオマエは、こうした緊張と安心の生活の繰り返しのために、体が活性化され、年齢よりは若く見えるのかもしれない。
 飼い主である私にしろ、北と南の家を行ったりきたりして、その前後には、オマエのことや家のこと、その他のもろもろのことで、気の休まる暇がない。時々、なんて気ぜわしい、バカなことを続けているのだろう、と思うことさえある。
 しかし、その緊張感があるためか、私もオマエと同じように、年よりは若く見えると言われることがある。
 ”ウーム、マンダム”といって、思わずヒゲ面の頬をなでてみる。まあ若い人は知らない、古い男性化粧品のコマーシャルだけど、安いので、いまだに私は使っている。
 「ケッ、鬼瓦顔のクセして、そんなもの使ったって、夏の瓦に塗っているようなものだろうに。」と、ミャオの声が聞こえてきそうだが。

 そういえば、昨日、テレビのニュース話題として、大阪のある動物園での、飼育の取り組み方を紹介していた。
 サル山のサルたちが、動物園側のエサのやりすぎや、観客たちが投げ入れる余分な食べ物のために、体重は二倍以上になり、すっかりメタボ・ザルになってしまって、胸から腹にかけて垂れ下がった肉は、とても見られないほどひどかった。
 それが、外からエサを投げいられないように、金網を高く張り巡らし、エサも制限して、さらにあの旭山動物園式に、遊具も増やしたら、効果はてきめん、体重は激減したという。もっとも、まだ腹の肉は垂れ下がってはいたが。
 動物たちにエサをやりすぎるのは、ある意味で、動物虐待(ぎゃくたい)になるから、と話す飼育員の言葉が印象的だった。
 
 つまり、私は良き飼い主として、ミャオの体のことを考え、精神的にも鍛(きた)えて、さらに食事制限をしているのだ・・・とは、いえないが、(自分の都合で北海道に来ているわけであり)、結果的にそれが、ミャオにとっても私にとっても、良いことなのかもしれない。

  ところで、昨日今日と、一日中、霧雨ふうの雨が降り続いている。気温は、その前に、28度位もあった暑い日々から一転、朝12度で、日中も14度までしか上がらない肌寒さだ。
 最も家の中では、これが丸太造りの家の良い所だが、それまでの暖かさがしっかり残っていて、20度位の快適な温度である。
 さすがに、こんな天気では、外での仕事はできないが、それまでの数日間で、草取り草刈作業もはかどり、もうあと一日分が残っているだけだ。

 しかし、考えてみれば、人間という敵のために引き抜かれ、刈り取られる草の方は、とんだ迷惑なのだ。つまり動物と植物は、互いに依存し助け合うことがあるけれども、敵対することもあるのだ。
 さらに、動物たちが生死をかけて争うように、植物同士でさえ、互いの種の生存をかけて争っているのだ。
 そんな状況は、環境の厳しい、高山帯の植物の分布状況を見ると良く分かる。日当たりの良い草原に咲いていた花々が、いつしかササの進入に負けてしまい、稜線のハイマツの傍に咲いていた花が、いつしか、ハイマツの繁茂に負けてしまい、姿を消してしまうことなどである。

 家の庭でさえ、そこに住む主(あるじ)である私の意向によって、新たな花が植えられたり、種をまかれて増やされたり、さらに自然に生えた花々がそのまま根付いたり、それぞれに選別されている。
 どこからか入ってきて、自然に増えたものは、白いフランスギク、カモミール、黄色いオオハンゴンソウ、ハナガサギク、赤いムシトリナデシコ、コウリンタンポポなどがあるけれど、一番私が気に入っているのが、上の写真に写っている栽培種らしいナデシコの花である。
  小さな草が生えたかと思うと、シバザクラのように広がっていく、そんな株が、庭のあちこちに幾つもある。
 シバザクラの終わった後に、同じような鮮やかな、赤い小さな花を咲かせる。原種である、カワラナデシコや高山のタカネナデシコほどに花弁の先がこまかく切れ込んではいないし、かといってツボミなどを見ると、同属であるカーネーションなどと同じ、ナデシコ科の花であることは分かるのだが、名前は分からない。


 まあ、ともかく、どこから来たか分からないものでも、条件が折り合えば、その地に根付くことになる。九州に生まれた私が、東京を経て、北海道に住むことになるように。
 それぞれの、出自(しゅつじ)なんて、何代目か前まで遡(さかのぼ)れば、もう分からなくなる。もともと、人間の出現自体が、旧約聖書や、古事記に書いてあるように、なにもない闇の中から、つまり混沌の中から生まれたものに過ぎないのだから。
 海の微生物の中から生まれてきたという、学問的な話はともかくとして、生き物自体にとっては、そのルーツを探ることが大切なのではなく、今いるその個体が、生存本能に従い生きることが、最も重要なことなのだ。


 ミャオにとっても、ワタクシにとっても、毎日をしっかりと生きてゆくこと・・・。生きていられる日は、そう長くはないのだから。

                     飼い主より 敬具