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ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

慣れること

2022-05-09 21:28:45 | Weblog



 5月9日

 私には、かかわりのないことだが、長い連休がようやく終わった。
 その間、同じ町にある小さなスーパーに、食品の買い出しに行く以外、どこにも出かけなかった。
 それは昔から続く、私のかたくなな習慣の一つなのだが。
 つまり簡単に言えば、混雑している所に行くのが、イヤなだけである。
 東京で働いていたころも、むしろこの連休を外して、その前後に休みを取って出かけていたくらいであり、今にして思えば、一緒に暮らしていた相手を、連休の時期にはどこにも連れて行ってやれずに、申し訳なかったと思うほどなのだ。
 これもまた私の、情けないともいえる性分の一つだともいえるのだが。
 あえて、混雑の人ごみの中に居たくはないのだ。
 どうしても必要なとき以外には、群れの中に居たいとは思はないのだ。

 それは逆に言えば、強い孤独感に襲われたことがないということでもある。
 あの若き日の、オーストラリア旅行の時も、危険な恐怖感は常に付きまとっていたが、灼熱の砂漠の中をひとりバイクで走っていた時も、バイクの傍に張った夜のテントの中でも、ひとりきりで寂しいという感じはしなかったのだ。
 それはまた、北海道に住みついて、日高山脈の山々を、単独行でテント泊を続けていた時も、ヒグマの恐怖はあったけれども、耐え難い孤独感などを感じることはなかったのだ。

 私は何も、ひとりでいることを勧めるつもりも、自慢するつもりもない。
 むしろ、私みたいな人間は例外であって、会社に家庭に毎日忙しく過ごしている人たちにとっては、最大10連休にもなるこの5月の連休を、毎年楽しみにしていたという人がほとんどだろう。
 つまり、人は自分の置かれた状況に応じて、それぞれに適応して、楽しめばいいのだ。
 例え、悪い状況下でも、今あることに慣れてつらいことを忘れ、次なる段階に向うべきなのだ。

 変えることができない今の状況を、満たされている他人と比べても、何になるというのか。
 自ら努力しない、指をくわえてのただの憧れは、何も生み出さないし、いかに空しいものであることか。
 そんな状況に陥ってしまうくらいなら、むしろ今の状況に慣れるようにして、そこから出発して新たに苦労するとしても、一刻も早く別な喜びを見つけ出したほうがましだ。

 今ある不幸や不運を、いつまでも引きずっていても仕方ないことだ。誰も助けてはくれないのだから。
 今ある環境に早く慣れて、新たに進むべき道を選びだし、そこから自分の愉しみを見つけること、それが心満たされる、自分だけの幸せにつながるのではないのか・・・と自分に言い聞かせるのだ。
 
 不安な状況には、なるべく早く慣れること。
 そして、自分の及ばない憧れはあきらめること。
 さらに、他人と比べない自分だけの喜びを見つけること。
 つまりそれらのことは、前にもここで書いたことがあることだが、時々、私の頭の中で繰り返される言葉にもなっている。
 つまり、これらの言葉は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中でのキツネの言葉、”please…tame me! ”ぼくに慣れて!”というフレーズと、『別冊NHK100分で名著』の中で島田雅彦氏が言っていた話、”幸せとは断念ののちの悟りである”という言葉と、尾崎一雄の短編『虫も樹も』からの、”少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいてもらいたい”、という一節からきているものではあるのだが。

 というわけで、長い連休の間、私は三度ほど、家の周りの長距離散歩を楽しんできただけだったが。
 それは、晴天と新緑の ”風薫(かお)る” 5月にふさわしい外歩きだった。
 (写真上、植え込みのツツジと新緑の山)

 それなのに、いつまでたっても、ウクライナの今世紀に入って最悪の、戦争虐殺は終わる気配を見せないし、情けないことに、国際社会も宗教も解決策を見出すことはできないのだ。
 そして、この理不尽な戦争によってわかってきたことは、おそらくは、これからも同じようなことが起こりうるだろうということと、これによって世界の将来に、人類の行く末に、暗雲が立ち込めるようにもなってきたのだということ。

 さらには日本国内でも、私の第二の故郷でもある北海道は知床で、信じがたい遊覧船運行会社の前時代的経営によって、26人もの死者不明者を出すに至った大惨事が起きている・・・。   
 ただ不謹慎なことに、私は一方では、TVニュースで映し出される知床半島の海岸線部分よりは、その後ろに高く連なる、まだ残雪豊かな知床の山々へと目が行ってしまうのだ・・・山好きの習性で申し訳ないが。
 その羅臼岳(1661m)には、これまでに三回ほど登っているが、その先に連なる硫黄山へのテント泊縦走では、途中の三ッ峰などのお花畑や、固有種のシレトコスミレなどの花々の思い出がよみがえってくる。



 さらに思うのは、のびやかな高原状の溶岩台地と美しい池の景観が目に浮かんでくる、あの木曽の御嶽山(おんたけさん、3067m)のことであり、私が登ったすぐ翌年に、死者不明者63人を出すことになる大噴火災害が起きているのだ・・・。

 私たちが生きているということは、生きるという生き物の本能と、その過程における偶然と幸運の結果でしかないのだろうか・・・。

 いつもの寝る前の読書として、久しぶりに、今から6年前の『文芸春秋』誌の特集記事「88人の最期の言葉」を読んでみて(文庫本になっていないのが不思議なくらいの88人それぞれの意味深い言葉なのだが)、再びしみじみとした感慨が湧き上がってきた。
 それは、私が半年ほど前に悪性腫瘍手術を受けた後だから、余計にそう思ったのかもしれないのだが。 
 その中でも以下にあげる言葉は、当時の是非もない緊迫感が伝わってきて涙を誘う・・・1985年に群馬県御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、520人もの乗客の命が失われた。その墜落する機内の中で、やっとの思いで走り書きをしたのだろう、52歳になる商船三井支店長の、家族あての遺書である。

「(子供たちに)どうか仲良くがんばってママをたすけてください パパは本当に残念だ きっと助かるまい どうか神様たすけて下さい・・・飛行機はまわりながら急速に降下中だ 本当に今までは幸せな人生だったと感謝している」(『文芸春秋』平成28年3月号より)

 こうして、今生きている私たちは、死へと近づいていく人たちの、生死のはざまで揺れ動く、心のさまを知っては思うのだろう。かけがえのない自分の生のありがたさを。

 ともかくこの連休の10日間を、どこにも出かけないで、ひとり静かに過ごすことができたことに、感謝すべきだろう。
 そして、今は何度目かになる、あの兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(つれづれぐさ)』を読み返したところだが。
 つまるところ、『万葉集』と『方丈記』とこの『徒然草』の三冊は、今の私にとって、まさしく”つれづれなるままに”、繰り返し読むにたりうる気がする本なのだ。(他にも、日本の古典、世界の古典と読むべきものは何冊も残ってはいるが。)

「独りともし火のもとに、文を広げて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」(第十三段)

(『徒然草』西尾実・安良岡康作校註 岩波文庫)
(注:読みやすい現代語訳の抜粋版としては角川文庫のビギナーズ・クラシックスの『徒然草』がある)

 

   
 

 


爆撃とピアノ

2022-04-12 21:24:32 | Weblog



 4月12日

 春になると、光の指揮棒の魔法に操られて、次々に庭の花々が開いてゆく。

 ユスラウメに始まって、コブシ、スイセン、ハルザキサザンカ、ツバキ、ヤエツバキ、ミツマタ(写真上、和紙の原料になる)、ジンチョウゲ、ヤマザクラ、そして今では、シャクナゲまでもが咲き始めている。
 もったいない、そんなにみんないっせいに咲かなくてもいいのにと思う。
 一つの花が咲いて散って、十分にその花を楽しんでから、その後に次の花たちが咲き始めて、長く楽しませてくれればいいのに。

 冬が好きで雪景色が一番だ、と日ごろからほざいている私でさえ、春の暖かさと花々には、思わず心もはずみ、山登りとまでは行かなくとも、天気の良い日には、1、2時間かかる里山歩きに出かけたくなるのだ。
 
 ウグイスが一声、窓辺には、もはや散り始めたサクラの花びらが、一ひら二ひら・・・のどけきわが家の光景から暗転し・・・日本から遠く離れたウクライナでは、今も絶え間なく砲撃音が鳴り響いているのだろう。
 現在のウクライナ東部の市民たちは、爆撃音が響く地下室で数十人が身を寄せ合って、長い日々を耐えているという。水や食糧にも事欠いて、病気を悪化させた年寄りなどは死んでいくし、トイレは男女とも地下室の片隅でバケツに出してすませているという悲惨さ、それがもう一か月以上も続いているというのだ。外に出れば、残虐、無差別射撃の敵兵に狙い撃ちされてしまうし、まるで地獄の責め苦ではないのか。
 国際社会は(国連は)、それを止めることさえできないばかりか、あまつさえ首都キーウの近郊の町々で起きている、見るに堪えない一般市民の虐殺の数々・・・今は21世紀の現代だというのに。

 北海道の私の小屋では、井戸が干上がり、水は周りの農家からのもらい水だし、トイレは外で穴掘り処理で始末する。家の周りにはヘビが何匹も住みついているし、時々クマの足跡もある。年寄りになった今では、とても長期間滞在することは無理な状態なのだが、それでも爆撃下にある人々と比べれば、比較にならないくらいに、何と自由で静かな、心地よい暮らしだったことかと思ってしまう。

 つくづく思うことは、人として、生きとし生きるものとして、この世に今在るものたちの、定めについてである。
 もちろん、すべてのものは、この世に生まれ出てきた時から、すぐに生き延びるための競争の中に、投げ出されていくのは当然のことだが。
 それは、時代と環境に、それぞれの出自(しゅつじ)と運不運の中で、自分の定めの下で選別されていくことになるのだろう。
 そこでは、言われているような、個人の自由や権利を誰でもが等しく受けられるはずもなく、人は生まれながらにして、不平等であり不自由であるのだが、しかし生の本能に従い、それでも生きていくのだ。
 仏教界でいう、四苦八苦の世界、”生老病死”の他に、”愛別離苦”に”怨憎会苦(おんぞうえく)”さらに”求不得苦(ぐふとくく)”と”五蘊盛苦(ごうんじょうく、人の心や体の苦しみ)”が待ち構えているこの世。

 そう考えていけば、あまりにも哀れな生き物の世界の話しになってしまうが、それだけではない。
 つまり、こうして命の危機にさらされるのが、人間の、生きものすべての宿命だとすれば、そこを必死に抜け出そうとするのも、これまた人間の、生きものの本能としての強さになるのではないのだろうか。
 家の中に入ってきたアリをつぶそうとすると、アリは自分の命の危機を知って、必死になって逃げようとするが、それこそが生きものの本能であり、生きものすべてには、それぞれに尊い命があることの証(あかし)でもある。
 つまりそれは、同じ生きものとして無駄な殺生(せっしょう)をしてはならないという、仏の教えにもなるし。

 こうしたことを言えるのは、この年まで、様々な苦境危機を何とか乗り越えて生き延びてきた、結果論として、年寄りだから言えることだろうが。
 しかし、本能と危機回避能力があったとしても、多くは幸運やあるいは偶然という助けによって、もたらされた命でもあるのだ。
 私にも、子供のころからのいくつかの出来事や、大人になってからのいくつもの事故に、山歩きでの遭難遭遇危機など数え上げればきりがない。
 人はだれでも、ここでこうして生きていることこそが、奇跡であるのかもしれないのだ。

 世の中には、わずか2歳で実の親に首を絞められて死んだ幼な子もいるし、難病によりわずか7歳で人生を終えた子もいる、わずか16歳で学校内のいじめを苦にして自殺した子もいるし、さらに今、大人たちの起こした戦争の巻き添えになり、死んでいった子供たちもいる。

 それなのに、加害者側は、自国の軍隊が撤退した後の、がれき化した町で、後ろ手に縛られ射殺された死体が転がる惨状を見せられても、自作自演のフェイクニュースだと言い張るのだ。侵略指導者たちのおぞましき答弁。
 言えることは、この戦争を始めた指導者の一人が、もし殺されたとしても、その命だけで、それまでに死んだ一般市民を含む何万人もの犠牲者たちの命を、それぞれのこれからも続いたであろう人生の、ひとつひとつを贖(あがな)うことなどできはしないということだ。なんという人間の不条理。

 有名な例えだが、チャップリンの1947年のアメリカ映画、「殺人狂時代」の中に出てくる言葉・・・”一人殺せば殺人者だが、(戦場で)百万人殺せば英雄になる”。
 おそらくは、チャップリンは、1945年に広島に原爆を投下し、瞬時に十数万の一般市民が犠牲になった、爆撃機エノラ・ゲイ号の乗組員たちが、アメリカに戻って来た時に、英雄として迎えられたのを見て、皮肉を込めて、自作映画の中での言葉として言わせたのではないのだろうか。
 喜劇役者として有名なチャップリンだが、前回あげた「チャップリンの独裁者」とともに、娯楽としての喜劇映画という枠の中で、自分の信念に従って、良心的な映画製作をし続けた勇気ある人でもあったのだ(50年代にアメリカから危険な左翼思想家だとして追放されている)・・・。

 前回ここで、戦争にまつわる映画を何本かあげたが、あの後でふと2本の映画を思い出して、すぐに書き足そうと思ったのだが、つい今日に至るまで、いつものぐうたらぐせで引き伸ばしてしまった。
 他意はないのだが、これからも戦争についての映画を思い出せば、追加することがあるかもしれない。

 一本目は、その後新聞のコラム欄などで取り上げられ、TVのワイドショーなどでも紹介されていた、「ひまわり」である。
 1970年イタリア、フランス、ソ連、アメリカによる合作映画で、監督は、人情味あふれる作品が多い、あのヴィットリオ・デ・シーカ(「自転車泥棒」(’48)「終着駅(’53)「ふたりの女」(’60)「ああ結婚」(’64)など)、音楽はヘンリー・マンシーニ(「ハタリ!」(’61)「酒とバラの日々」(’62)「シャレード」(’63)など)、そして主演の二人は、イタリアを代表する女優ソフィア・ローレン(「河の女」(’55)「ふたりの女」(’60)「ああ結婚」(’65)「ボッカチオ’70」(’61)「ラ・マンチャの男」(’74)など)と、これまたイタリアを代表する男優マルチェロ・マストロヤンニ(「甘い生活」(’59)「私生活」(’61)「8½」(’63)「ああ結婚」(’64)「最後の晩餐」(’73)など)であり、何と豪華なスタッフ、キャストを集めた大作だったかがわかる。

 第二次大戦のさ中に、結婚したばかりで、兵役に就くことになった彼は、イタリアとともに枢軸(すうじく)国ドイツが戦う、ロシア戦線に送り込まれたのだが、やがてロシアの冬将軍が襲来して、イタリア軍は敗走することになる。
 大雪原の中、仲間たちも次々に倒れていくが、運よく近くの娘に助けられて、記憶を半ば失ったまま、そこで生活することになり、やがてその娘と結婚して子供もできる。そこに夫を探しにイタリアから妻がやって来るが、彼が新しい家族とともに暮らしていることを知った彼女は、列車に飛び乗ってイタリアに戻る。
 数年後、今度は昔の妻に気づいた彼が、イタリアに会いに行くのだが、彼女には新しい家族ができていた。二人はすべてを理解して、それぞれの家族の元に戻ることにする。彼女は、結婚早々、ロシア戦線に向かう彼を見送った同じホームで、今度はもう二度と会うこともないだろう彼を見送るのだった。
 戦争が二人の運命を引き裂いてしまったのだ。そしてそれぞれに、今を生きるしかないのだと・・・。

 最初見た時にも感じたのだが、ソ連時代のウクライナのひまわり畑のシーンなどが素晴らしかったのだが、あまりにも主演の名優二人の、それまで見てきたイタリア映画でのはまり役ぶりが強すぎて、この作品には合わないような気がした。(一方、ウクライナの娘役のリュドミラ・サベーリエワは、こんな田舎にはありえないくらいの気品あふれるたたずまいで)。

 しかし、数年たってテレビで放映されたものを見た時に、この映画の主題が、運命にあらがうことのできなかった二人の、長年のメロドラマであることに気づいて、まして当時彼女と別れたばかりだった私には、なおさらに万感胸に迫るものがあった。
 恋人や夫婦として、一時期を一緒に過ごしたことのある人ならだれでも、初老を迎える年になって再会した時に、湧き上がってくる感情を、何と説明することができるのだろうか。
 私は、ただ涙するばかりだった。まして背後にあのヘンリー・マンシーニ作曲の哀切なメロディーが流れていればなおさらのこと。

 もう一本は、ソ連側からの第2次大戦下の若い兵士の帰郷を描いた作品。
 グレゴール・チュフライ監督(他に1956年「女狙撃兵マリュートカ」など)による「誓いの休暇」(1959年)である。

 第2次大戦のロシア戦線で、勲功をあげた若い兵士が、6日間の恩賞休暇を与えられて、故郷に帰って行くという話だが、ついでに立ち寄ってくれと、戦場での仲間から妻への伝言と土産品を頼まれ、さらに乗り合わせた傷病兵の手助けをしたりして、乗り換えの列車に乗り遅れてしまい、休暇の時間は過ぎていく。しかし次の軍用貨物列車の中で、彼は隠れ乗っていた若い娘と知り合い、二人は互いにひかれあうようになる。(二人とも映画初出演の新人とのことでその初々しさが役柄にあっていた。)
 しかし、尋ねて行った仲間の妻は、すでに別の男を引き込んでいたし、行く先の違う娘とも別れることになる。さらに、故郷の村への鉄橋は爆撃で破壊されていたが、それでも彼は何とか対岸の故郷の村に着き、麦畑の中を走って家に向かい、母親と抱き合い言葉を交わすが、もう休暇の時間は残っていなかった。彼は来たばかりの道で振り返りながら、戦場へと戻って行った。・・・その後、母親は毎日、あの麦畑に囲まれた丘の上を見つめて、帰らぬ息子を待ち続けていた。

 この二本の映画は、それぞれに広大なひまわり畑と麦畑のシーンがあり、ロシアの良心を映すかのような映画だった。
 歴史上ロシアは、戦争によってたびたび侵略され、大きな被害をこうむっている。
 ナポレオンによる侵略、第一次大戦によるドイツ帝国の侵入、第二次大戦のヒットラー・ドイツ軍侵攻におけるレニングラード(ペテルブルク)包囲など、敵国侵入の痛みはわかっているはずなのに・・・ 。
 絶対的な一人の指導者が、道を誤れば、攻め入る国の人々だけでなく、自国民にさえ、末代に及ぶまでの負担を負わせることになるというのに。

 しかし歴史は繰り返し、同じ過ちを際限なく繰り返すのが、度し難き(どしがたき)人間の性(さが)なのだろうから、私ごとき取るに足りない、やがてはゴミになるべく生まれてきた人間が、あれやこれや言うべきではないのかもしれない。
 そこで悪魔が、耳元でささやくのだ。
 好きなだけ戦争という殺し合いをやればいい・・・あげくには核戦争になり、人類は滅びてしまうのかもしれないが、実はそのことが、この地球にとっては、そこに棲む様々な生き物や植物たちにとっては、人間たちが居なくなることの方が、望ましい環境になるのかもしれないのだ。地球創世期の地質時代に戻ることで・・・。
 聖書の「ヨハネの黙示録」に予言された終末の時が来るとしても、主(あるじ)なきノアの箱舟に乗せられた、動植物たちが、次なる新天地で、新たな汚れなき世界を作ってくれるのかもしれないのだから・・・。

 窓の外に、散りゆくヤマザクラと咲き始めたばかりのシャクナゲの花々が見える。
 ソファに腰を下ろして、小さな音量で、クナルダールの弾くグリーグの「抒情小曲集」を、聴いている。
 これは、10年程前に買った、BISレーベル12枚組CDの「グリーグ・ピアノ作品全集」からの一枚なのだが、このBOXセットの表の表紙写真が、室内からの窓枠越しの庭の風景であり、この全集の雰囲気を十分に伝えている。(写真下)
 それはまた、同じ北欧はデンマークの静謐(せいひつ)な室内画家、ハンマースホイ(1864~1916)の絵を思わせるのだ。
 少しまどろむ中で、ピアノ演奏が終わり、静けさの中で、すべてのものがぼんやりとして、眠りの中へ・・・。

 暗転・・・爆撃音が鈍く響き、地下室が揺れる。じっと動かない人々は、何も見ないように目を閉じ、互いに身を固くして体を寄せ合い、悪夢の時が過ぎゆくのを待つ・・・毎日、毎日。



人間の不条理

2022-03-13 21:17:46 | Weblog



 3月13日

 3月になってやっと、庭のユスラウメの花が咲き始めた。(写真は満開に近い2日前のものに差し替え)
 何と、平年と比べて、1か月以上も遅い。
 私の記憶している限り、一番早い時では、12月中に咲いた時もあるくらいなのに。

 特別に、この冬が寒かったわけではない。
 年末年始の寒波と、2月中旬の寒波によって、北海道・東北・北陸では大雪だったそうではあるが、九州のわが家周辺では、今年もまた雪かきをせずにすんだのだ。
 薄くふりかけたような雪が、三四度降っただけで、道に積もった雪はほとんどその日のうちに消えてしまった。

 多い年では、30~50cm の雪が積もり、数十メートルはある表の通りまで、一時間余り汗だくになって除雪作業していたというのに、もうこの数年は、雪かきと呼べるほどの仕事はしていないのだ。
 年寄りの体から言えば、楽になってありがたいのだが、冬場の適度な運動として、ほどほどに雪は降ってくれた方がいいし、とか言うと、数メートル降り積もり、屋根の雪下ろしや道路の確保で、重労働を強いられる雪国の人たちには、文句を言われそうだが。
 もっとも、同じ日本でも、雪が降り積もるのを見たことがない人や、スタッドレス・タイヤを知らない人もいるくらいだから、何事も自分の身にふりかかって、初めて気がつくことなのだろう。

 年ごとに、地球規模での気象変動のことが、声高に警告されるようになってきた昨今だが、こうして田舎に住んでいるから、いつも自然が傍にあるからこそ、温暖化へと向かう気象状況を、敏感に感じるようになるのだろう。
 そして、あげくの果てに、差し迫った災害がいつ来てもおかしくないとさえ思ってしまう。
 私たち人間の、利便さを求める飽くことなき貪欲さが、子孫が受け継ぐ時代に、大きな負の遺産を残すことになろうとは・・・”悔い改めよ、終わりの日は近い”と天からの声が聞こえてくるような・・・。

 そこで思い出したのは、1963年のスウェーデン映画、私の敬愛する映画監督であるイングマール・ベルイマンによる『冬の光』である。
 それは彼の他の作品でも度々描かれている、キリスト教の教区牧師の信仰の苦悩の話しなのだが、劇中、当時の中国の核実験のニュースにおびえて、自ら命を絶つある漁師の話しが出てくるのだが、私は当時この映画を見た時には、そんな遠く離れた国でのことなのに、と不思議に思うほどだったのだが。
 しかし、今にして思えば、地球温暖化の問題と同様に、核実験による放射能汚染も、同じ地球規模の大問題ではあるし、遠く離れた自然豊かな国に暮らしているからこそ、自分の身に降りかかる問題として、そのことを、深刻に考えてしまったのだろう。

 とここまで、10日前に以上のことを書いてきて、さらに続けて今回は、日本の中世の隠者たちの話しや、久しぶりに行った九重の霧氷風景のことなどを書こうと思っていたのだが。
 その後突然、世界を揺るがす大事件が起きた。ロシア軍のウクライナ侵攻が始まり、日々、悲惨な戦場の様子が、ニュース画面に映しだされていた。
 とてもそんな状況の下で、隠棲(いんせい)する個人の生き方の問題など、あまりにも異次元の世界に思えて、それ以上は書き進めることが出来なくなってしまったのである。

 しかし、ここで筆を止めてしまえば、何とか”つれづれなるままに”書き連ねてきた、私の日記ブログが停滞してしまい、悪癖は悪癖を誘い、ぐうたらな怠け者の生態があからさまになり、終末の憂き目を見ることにもなりかねないし。
 私は、今までの自分の人生に満足しているし、あえてそう思うようにもしているのだが、さらにこれからも、年寄りとしてもう少しばかりは、人生の余韻を楽しんでいたいと思っている。
 
 ウクライナの人々も何とか、戦時下の悲惨な状況下に耐えて、生き延びてほしいと思う・・・私たちは生きるために生まれてきた命なのだから。

・・・大勢の人々と駅で列車を待っていた、少年の瞳に涙があふれてきて、”死ぬのが怖かった。ぼくはまだ生きていたいんだ”、とやっとの思いで話していた。
・・・避難シェルター代わりの、地下鉄の駅で大きなおなかを抱えた若い女性が叫ぶ、”今は21世紀にもなるというのに。この状況は何!
・・・母親と二人で逃げていた10歳の少女は、その母親を砲撃で失い、彼女は避難民の中ひとりになって、誰にも頼ることができずに、(喉が渇いたとも言えずに)ひとり脱水症状で死んでいった。

 第2次大戦中のドイツ軍侵入下のフランス、南に逃れようとするパリからの避難民の車列に、容赦(ようしゃ)ないドイツ戦闘機の機銃掃射(そうしゃ)があって、瞬時に殺された両親の間で、一人生き残った5歳の少女ポーレットは、近くの貧しい農家の少年ミシェルに助けられて、その家で生活することになるが・・・ラストシーン、孤児院に引き取らることになったポーレットが、駅の群衆の中で、誰かが”ミシェル”と呼ぶ声に、思わずあの農家の少年のことを思い出し、ミシェルと口に出しながら立ち上がり、その言葉はいつしかママと呼ぶ声になって、雑踏の中に消えていく・・・昔の小汚い名画座での再上映のスクリーンを見ながら、私は口を押えて、涙を流し続けた。
 映画『禁じられた遊び』、フランスのルネ・クレマン監督による1952年の作品である。

 小学校1年生になったばかりのころ、私は遠い町の親戚のうちに預けらていて、遠くの大きな町で住み込みの下働きをして働いていた母が、一か月に一度私に会いに来てくれていた。
 一晩泊まった翌日、母はバス代を倹約するために、鉄道の駅まで30分以上をかけて歩いて行ったのだが、私は離れたくなくて、途中まで一緒について行った。
 そんな時、とある橋の上まで来た時、母は私の手を取って、名前を呼んで”死のう”と言った。
 私は泣きながら、後ずさりをした。
 暑い日差しが照りつける日のことだった。
 何十年も前のことだが、いまだにその時の情景が目に浮かんでくる。
 もうそのこと知っている人は、誰もいない。母が亡くなって、やがて私も死んでいくし・・・。

 この度のウクライナ戦争で、どちらが悪いかは一目瞭然(りょうぜん)なのだが、何と言っても、あの妊婦の彼女が言った言葉に尽きるだろう。”今は21世紀にもなるというのに”。
 二度の世界大戦を経て、さらに今でも世界各地での争いが絶え間なく続き、人類は何も学ぶことなく、互いの殺戮(さつりく)を繰りかえす、人間社会の不条理。

 今でも記憶に残る戦争映画のうちから、上にあげた『禁じられた遊び』の他に、幾つかをあげておきたい。
 『戦艦ポチョムキン』モンタージュ(フィルム編集)理論を確立させた歴史的名作。エイゼンシュタイン監督1925年のソ連映画。ロシア革命における今のウクライナはオデッサでの、広場の階段を乳母車が滑り落ちていく有名なシーン。
 『西部戦線異状なし』レマルクの原作を先に読んでいて、京橋のフィルムセンターで初めて見たのだが、それでも映画化されたラストシーンの鉄兜(かぶと)と蝶々の映像は、今でも忘れられない。ルイ・マイルストーン監督作の1930年のアメリカ映画。
 『大いなる幻影』1937年フランス映画、ジャン・ルノアール監督(画家ルノアールの次男)。第一次世界大戦でドイツ軍の捕虜収容所からフランス兵が脱走する話だが、もう一つの視点としての、ともに貴族出身の、ドイツ軍収容所所長と捕虜側のフランス軍隊長との、騎士道的な精神で心通い合う二人の、敵味方の悲劇。
 『シベールの日曜日』1970年フランスのブールギニヨン監督作品。モノクロ映画の映像美。当時のフランス領インドシナで、戦闘機のパイロットが攻撃中に墜落し、助かったのだが記憶喪失になり、帰国して療養中に、孤児院にいる少女と出会う・・・その子の瞳に墜落の寸前に見た現地の子供の瞳が重なって見えたからだ。
 『ジョニーは戦場へ行った』1939年に小説として発表し、それを1971年に自ら製作し監督した、ダルトン・トランボの執念。戦場で四肢を失った若者の、それでも生きようとする思いと決別の時・・・。余りにも辛くなる映画で、感銘は受けるけれども、何度も見たいと思う映画ではない。
 『戦場のピアニスト』2002年、ポーランド・仏・独・英の合同制作。ポーランド出身のロマン・ポランスキー監督の実話にもとづく映画。あるユダヤ人ピアニストの第二次大戦中の苦難の日々。その中でも、クラッシック音楽を理解するドイツ軍将校を前に弾くショパン・・・劇中、ショパンの夜想曲20番19番はじめ、ワルツやバラード、”アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ”などが流れる。

 そして、戦争を起こす人々を徹底的に笑いのめし、そして戦慄(せんりつ)におとしいれた2作品。
 『チャップリンの独裁者』1940年、アメリカ映画。ヒトラーが全盛期のころにあえて制作し、笑いにくるめて世界に独裁者の暴挙を知らしめた、チャップリンの勇気と天才。
 『博士の異常な愛情』1963年、アメリカ映画。狂った科学者の博士、イギリス大佐、アメリカ大統領の三役を演じたピーター・セラーズと鬼才スタンリー・キューブリック監督による、恐るべきブラックユーモア。爆撃機から放たれた核弾頭にまたがり、奇声をあげて落下していく、カーボーイハットをかぶったB-52の機長。

 他に、スケールの大きな戦争活劇としては、『史上最大の作戦』ケン・アナキン監督他による1962年のアメリカ映画、『地獄の黙示録』フランシス・コッポラ監督による1979年のアメリカ映画、『プライベート・ライアン』スピルバーグ監督による1998年のアメリカ映画などがある。

 日本映画はあまり見ていないのだが、先日NHKの「ブラタモリ」で”小豆島特集”をやっていて、そこに”二十四の瞳”記念碑があって、思い出したのだが、子供のころ母に連れられて映画館で見た記憶があり、さらに大人になってちゃんと再上映の映画館で見たのだが、涙もろい私には、また涙という映画だった。
 『二十四の瞳』1954年、木下恵介監督。分教場に赴任(ふにん)してきた、若い女先生と12人の生徒たちの姿を描いている。
 時代はやがて、日中戦争から太平洋戦争へと広がっていき、子供たちも青年になって兵隊検査を受け、戦地におもむくことになる。
 その時女先生は、その男の子の耳元でささやくのだ。”死んではだめ、生きて帰って来るのよ”。(与謝野晶子の有名な歌、”君死にたまふことなかれ”を思い起こさせる。)
 その後、先生は結婚することになり島を離れ、子供も生まれる。
 戦後、先生は島に戻って昔の教え子たちに再会するが、そのうちの何人かは、兵隊になって戦死していたり、負傷失明したり、病気になって死んでいたり、家が傾いて行方知らずになっていたり、とそれぞれの人生があったのだ。
 先生役の高峰秀子が適役で、さらに地元の子供たちの演技が、素直に自然に撮られていた。

 考えてみれば、すべての映画には、どこか遠い時代に戦争の影響を受けているという伏線があって、もともと人間の歴史、世界史こそが、太古の昔から戦いの歴史であり、殺戮(さつりく)の歴史ではなかったのだろうか。
 私たち年寄り世代は、戦争が終わった時代に育ってきて、実際には戦争を知らない世代として、死んでゆくことになるのだろうが、実に幸運な世代に生まれて、生きてきたことになるのだと思う。
 こうしてコロナだ、悪性腫瘍(しゅよう)だと騒いでいるだけで、なんとありがたく、この年まで生きながらえさせてもらったことか。
 悪運尽きるその日まで、おいしい生のひと時を、味わい尽くさねば・・・とこのじじいは、薄気味悪く、にたりと笑うのでした。続く・・・。

 


静観の生活

2022-02-13 21:41:35 | Weblog



 2月13日

 ある日のこと・・・朝のうち、雪はひとしきり降っては一面に積もり、やがて止むとすぐに溶けて消えてしまった。
 そこには、それまでの冬枯れの庭の景色があるばかりだった。

 時が流れる中で、現実はいつも、それまでの記憶を少しずつおおい尽くしてゆく。
 そうして、一日が過ぎ、一年が過ぎ、十年が過ぎ、自分の人生が過ぎてゆく。

 入院手術の日々から半年が過ぎて、それまでに一ヵ月、三ヵ月の検診を受け、そして今回六ヵ月後の血液検査とCTスキャンの検診を受けたが、悪性腫瘍の転移は見られないとのことだった。
 しかし、私はもし転移が見つかったとしても、もうこの年では、老年期の悪性腫瘍は進行が遅いと聞いていたから、いつもその時まかせの私は、転移があろうがなかろうがそれほど心配はしていなかった。
 痛みさえないのであれば、前回書いた思いではないけれど、その時が来るまで再手術などしないで、”のんびりさせてもらいたい”と思っていたのだ。
 もっとも担当医師としては、医師の本分からしても、せっかく長時間をかけて悪性腫瘍を切除してあげたのに、一度は救った命なのにと口惜しい気持ちにもなるのだろうが。

 そうして私は、いつものように思うのだ。
 ここで何度もあげたことがあるけれども、あの良寛和尚(りょうかんおしょう)の言葉である。
 当時(江戸時代)の新潟地震で被害を受けた、近くに住む知人にあてた、見舞いの手紙の中に書いてある言葉。

 ”災難に逢う時節には 災難に逢うがよろしく候(そうろう) 死ぬ時節には死ぬがよろしく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候”

 人によっては、何と突き放した冷淡な言葉だと思うかもしれないが、そこにある真意は(遭うでなく逢うと書いてあるように)、おおらかな仏の愛の下に身をゆだねるべく、私たち衆生(しゅじょう)の安らかなる生を願ってのことだったのだろうが。(キリスト教におけるマリア様信仰にも似て。)

 さて、半年にわたって続けてきた”手術入院シリーズ”の第5弾、最後の話として、今回は事前に病室に持ち込んだものについて書いておくことにする。
 もちろん、入院にあたっては、事前に20数ページに及ぶ“入院のご案内”パンフレットを渡されていて、その中には日用品からスマホやパソコンに及ぶまで、様々な規則が書いてあり、それに従って、持ち込むべきものを決めておかなければならない。
 私のように一人で暮らしている者にとっては、後で必要なものがあっても、頼んで届けてくれる人がいないからなおさらのことだ(病院内に売店があるにせよ)。

 最初は2週間以上の予定だったから、その期間に応じて準備したのだが、手術がうまくいかずに、このまま病院で死ぬことになればなどと考えると、まずは自分の家の整理からすませておかなければならないから大変だ。
 しかし、元来が楽天的に考えてしまう人間だから、その時はその時のことで、生きている今心配してもはじまらないと思って、とりあえず、簡単な日用品洗面具やバスタオルなどに、替えの下着などを用意した。

 そして今は使っていない古いWi-Fiなしのノートパソコンに、北アルプスの山々などの登山写真を入れて時々見ることにして、さらに旅行の時に使うウォークマンに音楽を入れて(ネーヴェル指揮ウエルガス・アンサンブルによるルネッサンスの音楽、バッハの「ヴァイオリン・ソナタ」と「フランス組曲」、クープランの「クラヴサン曲集」、そしてブルックナーの「第4交響曲」に、昔のAKBと乃木坂の歌を少し)夜寝れない時に聞くことにしたのだが。

 本は、『万葉集』第一分冊の文庫本に同じく文庫の『徒然草(つれづれぐさ)』、そして新書版の『西行(さいぎょう)』、さらに『植物は知性を持っている』(NHK出版)と山と渓谷12月号別冊付録の『日本百名山ルートマップ』である。

 結果的に言えば、入院の期間が実質9日に縮まってしまい、パソコンの山の写真は一度見ただけであり、音楽も眠れないときに少し聞いただけであり、やはり私に一番向いているのは、読書であることがよく分かった。
 買ったままで長い間読んでいなかった『植物は知性をもっている』以外は、繰り返し読んできた本ではあるが、和歌や段落の短い文章が、昼間うとうとと寝る前に読むには、まさにうってつけの読み物だったこともある。
(その傾向は今も続いていて、夜眠りにおちる前には、必ず本を読んでいるのだが、いずれも和歌や短い文章が多い本ばかりである。ちなみに今読んでいるのは、『一日一文』(木田元編 岩波文庫)という文庫本で、かつて新潮文庫から出ていた梅原猛の『百人一語』と同じ系統の、読みやすい名文・名言集ともいえる。)

 病院で出された食事は、初めのうちは、ミキサーにかけられた流動食ばかりだったが、一週間もたつと主食のおかゆは変わらないとしても、おかずがついにやわらかい形のままで出されてきて、煮つけの魚や大根がなんと美味しかったことか。

 私は、食べ物に関してはぜいたくは言わないし、もともと子供のころから貧しい家庭で育ったせいか、温かいものを食べることが出来ればそれで十分だという体質であり、今までに忘れられない食事といえば、若き日のヨーロッパ旅行で立ち寄った、フランスはリヨンの友人の家で、パパとママンにごちそうになった夕食、イセエビのフランス風ソースかけであり、今でもあの時の味が思い出されるくらいだ。
 そして、同じく若いころに北海道をバイクでツーリングしていた時に、網走の近くで食べたイクラ・ラーメン、どんぶりの中の麺が見えないくらいに、イクラの粒が山盛りに乗っていた。

 その他、おいしかったと言える料理は、いつもたまたま出会ったものばかりであり、評判を聞きつけて行ったり、まして行列に並んだりして食べたことは一度もない。
 それほどまでして食べる気にならないというのは、ひとえに私のめんどくさがり屋のぐうたらな性格ゆえであり、加えて美味美食を求めるほどのグルメ舌を、私が持っていないためでもあるのだろうが。

 話が食べ物のことにそれてしまったが、元に戻そう。
 短い入院期間ではあったが、思えば本当に静かな部屋で穏やかに過ごすことができて、3食付きの良いホテルに泊まっているような入院の日々だったし、その静寂のひと時を破る来訪者は、かわいい看護師(婦)さんたちだけという、まさに天国顔負けのひと時だったのだ。あーあ何と幸せなことだったのだろう。

 まだまだ、この入院手術の体験にまつわる話はいろいろとあるのだが、もう半年も前の昔のことだし、これからは、たまたま話が及んだ時の、小話の一つとして書くことはあるかもしれないが、正面切って主題としてあげていくには気が引けるし、今回で終わりにする。
 ただ言えることは、前にも書いたことだが、検査、入院、悪性腫瘍摘出手術、治療退院という流れは、もちろん初めての体験ではあったのだが、本当に良い経験になったと思っている。
 昔の健康な体のまま死んでいくよりは、こうして自分の身に降りかかった大病を経験できたことで、また幾つもの新たな視点でものを見ることが出来るようになったからだ。
 たとえば、大病を克服して戻って来た人の、今後の抱負を述べる言葉として、”今までとは違う新しい命を授かって”とか、”新しく生まれ変わった体で”とかいう言葉を聞くことがあったが、今にしてその意味が多少ともわかった気にもなるのだ。

 ともかく、自分の人生の道は、だれでもそうなのだが、誰のものとも同じではないし、いつも自分だけの新しい道であるということだ。
 そして今、私は老人として振り返り思う思索の時にあり、すべてのものを受け入れるべく、大きな広がりの中にいるような気がする。
 薄明の道の彼方には、ぼんやりと見える小さな灯りがあって・・・。

”・・・(私たちは)望みや夢想や欲望や情熱に駆り立てられて、私たち人間の大部分がそうであるように、私たちの生涯の何年も何十年ものあいだ、焦り、いらいらし、緊張し、期待に満ち、実現あるいは幻滅のたびごとにはげしく興奮してきた。――そして今日、私自身の絵本を注意深くめくりながら、あの疾駆(しっく)と狂奔(きょうほん)から逃れて、すなはち「静観の生活」に到達したことが、どんなに素晴らしく、価値のあることであるかに驚嘆するのである。”

 (「人間は成熟するにつれて若くなる」ヘルマン・ヘッセ V・ミヒェルス編 岡田朝雄訳 草思社文庫)
 
   

 

 


真夏の夜の夢

2022-01-25 21:45:13 | Weblog



 1月25日

 上の写真は、道の傍にできた小さな雪庇(せっぴ)で、今年はまだ行っていないが、雪山の尾根伝いにできる雪庇を思い起こさせる。
 九州でも山間部にあるわが家の周辺では、冬の間何度も雪が降って、日陰では数日ぐらいは残っているのだが、日当たりの良い所の雪はすぐに消えてしまう。

 日々が過ぎてゆき、降り積もる雪のごとくに、書くべきことは、山積みになっているのだが・・・。
 しかし、ただでさえ”ものぐさ”なこのおやじ、このところの寒さに縮みあがっているためか(冬の季節が好きだとほざいていたのに)、あるいは手術後の経過を見守るためにとか言って、いつもの”ぐうたら”を決め込んでいるだけなのだ。
 毎日をただ穏やかな気持ちのまま過ごしたいと思い、同じような日々を印鑑を押すように繰り返していく。
 それもいいだろう、値千金(あたいせんきん)の老後の日々を、ただ時間の過ぎ行くままに無為に過ごし、何事もなく見送っているだけだとしても。

 もちろん、こうした生き方は、時間の浪費、自堕落(じだらく)、死に至る自らの未必の故意、にあたるなどといった批判を浴びるかもしれないが 。
 しかし、そうした意見は”馬耳東風(ばじとうふう)”に聞き流したうえで、何かと屁理屈が好きな海千山千のこのおやじは、口をとがらせて言うだろう。”これでいいのだ。”

 もちろん、年寄りになっても、勉学に運動に、刻苦勉励(こっくべんれい)し、心身鍛錬(たんれん)を続ける人たちもいるわけであり、それはそれで立派な行いであり、結構なことではあるが。
 だが私は、こういう時には、前にも何度か引用したことのある言葉を思い出してしまう。

 ”・・・少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい。”

(『虫も樹も』尾崎一雄 新潮日本文学19)

 若いころには、この尾崎一雄の短編などは、読み流していただけだったのに、年寄りになって読み返してみると、心にしみる文章が幾つもあることに気づくのだ。
 上にあげた一節も、その前に続いた現代科学や現代文明に対する、やるかたない思いの文章の後で、あきらめにも似た、しかし強い自分の意志を持った、虫の気持ちでもあるかのようにも思えるのだ。

 さて、このブログは一か月近いズル休み期間になってしまい、いつも通りに、その言い訳としての前置きが長くなってしまったが、まずは続き物として書いている”入院シリーズ”の第4弾として、今回は感謝すべき”病室の天使たち”について、少しはふれておきたいと思う。

 前回、手術後の生理的な問題で、おむつの中に思いきり解放してしまったことを書いたのだが、その時も担当看護師(婦)の若いおねえさんが、こうした事態になれているとはいえ、いやな顔ひとつせずに、シーツとともにてきぱきと処理してくれたのだ。
 いささかサムライの心を持っている、私としては、自分の不始末に深く恥じ入り、切腹したいほどの心境でもあったのだが、そんな状況下、彼女の手際よいアッという間の作業ぶりに、思わず「け、結婚してください」と叫びそうになったのであるが、もちろん自分の年を考えれば、「か、介護してください。これからも、死ぬまで」というべきだったのだろうが。
 そう言ったとしても、冷たく”お断りします”と返されるだけだろうから、サムライはぐっとガマンするのだ。
 
 今回の入院病床は、お願いして個室にしてもらっていた。
 生活を共にする彼女が傍にいたころは、並んで同じベッドで寝ていてもぐっすり眠っていたのに、登山における山小屋泊まりでは、すし詰めマグロ状態で他人と並んで横になることが多くて、周りのイビキ、歯ぎしり、屁、ガサゴソ物音、寝返りなどで、ほとんどぐっすり寝たことはなかった。
 さらに、長期縦走になるとそれが連日重なり、睡眠不足のまま家に帰ってきて、そのぶんを取り返すために、数日は一日12時間も寝るほどだったので、今回の病院でも相部屋病室では眠れないと思い、費用は3倍近くかかるけれども、個室にしてもらったのだ。
 しかし、その個室は、ワンルーム・マンション並みの広さがあり、トイレ・シャワールーム付き、無料テレビ付きで、隣の部屋とは防音壁で区切られているから、静かで、そのうえに3食付きだから、下手なビジネスホテルの個室と比べても、はるかに割安といえる。

 そこに白衣の天使のおねえさんたちが、私の体に付けられた器具の取り換え、検診などをかいがいしくしてくれるのだ。
 手術後の数日は、夜中も2,3時間ごとに胸に貼り付けられたドレーンバッグ(手術後の傷口の出血をためる袋)を交換してくれて・・・真夜中の夢うつつの中で、薄く目を開けると、その看護師(婦)のおねえさんの顔が眼前にあって、思わず唇を出してチューしそうになったくらいで・・・”とうさん、ぼくは久しぶりにこうふんしていました”(「北の国から」の純ふうに・・・。)

 そうして、毎日入れ代わり立ち代わりに来てくれた看護師さんたちは10人余り、2,3回は男の看護師さんの検診もあったが、他は、二人の担当看護婦さんを含めて、ほとんどが若い看護婦さんたちだった。マスクで顔の全部が見えないのが残念だったが、みんな若くてきれいな目をしていた。
 私は、毎日がこんなに楽しく待ち遠しくなるような病室に、もっと長く居たかった。
 しかし、毎朝回診にきてくれていた、美人の執刀女医の先生は、一週間が過ぎた日に、”傷口の直りも早いし、三日後には退院ね”と言ってくれた。
 手術前には、2週間以上の入院予定だと言われていたのに、何と10日間で、退院することになったのだ。
 家に帰っても一人だし、もっとここに居たいと頼んでも、後がつかえているのだろうか、彼女は笑っているだけだった。

 こうして、半年前のコロナ禍の中での、私の入院の一幕は、あの”真夏の夜の夢”(シェイクスピアの戯曲、メンデルスゾーンの管弦楽曲)のごとくに早々と幕を下ろしたのだ。

 もちろん、今でももう一度手術を受けたいとは思わないが、あの病院の個室で、あの明るい笑顔の執刀女医の回診を受け、若い看護師(婦)さんたちに世話をしてもらえるのなら、もう一度入院してもいいと思っている。

 つまり、こうした看護師(婦)さんたちの看護を受けて、前回までの”入院シリーズ”で書いてきたように、あの安らかに効いていった麻酔で、死の床に着けるのなら、それも悪くはないと思ったのだ。
 もっとも、現実は苦しみにのたうち回り、ひとり死んでゆくことになるとしても、今は、ささやかな夢を見ていたいと思う。
 ただ、これは、かなり大きくなった悪性腫瘍除去の、4時間半にも及ぶ大手術でありながら、それを楽天的な経過としてしか考えていない、脳天気な私の独断と偏見に満ちた、入院手術の話しであり、普通であれば悲劇的ないしは劇的な事実として書かれるべきであったかもしれない。

 まだまだこの”入院シリーズ”には、話の続きがあって、第五弾の次回は”病室に持ち込んだもの”についての、話を予定しているのだが、なるべく早く。

 最後に、年末年始にかけて、ずっと家にいた私は、テレビとインターネットに本で過ごしたのだが、その中から面白かったテレビ番組をいくつかあげてみたい。(毎日見る”ニュース”の時間を除けば、ドキュメンタリーやバラエティー番組が主になるが、一日2~3時間は見ていたと思う。)

 まずはスポーツやドキュメンタリーから、あの大リーグエンジェルスの大谷翔平の、努力や活躍ぶりを描いた特集番組を3本(NHK,NHK・BS)。さらに、去年の東京五輪での”サムライジャパン”。稲葉監督以下の選手たちが一つにまとまっていき、決勝で勝つまでの努力活躍を描いた「侍たちの栄光」(NHK)。(すべて結果がわかっていても、何度見てもうれしいものだ、あの”水戸黄門ドラマ”と一緒で。)
 さらに数日前にやっていた、スピードスケート高木美帆選手の500mから3000mに至る、オールラウンダーとしての努力、大谷翔平の二刀流と同じく、鬼気迫る迫力(NHK)。(彼女には帯広からの機内で会ったことがある。)
 他にも、高校サッカー、大学ラグビー、箱根駅伝、富士山女子駅伝、都道府県対抗駅伝など少しずつ見た。自分は他人と競い合うのは好きではないが、若い人たちの競技として見るのは面白い。

「ドキュメント72時間・2021年ベスト10」(NHK)における、様々な人々の人生が交差していく場所での、定点カメラ映像の面白さ。(最近の”看護学校編”も、入院し看護を受けた身から見れば興味深かった。)
 それぞれの人生の歴史を浮かび上がらせる「ポツンと一軒家」も、人の数だけ異なった人生があり、飽きることはないし、地理学地質学を改めて実地で教えてくれる「ブラタモリ」(NHK)も毎回見逃せない。
 私は、ドラマはほとんど見ないのだが、今回の入院手術で、例の「ドクターX」(テレビ朝日系列)シリーズを続けて見た。大病院内の権力争いのドタバタ劇はともかく、大門未知子先生による手術シーンなどは、さすがにていねいに作られていて、見ごたえがあった。

 最後に特筆すべき一本は、TBS系列で放送された「報道の日 2021」である。その第2部は新型コロナ特集であり、特に最後の実録物語には、再現ドラマに実写(病室監視カメラ)をはさんで作られていて、このコロナ禍の中で、幾つもの家族に、同じようなつらい別れがあっただろうにと思わせるものだった。
 79歳になる生物細密画家の母と娘の二人暮らしで、時々一緒に山登りに出かけたりしていたのだが、その二人とも新型コロナに感染してしまい、母の方は重症化して入院することになった。
 このご時世、患者への対面、見舞いなどは禁止されていたから、娘は状況が悪くなっていく中で、自分がコロナをうつしたかもしれないからせめて一言詫びたいし、このまま会えずに母が死んでしまったら悔いが残ると、看護師さんたちに訴え、看護師さんたちも上の婦長さんや医師たちに頼み込んで、ようやく例外的に30分の面会時間を設けてもらったのだ。

 娘は、防護服に身を固めて、看護師たちに導かれて、母のいる重症者病室に入って行った。
 そこには、酸素マスクをしていろいろな管につながれて、ベッドに横たわっている母がいた。
 娘は、母が大事にしていたクマのぬいぐるみを抱いて、母の傍に立った。
 今まで無表情だった母の顔に、涙が流れていた。
 母に呼びかけた。お母さん、私を生んでくれて、育ててくれてありがとう。
 8日後に、その母は亡くなった。

 十数年前、私は、緊急病院のベッドで横になっている母の手を握っていた。
 やがて、母の手から次第に力が抜けていって、そばにいた若い医師が母の最期だと知らせてくれた。
 私は、うつむいたまま、ひとり涙を流し続けた。

 誰もが、通らなければならない道なのだ。
 人は生まれ、生きて、そして死んでいくのだ。

 それだからこそ、生き残ったものたちは、死んだものたちの生への思いを託されいて、しっかりと生きていかなければならないのだ。

 ”・・・ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍先に、荒れはてた荊棘(いばら)に、雪は吹き寄せられて厚く積もっている。天地万物をこめてひそやかに降りかかり、なべての生きものと死せるものの上に、それらの最後が到来したように。ひそやかに降りかかる雪の音を耳にしながら、彼の心はおもむろに意識を失っていった。”

(『ダブリン市民』より「死せる人々」ジェイムズ・ジョイス 安藤一郎訳 新潮文庫、ジョン・ヒューストン監督による名作『ザ・デッド/”ダブリン市民”』1987年イギリス映画)  

 




ひとり深まりゆく中で

2021-12-29 21:35:19 | Weblog



 12月29日

 九州とはいえ、内陸山間部の集落にあるわが家では、冬には何度も雪が降り、30㎝ほど積もることも珍しくない。
 先日、長い車列の渋滞が起きた日本海側の大雪の時は、ここでは2~3㎝の積雪ですんだのだが、そのぶん寒さが厳しく、朝の-6℃から日中も-3℃という真冬日になり、古いわが家では暖房設備が十分ではないので、ポータブル石油ストーヴの前から離れられなかった。
 もっともこのぐらいの温度なら、北海道の毎日-20℃前後の真冬の気温からすれば、これは春先の気温なのだ。
 思えば北海道のわが家には、しっかりした北欧製の薪ストーブがあって、これ一台でだいたい寒さをしのげるし、他に補助用の小さな石油ストーブがあるくらいだが、それで十分なのだ。
 さらに言えば、この冬にカナダのある町では-50℃を記録したとかいう話だから、どこにいても人間は、環境に従いながらも巧みに衣食住をまかない、生きてゆくのだろう。

 しかし病気や事故に巻き込まれれば、狭い地域の自分たちの力だけでは、どうしようもないこともある。
 都市部に居れば、簡単に処置してもらえることが、海山の僻地にいれば、助けられる命が間に合わないことにもなるだろう。
 生きものの世界では、群れることでの利点が多いから、そういう群れとしての行動をとるべく、遺伝子が受け継がれているのだろうし。
 もちろん単独行動をとる生きものたちもいるわけで、ホッキョクグマやヒグマなどは、自分たちが食物連鎖の頂点にいて、仲間同士の争いはあっても、襲われることはないし、単独のほうが捕食や行動などの点で利点が多いからなのだろう。

 人間の場合、群れること、つまり家族や会社などの一員として社会生活を営むことで、自らの毎日の暮らしも成り立っているわけだが、そうではない少数派の人たちは、自他の社会関係が希薄になり、孤立することが多くなり、孤独だということになるのだろう。
 しかしその孤独にも、様々な形態があって、文化芸術を含めて、社会のためになるものを生み出すために、ひとりで考えることが必要な孤独があり、逆に先日の大阪の雑居ビル放火犯や、その前の京都アニメ放火犯のように、思い込みの感情が攻撃的になり爆発して、道連れ殺人を引き起こす孤独感にまでなる。
 もっとも孤独にあるほとんどの人は、他人とかかわるのが面倒だからと、自分だけの世界にこもる、つまり引きこもりの孤独が大多数なのだろうが。

 以上長々と、孤独についての前置きを書いてきたのは、差し迫った死という状況に際しての、ひとり、孤独感について書いてみたいと思ったからである。
 というのも、それは新聞のコラム欄に載っていた記事で、ある宗教学者であり僧侶でもある方が、自分の体験談として、病院で手術を受けて目覚めた時に、ちょうど周りに誰もいなくて、声を出そうにも、顔にマスクをつけられていて、動こうにも、体に何本かの管をつけられていて、起き上がることもできずに、猛烈な孤独感に襲われたというのである。

 私も4時間半にも及ぶ手術を受けて、麻酔が覚め、手術室から個室の観察病室に移されて、うとうとしながらベッドの上で目が覚めた時、周りに誰もいなくて、孤独感よりは、彼と同じように顔にマスク、腕や胸に管でつながれていて、少しずつこれまでの事態を理解していくのが先だった。
 もう長い間、ひとりの部屋で目覚めるのには慣れていたから、そこが病室のベッドの上だと気づいても、ああそうかと思っただけのことだった。

 それよりは、のどが渇いていて、トイレにも行きたくて、まずは起き上がりたかった。
 顔の酸素マスクも取りたかったが、外すと明らかに呼吸が苦しくなったし、体を半身起こしてみたが、それ以上はふらついてダメだった。当然なのだが、長い手術後の絶対安静の時間だったのだ。
 つまり、私は孤独感に襲われるよりは、体内生理の問題をどうしたら解決できるかを考えていた。
 尿のほうは、手術中には尿道カテーテル(管)につながれていて、今はもう取り外されていたが、下半身にはオムツがあてがわれていて、そこに出しても良かったのだが、初めての経験でとても出す気にはなれなかった。

 しばらくして、看護師(看護婦)さんが来た時、尋ねたのは、トイレに行きたいということと、コップ一杯の水を飲みたいということだった。
 しかし、彼女は首を横に振った。手術後6時間は水も飲めないということだった。
 その夜は、手術後の痛み(薬で押さえられていたと思うが)よりは、のどの渇きと便秘気味の便意に苦しめられ、彼女が巡回で来るたびに、水にトイレと訴えた。
 もんもんとして眠ることもできず、そして時間が経過して、ようやく水を一口飲むことが許され(まさしく甘露水)、それを機に腸が動き始めて、恥ずかしながらオムツの中に一気に解放した。

 朝になって、自分の病室に移してもらい、その後、執刀医の先生から回復が早いと言われて、入院してから10日目に私は退院した。

 今回は、上に書いた新聞のコラム欄の記事から、”手術後の孤独感”について書くつもりだったが、私は言われているような、死に隣接している孤独感を感じることは、全くなかったのである。
 それは前回書いたように、私が臨死体験を味わえなかったのが、現実的な死に直面していなかったから、というのと同じように、今回も、手術後の現実の状況を把握するのが先で、孤独感よりは、むしろ生理現象のほうに気を取られていたからではないのだろうか。
 加うるに、この4時間半にも及ぶ手術を、病があまり重篤(じゅうとく)なものだとは考えずに、ただ悪性腫瘍を切り取ってもらうだけのことだからと、楽天的に考えていたからだとも思えるのだが。

 さらに言えば、私は、ひとりでいることには子供のころから慣れているし、大人になってからも、結局は、ひとりでいることの方が多かったように思う。
 そして、それらのつらい寂しい時代こそが、私を孤独に慣れさせることになっていて、今にして思えば、そのつらい代償、見返りとして、今になって病室にひとりでいても、寂しいとは思わないことにつながったのだろう。
 上にあげたコラム欄に書いてあった、病室で寂しさに襲われたという彼は、日ごろから、檀家(だんか)、同僚、生徒、家族に囲まれていて、ひとりっきりの状況に追い込まれるようなことが、少なかったのではないのかと思われるのだが。 

 今回の”入院シリーズ”第3回目として記事を書くにあたって、昔読んだ本を少しだけ読み返してみたのだが、そこから幾つかのことを抜き出してみると。

  ”独りでいられる能力は、幼い時期を通して築き上げられてきた内的安全感の一つの側面である。”

(「孤独、自己への回帰」アンソニー・ストー著 森省二・吉野要 監訳 創元社)

  ”孤独は悪魔の仕事場にもなるが、しかし創造の場になることもある。というよりも、孤独こそ想像の源泉であり、孤独を通さずに想像されたものは何ひとつない。
 ひとりで存在すること、ひとりで生きていることをどう受け取るかは本人の覚悟、本人の哲学次第である。"

 "(ニーチェの友人にあてた手紙より)・・・ただひとえに子供時代からこうした(孤独の)感情に耐える訓練を重ね、この感情が徐々に発展してくれたおかげで、自分がいまだに破滅に至らぬことが理解されるのです。”

  ”彼(ショーペンハウアー)は、平素から自分の死は安らかであると確信していたという。というのは、生涯、孤独の生活を続けた者であれば、他の人にくらべ、死という孤独によく対処することができるはずだと考えていたからである。”

(「孤独の研究」木原武一 PHP)

  ”生が自然のものなら、死もまた自然のものである。死をいたずらに恐れるよりも、現在の一日一日を大切に生きて行こう。現在なお人生の美しいものにふれうることをよろこび、孤独の深まりゆくなかで、静かに人生の味をかみしめつつ、さいごの旅の道のりを歩んで行こう。”

(「こころの旅」神谷美恵子 みすず書房)

  もっとも、いざ現実的に死と対面することになったら、こんな達観した態度ではいられないだろうし、もっとじたばたするのだろうが。
 今回は、孤独と死の問題を、臨死体験と併せて、自分なりに敷衍(ふえん)して理解してみようと思ったのだが、なにぶんこのぐうたらなじいさんのこと、体系づけて書き上げるなど土台無理な話で、この辺りが限界なのだろう。

 さて、真冬に向かおうとする、この時期、赤い実をつけているのは、ナンテンやマンリョウの他に、ずっと高い木になって実をつけるクロガネモチがある。(冒頭の写真)
 家から少し離れた所にある5mほどの木だが、これだけの実があれば、群れで来る鳥たちの冬の食べ物としても十分だろう。
 この鳥たちが、この実の種を運んでいき、またそこにクロガネモチの木が生える。
 こうして、種族が伝えられていく。

 私一人なんて、小さい小さい、地球の一点にもならないのだから・・・それでも一匹として生きていく。                             


 


手術台の患者

2021-12-11 21:47:38 | Weblog



 12月11日
  
 今年の夏に、病院の検診で悪性腫瘍が見つかり、コロナ禍最盛のさ中ではあったが、すぐに数時間に及ぶ手術を受けることになった。
 今はまだ病状の回復期にあるのだが、その他の体調面においては変わりはなく、いたって元気ではあるのだが。
 一方では、この誰でもかかりうる災難とでも言うべき、つまり国民の二人に一人がかかるという、ある種の国民病にかかったことによって、私は今さらにして、また新たに考えるべき視点を、いくつか教えてもらうことにもなったのである。今回はその2回目として。

 繰り返し言うことだが、それは、どんな災難でもやがては自分に益するものになるという、運命的楽観論から言うのでもなければ、針小棒大ふうに表現して自分を見世物にするつもりで言うのでもない。
 人間誰にしもある、終わりの時が近づいてきていることを理解して、それならばと大げさに構えるのではなく、今ある平穏な日々が続いていることに感謝して、時の流れと季節の移ろいを感じながら生きていくこと、そこにささやかな食と住があれば、生きものの一人として、他に何が要るというのだ。

 誰と比較するわけでもない、ただ今にして思えば、長い人生の中で、苦しみや哀しみと、楽しさや喜びとが、何層にも織り重なり、自分だけの人生の織物を作ってくれたのだと思う。
 それは、他人から見れば、あかにまみれすり切れた汚い着物かもしれないが、長い年月を通して着続けてきた、その”着た切り雀”の一着こそが、かけがえのない私の人生だったのだ。
 ありがとさーん。

 そういうふうにあらためて思うに至ったのは、私の体の中にある悪性腫瘍を、外科手術によって除去することを告げられた前後からであり、今日に至るまでの間、その思いが続いているわけである。
 私にとっては、初めての入院と大きな手術であり、ある程度の覚悟を、つまり確率的には極めて低いのだろうが、死という結果を意識しないわけにはいかなかった。
 しかし、私は最近では、何か問題が起きた時には、”なるようにしかならない”のだからと思い、真剣に解決策を考えるよりは、楽天的に物事を決着させてしまう癖がついていて、入院手術をそう大げさには考えていなかったのだ。
 むしろこの大きな手術によって、今まで本やテレビ番組などで見知ってきた、”死の意識”としての、”臨死体験”に出会えることを楽しみにさえしていたのだ。

 それは、死の間際に現れる脳内現象であると言われていて、人間の体は良くしたもので、死の苦痛と恐怖で断末魔の状態にある時、その限界にある死の苦しみから逃れるべく、それらを一瞬にして消し去る、体内ホルモンの一種であるドーパミンが放出されて、幻想のお花畑の楽園に導かれるというのだ。
 死からの生還者の話によれば、その時の脳内映像とは・・・”暗いトンネルを抜けると明るい広い所に出て、周りには花々が咲き乱れていて・・・そこで人の声が聞こえて、意識が戻って死の危機から抜け出したのだという。

 数年前、立花隆の『臨死体験』(文春文庫)やキューブラー・ロスの『死の瞬間』(中公文庫)などの本を読み、さらにはいくつかのテレビ番組を見ていた(2014.9.22の項参照)私は、それらの事実確認に、自分の体を手術台の上の検体にして、体験できるという期待も持っていたのだ。

 ・・・昼過ぎ12時半、私は、病室から手術室へと運び込まれました。
 いくつかの問診の後、口にマスクがつけられて、”これから酸素が出ます”という麻酔医の言葉を聞きながら、それはまるでさわやかな風が吹きつけてくるようで、私は「高い山の上で空気を吸っているようです」と答えながら、そのまま意識がなくなってしまいました・・・。
 ・・・やがて、遠くで誰かが呼んでいるような声が聞こえ、さらにぼんやりと誰かの、”手をグーにして握ってパーにして開いて”というのが聞こえ、私が力の入らない手を握り開いて見せると、周りの人たちから安どの声が聞こえてきました。
 手術が終わったようです。

 口には酸素マスクがつけられていて、腕にはチューブが三つつけられたままで、手術台から自分のベッドに戻され、そのまま2階の手術室からエレベーターに乗って、5階にある術後の特別病室へと運ばれました。
 映画やテレビでの病院の廊下のシーン、走る台車付のベッドから患者が見上げる天井には、明かりがキラキラと流れ去っていく・・・そのままの光景でした。
 次第に意識がはっきりと戻ってきて、そばにいて世話をしてくれていた看護婦(看護師)さんに時間を尋ねました。
 ”6時半を過ぎたところです”・・・。

 朝病室を出て6時間がたっているが、後日、診療明細書を見てみると、麻酔時間は4時間半と記載されていたから、その時間内で手術が行われたのだろうし、残りの1時間半は前後の準備処理、覚醒のための時間だったのだろう。
 そして今回の悪性腫瘍除去手術に際して、手術自体は執刀医師のおかげでうまく執り行われたのだが、私の隠れ興味の一つであった、例の”臨死体験”については、全く得るところがなかったのだ。
 考えてみれば、当然と言えば当前のことだが、私は麻酔で眠らされていたわけであり、途中での記憶もまったくなく、一番深いノンレム睡眠の中にあって、ただ熟睡していたわけであり、眠りの前と目覚めてからのことしか覚えていないのだ。
 つまり、死に瀕してもがき苦しんでいたわけではないのだから、自分の体への死への緩和ケアとしての、ドーパミンが放出さるわけもなく、ただ麻酔の点滴によって意識を失い、記憶が全くないほどに眠り込んでいたのだ。

 ”臨死体験”はかなわなかったが、そこで新たに生まれ出た思いが一つ。
 それは今回の体験として、これほどまでに心地よく痛みもなく、まるで北アルプスの稜線を縦走している時のようなさわやかさを感じながら、意識のない世界に導かれていくのなら、つまり治る見込みのない重病にかかった時に、麻酔導入剤の後に、筋弛緩剤(きんしかんざい)を打って死に導いてもらう、”安楽死”という選択肢を選べるのならば、それも悪くはないと思ったのだ。
 もちろん、外国のいくつかの国では認められているとしても、そこには日本での社会通念や倫理道徳観や医学倫理など様々な問題があり、これはあくまでも素人の個人的見解の一つでしかないのだが。

 さらに、この度の入院手術を受けたことによって、幾つかの考えるべき問題があることに気づかされたのだが、これからも、その中から一つのテーマごとに書いていきたいと思う。次回は、孤独感について。

 さて、上の写真は、今から2週間も前の、庭のモミジの紅葉である。
 手前に、ヒイラギやカイズカイブキなどの常緑樹の緑色があって、両者の色の対比が何ともきれいだった。
 それは、比べるものがあってこその、互いの色の鮮やかさなのだろうが。
 もっとも、それは人間の視点から見る対比の美意識であって、鳥たちにとっては、花や実があるか、あるいは羽を休めるにいい場所かどうかが、彼らの利用価値を左右することになる。
 まして、当の樹々たちにとっては、競い合いによって、どれほど枝葉を広げ、どれほど地下の根を張りめぐらすことができるかが、生きる上での問題になる。

 地球上に生物として生まれ出でてきたものたちはすべて、それぞれに自分でできる限りの、精いっぱいの力を出して生きていくこと・・・。 

 人間、動物、昆虫、木々、草花などなど・・・同じ地球上で、同じ時代に、『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)のように様々な時間の差異はあるにせよ、生きていくということ。

 

 

 

 

 

 


北国、一瞬の秋

2021-11-23 21:36:42 | Weblog



 11月23日

 前回の記事から、何と1か月もたってしまった。
 もう15年にもなる、このブログ記事を書き続けるにしても、かつての思い入れや熱意が、今ではいささか薄れてきてしまっているのも事実なのだが。
 それはいうまでもなく、自分が年寄りになってきたからであり、それまでの人生の経験から、期限を先延ばしすることを覚えて、やるべき仕事を義務的な日課として考えなくなってきたからでもある。

 それは、古い温泉場の湯船の湯垢(ゆあか)が固く積み重なっていくように、私の中には、歳月を経ただけの経験値が堆積していて、味わいはあるだろうが、整理するには始末に負えなくなっているということでもある。
 そうして、私の人生は何の成果もなく、ただいたずらに馬齢(ばれい)を重ねるがごとくに、日々を過ごしてきただけのことなのだろう。

 ところがと、私は開き直って思うのだ。
 誰でもがそうであるように、私は私にとってのベストな人生を送ってきたつもりだ、と自分に言い聞かせるのだ。
 あの時、あの道を選ばなかったからこそ、今があるのだし、数限りない危機の連続の中で、不運を上回る幸運があったからこそ、今ここに生きているのだ。

 江戸時代の、新潟の三条大地震に遭った被災者に問われて、あの良寛和尚(りょうかんおしょう)が答えたとされる言葉・・・「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」。
 そうなのだ。病気に遭おうが、事故に遭おうが、それらは受け入れるしかないし、とどのつまり、死ぬときにはそれらの災難からは解放されることになるのだし。
 昔の日本映画に『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(1985年、森崎東監督)というのがあったのを思い出す。

 つまり、生きているからには、”踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら、踊らにゃそんそん”(阿波踊りの囃子言葉)ということなのだろうか。

 今、私の術後の病状に大きな変化はなく、基本的に元には戻らない部分があるとしても、ほんの少しずつではあるが、改善に向かっているような気もする。
 感心するのは、そうしてわずかずつ治っていくことが、トカゲのしっぽの再生というほどの劇的な再生とまではいかなくても、人間の体にはできる範囲での再生作用が備わっているのだ、と気づくことである。
 この後も、定期的な転移追跡検査が行われていくのだろうが、もう後は神様にいただいた余命のカウントダウンの日まで、いつものように、季節の色どりを感じながら、のんびりと生きていくだけのことだ。もうそれで十分。

 振り返れば一月も前のことになるが、前回書いたように、わずか2週間余りだが、一年ぶりになる北海道にある私の山小屋に行ってきて、ハエ、虫、ネズミのフン、ヘビの抜けがら、キツツキの空けた穴などを、あちこち掃除し補修点検をして、毎日を忙しく過ごしていた。
 ちょうど秋の季節のただ中でもあったから、日ごとの冷え込みとともに、家の林は、赤や黄色に染まっていた。(冒頭の写真は、緑から黄色に変わるカラマツの樹々と、その手前の今が黄葉の盛りのカエデの樹々である。)

 さらに、九州に戻る日、十勝地方は見事に”十勝晴れ”に晴れ上がっていて、空港の前から、緑の秋まき小麦畑の向こうに、新雪に彩られた日高山脈の山々が見えていた。
(写真下、中央にその東壁を見せて鋭くそびえ立つのが、日高山脈第2位の高峰、カムイエクウチカウシ山(1978m)である。私は三度ほどその頂上に立ち、頂きやカール底で一晩を過ごしたことがある。)



 しかし、その日の帯広から東京に向かう便では、それまで新型コロナの影響で減便されていたところに、待望の朝便が運行されるようになったばかりで、ほぼ満席のうえ、もちろん窓側の席も取れずに、こんな天気のいい日にと、どれほど悔しかったことか。窓のシェードを下ろして寝ている人もいるというのに。
 さらに次の羽田乗り換えで福岡に向かう便は、空いていて窓側に座れたのだが、飛行機のルートが少し南にずれていて、やっとギリギリ富士山を見下ろす位置で、写真に窓枠が映り一部反射映り込みがあり(写真下)、これなら反対側の、南アルプスが見えるほうを選べばよかったのにと思ったのだが、後の祭り。



 まあ、一年ぶりで飛行機に乗ることができて、窓の外の眺めを楽しめたのだから、それだけでも良しとしなければ。

 さてまだまだ、病院での手術ことや、術後の入院の日々、その後の軽いハイキングのことなど、書くべきことはいろいろとあるのだが、もうこのブログ記事は、今では日記の体(てい)をなさないほどに相前後した話になってきており、いつか私も、認知症のワンダーランドへと足を踏み入れるのではないのかと危惧しているのだが・・・まあそれはまたそれで、興味深い不思議な世界への、旅の始まりになるかもしれないのだ・・・。
 あー、ヨイヨイと。


北国の家へ

2021-10-21 20:54:24 | Weblog



 10月21日

 病み上がりの体で、いろいろと考えてみたが、もう一年も留守にしたままになる、あの北海道の家を放っておくわけにはいかない。
 どうしても一度は行って、家の様子を見て調べ補修しておかなければならないからだ。

 長距離バスの減便、飛行機の減便の中だが、新型コロナ患者の劇的な減少もあって、数日前、思い切って、出かけることにした。
 さすがに、減収減便の悪循環の、今の旅客機業界を示すかのように、後ろの方はかなりガラガラの状態で、全体を見ても6割程度ではなかっただろうか。
 とは言っても、前の方の座席ファーストクラスやクラスJなどは満席に近かったから、つまりは普通の観光客、家族客などがまだ戻ってきてはいないということなのだろう。

 そんなことより、今回特筆すべきは、いつものことながら飛行機からの山の眺めである。
 福岡空港を飛び立ってからすぐに、左手には英彦山(ひこさん)と由布岳が見えてきて、右手には九重、阿蘇山(昨日噴火した)、祖母山から遠く霧島まで見える天気だった。
 さらに四国では石鎚山(いしづちさん)の真上を通り、明石海峡大橋、神戸、大阪、さらには今夢中になって読み返している、万葉集の故郷である奈良の条里制跡のマス目模様がはっきりと見える。
 そして鈴鹿山脈を越え、名古屋の中部国際空港を眼下にして、御嶽山(おんたけさん)を過ぎるころ、南アルプスの先に、初雪の雪が消えた赤黒い姿を中空にさらけ出して、巨大な円錐形の富士山がそびえ立っている。

 ”待ってました”と声をかけたくなるひと時だ。
 それも左手には甲斐駒に白峰三山から始まる、南アルプスの長大な山なみが続き、その後ろには中央アルプスから北アルプス(穂高と槍も確認できる)。
 さらには、八ヶ岳からその右手に、奥秩父そして浅間山から上信越国境の連なりまでもが見えていて、もう夢中になって、ただひたすらカメラのシャッターを押すばかりだった。(上の写真、伊豆半島上空より)

 2か月前の、つらい手術の後に、神様はその代わりに、こうした思いもよらない幸運を用意してくれていたのだ、目の前に現れた歓喜の光景・・・。
 いつもこうして、悲喜こもごもで半分半分の人生だからこそ、その半分に出会うために生きていたいと思うのだ。
 しかし、小さなミスも一つ。実はこの写真は軽いファミリー向けのカメラで撮ったもので、今回は北海道の山に登るわけではないからと、高画素ズームの重量級のカメラは持ってこなかったのだ。
 まあそれは小さなことでしかなく、今回は、日本中央部の名だたる山々を見ることができただけでも良しとしよう。

 羽田で乗り換えて帯広へ、さすがにこちらの便は、一日に2便だけに減らされていたから、8割ほどの座席が埋まっていた。
 さらに、それから先の飛行機からの眺めは、日光の山々が見えただけで、後は前線が形づくる高積雲の雲海に覆われていて、山々は見えなかった。

 そして、十勝のわが家に帰り着いてみると、家の周りが草ぼうぼうなのはもとより、家の中には、数百匹のハエと、あちこちに散らばるネズミ(体調12㎝ぐらいのエゾアカネズミやエゾトガリネズミ)などのフンと、カビだらけの冷蔵庫の掃除、などなどの仕事が待っていた。
 その上に、寒気が降りてきていて、目の前に連なる日高山脈には雪が降り積もっていて、最低気温も-2℃、-1℃の日々が続き、連日強い霜も降りていた。(九州のわが家を出る時には、最低気温でも12℃くらいはあったのに。)
 しかし、この北国の家の中には、しっかりした薪(まき)ストーヴがあって、暖かくしていられるからいいのだが・・・そして窓辺の揺り椅子に座りながら、ひと時、夕焼けの日高山脈を眺めている・・・。(写真下)



 この北の国ならではの、広い空、雄大な風景は、何があっても見続けていたいと思う・・・果たしてこれから、あとどのくらいの日々が残っているのだろうか。
 もちろん、あの南の国の家には、山に囲まれているから、この北国の広大な展望を望むことはできない。
 だけれども、ライフラインは完備していて、日常生活に困ることはない。それが普通の日本の住環境なのだが。

 しかしこの北の家では、まず井戸の水が干上がっていて、周りの農家に水をもらいに行くか、ペットボトルの水を買うしかない。そんな状態だから、外の五右衛門風呂も沸かせないし、洗濯もできない。
 井戸を掘りなおすには相当のお金がかかるし、死にぞこないの年寄りにはそれは無駄なお金になるのかもしれないし、垂れツボ式の外トイレに行くのも、最近はおっくうになってきたし。
 若い時に、ひたむきになってひとりで建てた家だから、その時は井戸の水も出ていたし、多少の不便を感じながらも、十勝に住むことができるということだけで、十分に満足していたのだが。
 しかし今、年寄りになってきて、水が出なくなった井戸に併せて、他の不便さがどっと押し寄せてきたのだ。

 すべての決断を先延ばしにするというよりは、前回も書いたように、自分の体も、この北の国の家も、いざという時の覚悟はしておいて、その時の手はずは整えておいて、ただ自分の命の続く限りは、この緑豊かな大自然の中で、あるがままの流れに従って生きていけばいいのだと思う。
 深く考えたところで、思い悩むだけのこと、それなら今を生きよ、と声が聞こえてくるような・・・。

 前にもあげたことのある、古代ローマの政治家であり哲学者であったキケローの言葉から。

  ”幸せな善き人生を送るための手立てを、何ひとつ持たぬ者にとっては、一生はどこをとっても重いが、自分で自分の中から、善きものを残らず探し出す人には、自然の掟がもたらすものは、一つとして災いとみえるわけがない。”

(『老年について』キケロー著 中務哲郎訳 岩波文庫)




楽観的に

2021-10-05 22:17:37 | Weblog



 10月5日

 今年も、枝ごとに小さな花をたわわにつけた、キンモクセイの黄色い花が咲き始めて、家の中にまでその香りが漂ってくる。
 わが家の庭に植えこまれた木々や草花のうち、秋の花としてその掉尾(とうび)を飾るにふさわしい、黄金色の豊かな色と香りである。
 秋が来て、日ごとに空気がぴんと張り詰めていき、朝夕の冷え込みは、夏の蒸し暑さを追い払い、冬はもうそこにまで来ているのだと思ってしまう。

 この夏の盛りに、私は病院であわただしい時を過ごした。
 それは長時間の手術を伴う、危険な時間もはらんでいたのだが。
 今思うに、私はそれらの日々の間、どちらかといえば慌てふためくこともなく、今自分の置かれている位置を分かっていたのだと思う。

 つまり、悪性腫瘍の宣告を受ける前後から、私は群れの列に並ぶ羊のように、ただ検査や治療処置に従うだけで・・・それらの作業手順を受け入れる他はなかったのだ。
 今さら自分ではどうにもできない状況の中では、ここに至るまでの原因結果の良しあしなど考えてどうなるというのだ。
 すべては、今ある現状に身をゆだねることしかできないし、それでいいのだと思っていた。

 それは宗教的に言えば、”南無阿弥陀仏”と唱え、”神の御心のままに”と祈ることであり、それはまた歌に書かれているように、”Let it be"とか”Que sera sera”とか・・・どこからか聞こえてくるささやきであり、自分に言い聞かせる言葉でもあったのだ。
 ともかく、事実は事実としてあるだけのことだからと、深く考えないことにした。

 そうした楽観的な考え方は、悪事困難に対面した時に起きる、放心状態の自己放擲(ほうてき)や保身心理が働くからだというのではない。
 しっかりと現状認識をしたうえでのことであり、さらにはそれまでにも自分の人生を肯定的に振り返り、いい人生だったと思うようにしていたからのことである。
 この年になって、自分の人生を否定的に考えてどうなるというのだ。負の連鎖におちいるだけだ。

 それは誰かと比べるのではなく、良いことと悪いことはいつも相半ばしているものだからと、自分に言い聞かせるだけのことであり、他人がどう思おうとどう評価しようと、知ったことではないのだ。
 今、私が生きている唯我独尊(ゆいがどくそん)の世界は私だけのものであり、他人に迷惑をかけずに、そうしたわがままな思いのまま死んでいければ、それでいいのではないのかと思っていたからだ。

 それだから、退院後の今に至るまで、私は自分の病状について分かってはいるが、この先転移再発しないかなどと悩んだりはしていない。なるようにしかならないし、くたばったその時が私の寿命なのだ。

 先日NHK・BSで、コロナ禍において演奏会を開けないオーケストラの苦境を描いた番組をやっていた。
 それは世界中のクラッシックのオーケストラがそうなのだろうが、この東京フィルハーモニーの楽団員たちも、演奏会を開くどころか練習場所さえなくて苦労していた。
 その上に、このオーケストラの名誉指揮者兼音楽監督として、楽団員全員が演奏会を切望しているチョン・ミョンフン(韓国出身のアメリカ人指揮者68歳、姉は名ヴァイオリニストのチョン・キョンファ)が、1年半もの間来日できずにいたのだが、ようやくこの度スケジュールが整い東京に来てくれたのだ。
 そして、この9月に久しぶりに開かれ定期演奏会で、チョン・ミョンフンと東フィルによる”ブラームスの四つの交響曲”が演奏されて、その二日間の公演はまさに熱狂的な拍手に迎えられたとのことだった。

 このチョン・ミョンフムがその時のテレビのインタヴューに答えていて、それは常々私もこのブログで言ってきたことなのだが、”皆は若い時に戻りたいというけれども、私は年を取った今のほうがいいし、これからもそう思いながら年を取っていきたい”と。
 何もこの有名な芸術家と、無芸大食で口先だけの芸術愛好家の私などが、同じ思いにあるなどと大それたことを言うつもりなどないが、ただ私は彼のその言葉に、年寄り同志的な近しさを感じたのだ。
 
 こうして、病み上がりの年寄りの、貴重な一日は過ぎてゆくのであります。

 母の仏壇に供えるリンドウの花が長すぎて、少し茎を切ったところでツボミが二つ落ちてしまい、捨てるにしのびず、刺身醤油小皿に水を入れて浸しておいたところ、花が開こうとしていた。(写真下)

 みんな、生きていたいのだ。