1月25日
上の写真は、道の傍にできた小さな雪庇(せっぴ)で、今年はまだ行っていないが、雪山の尾根伝いにできる雪庇を思い起こさせる。
九州でも山間部にあるわが家の周辺では、冬の間何度も雪が降って、日陰では数日ぐらいは残っているのだが、日当たりの良い所の雪はすぐに消えてしまう。
日々が過ぎてゆき、降り積もる雪のごとくに、書くべきことは、山積みになっているのだが・・・。
しかし、ただでさえ”ものぐさ”なこのおやじ、このところの寒さに縮みあがっているためか(冬の季節が好きだとほざいていたのに)、あるいは手術後の経過を見守るためにとか言って、いつもの”ぐうたら”を決め込んでいるだけなのだ。
毎日をただ穏やかな気持ちのまま過ごしたいと思い、同じような日々を印鑑を押すように繰り返していく。
それもいいだろう、値千金(あたいせんきん)の老後の日々を、ただ時間の過ぎ行くままに無為に過ごし、何事もなく見送っているだけだとしても。
もちろん、こうした生き方は、時間の浪費、自堕落(じだらく)、死に至る自らの未必の故意、にあたるなどといった批判を浴びるかもしれないが 。
しかし、そうした意見は”馬耳東風(ばじとうふう)”に聞き流したうえで、何かと屁理屈が好きな海千山千のこのおやじは、口をとがらせて言うだろう。”これでいいのだ。”
もちろん、年寄りになっても、勉学に運動に、刻苦勉励(こっくべんれい)し、心身鍛錬(たんれん)を続ける人たちもいるわけであり、それはそれで立派な行いであり、結構なことではあるが。
だが私は、こういう時には、前にも何度か引用したことのある言葉を思い出してしまう。
”・・・少しは不便でもいいから、もっとのんびりさせておいて貰(もら)いたい。”
(『虫も樹も』尾崎一雄 新潮日本文学19)
若いころには、この尾崎一雄の短編などは、読み流していただけだったのに、年寄りになって読み返してみると、心にしみる文章が幾つもあることに気づくのだ。
上にあげた一節も、その前に続いた現代科学や現代文明に対する、やるかたない思いの文章の後で、あきらめにも似た、しかし強い自分の意志を持った、虫の気持ちでもあるかのようにも思えるのだ。
さて、このブログは一か月近いズル休み期間になってしまい、いつも通りに、その言い訳としての前置きが長くなってしまったが、まずは続き物として書いている”入院シリーズ”の第4弾として、今回は感謝すべき”病室の天使たち”について、少しはふれておきたいと思う。
前回、手術後の生理的な問題で、おむつの中に思いきり解放してしまったことを書いたのだが、その時も担当看護師(婦)の若いおねえさんが、こうした事態になれているとはいえ、いやな顔ひとつせずに、シーツとともにてきぱきと処理してくれたのだ。
いささかサムライの心を持っている、私としては、自分の不始末に深く恥じ入り、切腹したいほどの心境でもあったのだが、そんな状況下、彼女の手際よいアッという間の作業ぶりに、思わず「け、結婚してください」と叫びそうになったのであるが、もちろん自分の年を考えれば、「か、介護してください。これからも、死ぬまで」というべきだったのだろうが。
そう言ったとしても、冷たく”お断りします”と返されるだけだろうから、サムライはぐっとガマンするのだ。
今回の入院病床は、お願いして個室にしてもらっていた。
生活を共にする彼女が傍にいたころは、並んで同じベッドで寝ていてもぐっすり眠っていたのに、登山における山小屋泊まりでは、すし詰めマグロ状態で他人と並んで横になることが多くて、周りのイビキ、歯ぎしり、屁、ガサゴソ物音、寝返りなどで、ほとんどぐっすり寝たことはなかった。
さらに、長期縦走になるとそれが連日重なり、睡眠不足のまま家に帰ってきて、そのぶんを取り返すために、数日は一日12時間も寝るほどだったので、今回の病院でも相部屋病室では眠れないと思い、費用は3倍近くかかるけれども、個室にしてもらったのだ。
しかし、その個室は、ワンルーム・マンション並みの広さがあり、トイレ・シャワールーム付き、無料テレビ付きで、隣の部屋とは防音壁で区切られているから、静かで、そのうえに3食付きだから、下手なビジネスホテルの個室と比べても、はるかに割安といえる。
そこに白衣の天使のおねえさんたちが、私の体に付けられた器具の取り換え、検診などをかいがいしくしてくれるのだ。
手術後の数日は、夜中も2,3時間ごとに胸に貼り付けられたドレーンバッグ(手術後の傷口の出血をためる袋)を交換してくれて・・・真夜中の夢うつつの中で、薄く目を開けると、その看護師(婦)のおねえさんの顔が眼前にあって、思わず唇を出してチューしそうになったくらいで・・・”とうさん、ぼくは久しぶりにこうふんしていました”(「北の国から」の純ふうに・・・。)
そうして、毎日入れ代わり立ち代わりに来てくれた看護師さんたちは10人余り、2,3回は男の看護師さんの検診もあったが、他は、二人の担当看護婦さんを含めて、ほとんどが若い看護婦さんたちだった。マスクで顔の全部が見えないのが残念だったが、みんな若くてきれいな目をしていた。
私は、毎日がこんなに楽しく待ち遠しくなるような病室に、もっと長く居たかった。
しかし、毎朝回診にきてくれていた、美人の執刀女医の先生は、一週間が過ぎた日に、”傷口の直りも早いし、三日後には退院ね”と言ってくれた。
手術前には、2週間以上の入院予定だと言われていたのに、何と10日間で、退院することになったのだ。
家に帰っても一人だし、もっとここに居たいと頼んでも、後がつかえているのだろうか、彼女は笑っているだけだった。
こうして、半年前のコロナ禍の中での、私の入院の一幕は、あの”真夏の夜の夢”(シェイクスピアの戯曲、メンデルスゾーンの管弦楽曲)のごとくに早々と幕を下ろしたのだ。
もちろん、今でももう一度手術を受けたいとは思わないが、あの病院の個室で、あの明るい笑顔の執刀女医の回診を受け、若い看護師(婦)さんたちに世話をしてもらえるのなら、もう一度入院してもいいと思っている。
つまり、こうした看護師(婦)さんたちの看護を受けて、前回までの”入院シリーズ”で書いてきたように、あの安らかに効いていった麻酔で、死の床に着けるのなら、それも悪くはないと思ったのだ。
もっとも、現実は苦しみにのたうち回り、ひとり死んでゆくことになるとしても、今は、ささやかな夢を見ていたいと思う。
ただ、これは、かなり大きくなった悪性腫瘍除去の、4時間半にも及ぶ大手術でありながら、それを楽天的な経過としてしか考えていない、脳天気な私の独断と偏見に満ちた、入院手術の話しであり、普通であれば悲劇的ないしは劇的な事実として書かれるべきであったかもしれない。
まだまだこの”入院シリーズ”には、話の続きがあって、第五弾の次回は”病室に持ち込んだもの”についての、話を予定しているのだが、なるべく早く。
最後に、年末年始にかけて、ずっと家にいた私は、テレビとインターネットに本で過ごしたのだが、その中から面白かったテレビ番組をいくつかあげてみたい。(毎日見る”ニュース”の時間を除けば、ドキュメンタリーやバラエティー番組が主になるが、一日2~3時間は見ていたと思う。)
まずはスポーツやドキュメンタリーから、あの大リーグエンジェルスの大谷翔平の、努力や活躍ぶりを描いた特集番組を3本(NHK,NHK・BS)。さらに、去年の東京五輪での”サムライジャパン”。稲葉監督以下の選手たちが一つにまとまっていき、決勝で勝つまでの努力活躍を描いた「侍たちの栄光」(NHK)。(すべて結果がわかっていても、何度見てもうれしいものだ、あの”水戸黄門ドラマ”と一緒で。)
さらに数日前にやっていた、スピードスケート高木美帆選手の500mから3000mに至る、オールラウンダーとしての努力、大谷翔平の二刀流と同じく、鬼気迫る迫力(NHK)。(彼女には帯広からの機内で会ったことがある。)
他にも、高校サッカー、大学ラグビー、箱根駅伝、富士山女子駅伝、都道府県対抗駅伝など少しずつ見た。自分は他人と競い合うのは好きではないが、若い人たちの競技として見るのは面白い。
「ドキュメント72時間・2021年ベスト10」(NHK)における、様々な人々の人生が交差していく場所での、定点カメラ映像の面白さ。(最近の”看護学校編”も、入院し看護を受けた身から見れば興味深かった。)
それぞれの人生の歴史を浮かび上がらせる「ポツンと一軒家」も、人の数だけ異なった人生があり、飽きることはないし、地理学地質学を改めて実地で教えてくれる「ブラタモリ」(NHK)も毎回見逃せない。
私は、ドラマはほとんど見ないのだが、今回の入院手術で、例の「ドクターX」(テレビ朝日系列)シリーズを続けて見た。大病院内の権力争いのドタバタ劇はともかく、大門未知子先生による手術シーンなどは、さすがにていねいに作られていて、見ごたえがあった。
最後に特筆すべき一本は、TBS系列で放送された「報道の日 2021」である。その第2部は新型コロナ特集であり、特に最後の実録物語には、再現ドラマに実写(病室監視カメラ)をはさんで作られていて、このコロナ禍の中で、幾つもの家族に、同じようなつらい別れがあっただろうにと思わせるものだった。
79歳になる生物細密画家の母と娘の二人暮らしで、時々一緒に山登りに出かけたりしていたのだが、その二人とも新型コロナに感染してしまい、母の方は重症化して入院することになった。
このご時世、患者への対面、見舞いなどは禁止されていたから、娘は状況が悪くなっていく中で、自分がコロナをうつしたかもしれないからせめて一言詫びたいし、このまま会えずに母が死んでしまったら悔いが残ると、看護師さんたちに訴え、看護師さんたちも上の婦長さんや医師たちに頼み込んで、ようやく例外的に30分の面会時間を設けてもらったのだ。
娘は、防護服に身を固めて、看護師たちに導かれて、母のいる重症者病室に入って行った。
そこには、酸素マスクをしていろいろな管につながれて、ベッドに横たわっている母がいた。
娘は、母が大事にしていたクマのぬいぐるみを抱いて、母の傍に立った。
今まで無表情だった母の顔に、涙が流れていた。
母に呼びかけた。お母さん、私を生んでくれて、育ててくれてありがとう。
8日後に、その母は亡くなった。
十数年前、私は、緊急病院のベッドで横になっている母の手を握っていた。
やがて、母の手から次第に力が抜けていって、そばにいた若い医師が母の最期だと知らせてくれた。
私は、うつむいたまま、ひとり涙を流し続けた。
誰もが、通らなければならない道なのだ。
人は生まれ、生きて、そして死んでいくのだ。
それだからこそ、生き残ったものたちは、死んだものたちの生への思いを託されいて、しっかりと生きていかなければならないのだ。
”・・・ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍先に、荒れはてた荊棘(いばら)に、雪は吹き寄せられて厚く積もっている。天地万物をこめてひそやかに降りかかり、なべての生きものと死せるものの上に、それらの最後が到来したように。ひそやかに降りかかる雪の音を耳にしながら、彼の心はおもむろに意識を失っていった。”
(『ダブリン市民』より「死せる人々」ジェイムズ・ジョイス 安藤一郎訳 新潮文庫、ジョン・ヒューストン監督による名作『ザ・デッド/”ダブリン市民”』1987年イギリス映画)