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ユダヤ人強制収用所に移送の主導者アイヒマンの裁判を放送した人々「アイヒマンショー」2015年制作

2016-10-22 17:28:11 | 映画

               
 ウィキペディアから引用しよう『アドルフ・アイヒマン(1906年3月19日 – 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。

 戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された』とある。

 映画は、1961年4月11日からイスラエルのエルサレムで始まった裁判を、テレビ放送した人々を描く。若きプロデューサーのミルトン・フルックマン(マーティン・フリーマン)は、共産主義者を排斥するいわゆる赤狩りの対象になったドキュメンタリー映画の監督レオ・フルヴィッツ(アンソニー・ラパリア)に演出を依頼した。

 レオは被告席に座るアイヒマンの表情、特に目に注目。その変化を映像に収めたいと思っている。一方ミルトンは、裁判の全体をという意見。真っ向から対立する二人だが、そこはプロ、引くところは引いて仕事を進める。

 裁判は大詰めを向かえアウシュヴィッツ、ベルケナウ、ベルゼンの虐殺の実際。銃、ガスを用いた大量虐殺のドキュメンタリー映像を見つめるアイヒマン。それまで112人の証言にもたじろがず平然としていたアイヒマンが目を動かし顔をしかめる表情が出る。

 カメラは執拗にそれを追う。レオは「ドキュメンタリー映像は抑圧した感情が嫌でも露呈する。それが映像の力だ」今まさにそのことが起こった。

 アドルフ・アイヒマンは、生まれついての殺人者ではない。ウィキペディアで彼の生い立ちを読んでいると、ホロコーストを主導したいきさつが推測できる。彼は頭脳明晰でもなく卓越した才能もないが、アイディアを出す能力はあったようだ。

 「アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった。なお全くの偶然であるが、アドルフ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している」とウィキペディア。

 それでもゲシュタポ(保安警察)のユダヤ人課に配属され、その頃からユダヤ人問題の専門家となりヒトラーの命令とはいえ「ユダヤ人問題の最終決着」ホロコースト、大量虐殺へとなだれ込む。恐らくこの頃はサディストそのものになりきっていたのではないか。

 親衛隊中佐までしか昇進できなかったのを見ると、学歴もない一介の男の限界が見える。しかし、そこまで行くのにでも命令に従順であり、その命令を踏まえてアイディアを加え、十分な成果を挙げる実行力を発揮せざるを得ない。それに応えたアイヒマン。

 映画は最後に次のメッセージを伝える。「自分は他者より優秀に創られたと一度でも考えた者はアイヒマンと同じ地平にいます。そして一度でも鼻の形や肌の色や信仰する神の違いによって、他者に悪意を抱いた者は理性の喪失が狂気への道と知るべきです。このようなことから全てが始まったのです」

 それにしてもあのドキュメンタリー映像は、正視に堪えられない程ひどいものだった。その強い衝撃は、レイの泊まる小さなホテルの女主人ミセス・ランドー(レベッカ・フロント)が言う「世間の人が理解する手助けになった」

 それは彼女の左手首には番号が刺青されている。つまり彼女は強制収用所出身者で、その番号を見た人から質問を受けてナチの拷問を話しても信じてくれなかった。「このテレビ中継のお陰で世界の人が知るようになってよかったと思う」と。劇場公開2016年1月

 

 

 

監督
ポール・アンドリュー・ウィリアムズ1973年イギリス、イングランドポーツマス生まれ。

キャスト
マーティン・フリーマン1971年9月イギリス、イングランド生まれ。
アンソニー・ラパリア1959年1月オーストラリア、アデレード生まれ。
レベッカ・フロント1964年5月イギリス生まれ。

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