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読書「関ヶ原」司馬遼太郎 

2012-08-18 10:15:55 | 読書

                
 徳川家康と石田三成が対峙した関ヶ原。謀略と戦略に長けた家康に対し、道義、道理、正義、恩顧といった観念が三成を支えている。
 三成が正義の戦いと位置づけたのに対し、謀略を重ねて単に天下人へのステップに過ぎないと認識する家康。それらの背景を小説家らしい筆致で描いて飽きさせない。

 とはいっても、歴史小説の史実に基づくという前提に拘束され、作家の想像力が限定さていることも否めない。三成のくわしい性格や初芽という架空の女を相手にあてがっているのは、三成も男だよ。と言いたいのかもしれない。
 この本では三成の具体的な風貌も描いてある。初芽の視点で見ると「驚くほどの涼やかな眼を持っていた。眉が上がり、唇がひきしまって、利かぬ気の少年のような容貌を持っている」となる。裏切りにもあい敗戦を悟ったとき家康に反撃するには生きることが大事と戦線から離脱する。しかし、捕まり京都四条河原で斬首される。

 ただ、三成の無駄な抵抗だったかといえばそうは言い切れない。この本のラストシーンが妙に印象的だった。引用してみよう。“祇園下河原の松林の中に一庵があり、そこに目もとの涼やかな尼が住んでいる。浮世を寂(わ)びるには痛ましいほどに美しいというので、そのあたりのうわさになっていた。黒田如水は、ふと思い立ち「蔵若、寄ってみよう」と言って紫折戸(しおりど)からすらすらと中に入り「一椀、水を下さらぬか」と声をかけた。中略 やがて「あの男は成功した」と言った。
 「ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤へのなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって三成などの寵臣(ちょうしん)までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。かつは置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点から言えば、あの男は十分に成功した」と如水はいうのである。やがて如水は茶碗を置き、立ち上がった。――供養に。と、懐中のものをそこに置き、あらためて尼の俗名をよんだ。初芽、という。しかしそのときには尼の姿はない” 

 この架空ではあっても初芽という女性を配したことによって、三成の生身の人間を感じるし、歴史の一齣を時系列に並べた味気なさも薄められ、あたかも実在したかのような錯覚を初芽に覚える。それにしっとりとした余情が漂い読後感が爽やかだ。
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