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小説 人生の最終章(2)

2007-03-29 14:36:42 | 小説
 


 始まりは冬、その年の一番寒い日で、眼科の待合室だった。うつむき加減で読んでいた本の向こうに影がよぎった。その影は、斜め向かいの椅子に腰を下ろした。この病院の眼科待合室は、受付を挟んで左右に四人掛けの椅子が広がっている。壁に沿って長椅子が所々置いてあり、その一つに香田は座っていた。
 白い壁には絵もなくポスターもないただの平面が広がっているだけだった。彼女を見たのは、今日で二度目だ。二週間前に見かけて以来である。男物のような白のブラウスの襟を立て加減にして、黒のふんわりとした光沢のある布地と裾にグレーのレースを飾りつけたスカートを細身の体にまとい、黒のブーツで決めていた。
 歳は、五十になったかならないかというところ。少し長めの髪をゆるくカールさせ斜めに前髪を流し、知性と女らしさが卵形の顔によく似合っている。黒目の部分が多い瞳と薄めの唇へと流れる頬は気品に溢れている。もうこれは中年女性の色香というほかない。
 若い女性でも、これほど人の目を惹きつける人を見かけた記憶がないほどだ。彼女は単に美人というのでなく、内面からにじみ出る何かが魅力的にしているのだろう。それは、教養であり生い立ちであり人生経験やその人の考え方が、ほのかに立ち昇る爽やかな香りのように、周りの人たちを幸せな気分にさせている。それは良質の音楽や絵画、それに映画、小説に出会う喜びにも似ている。
 香田は本を読んでいる振りをしながら、上目使いで彼女を観察していた。すると不意にこちらを向くことがある。予期せぬ動きだからどぎまぎする。右隣に座っていた人が呼ばれて立ち上がって診察室に向かった。顔を上げると彼女と目が合った。考える暇もなく頬を緩めてうなずいていた。彼女も笑顔で応じてくれた。何かきっかけが出来たようで、安堵感が広がっていった。しかし、どう言葉をかけるのかと思うと早くも暗礁に乗り上げた気分になった。
 そんなことを気にかけても仕方がない、なるようにしかならない。本に目を落とす。しかし、心が乱されて集中できない。まるでニキビ面の若者にでもなった気分だ。考えてみると、こういう気持ちになったのは数十年無かったことだ。いったい俺はどうしたのだろう。
 「香田順一さん、二番からお入りください」と名前を呼ばれている。「ハイ」と返事をしても相手はスピーカーからの声で応答はない。二番のドアを開けて暗い診察室に入った。すぐに診察が始まるわけではない。一番から五番まで、カーテンで仕切られた個室があり、それぞれの担当医がそこで診察をしている。担当医からの呼び出しを待つ人が、明かりが乏しく暗い部屋に十人ほど腰を下ろしているのが見える。
「お変わりないですか?」「どうしました?」「しばらくこのまま様子を見ましょう」などという担当医の言葉が漏れてくる。患者は高齢者が圧倒的に多く、白内障や緑内障手術後の診察が多くを占めている。
 しばらくそんなやり取りを聞くともなく聞いていると名前を呼ばれた。担当医は若い女の先生で、いつもの儀式に取り掛かった。眼球の中を覗く機械にあごを乗せて、瞼を一杯に見開く。瞼をいっぱいに開いているつもりが歳のせいで十分ではないようだ。先生の手が伸びてきて、瞼を押し開けて機械のレンズを当てる。どうやら問題はなさそうだ。次が眼圧の測定。二種類の薬を目に落としレンズを覗き込む。左目十七、右目二十一。右目がいつも高い。手術をしたがなかなか正常範囲に収まらない。いつものように二ヶ月先の予約と同じ薬の処方で終わる。
お礼を言って辞去すべく引き戸のドアを開けかけたとき、なにやらドアが軽く感じられて引き開けると、彼女が入ろうとドアに手をかけていた。とっさに言葉にならずただ笑いながら「今からですか?」が精一杯だった。彼女は笑みを浮かべ軽く会釈して部屋に入った。
 会計で費用を支払い、病院の前にある薬局で目薬を受け取って駐車場に向かった。病院の建物はかなり古く白っぽいコンクリート造りで潤いのない建物だ。今日のように気温の低い日は特に。ここで大腸がんを内視鏡で摘出、緑内障の手術をしたことを思い出していた。
 駐車場にも何かもの足りなさがある。木々は大きく枝を伸ばしているが、その下はアスファルトで固めてある。目に映る風景に潤いがないのは、その辺が原因なのだろうかなどと思いつつ車の鍵のボタンを押した。ほとんど同時にうしろから声がした。
「病院は時間がかかりますね」振り返ると笑顔と白い息を伴って彼女が立っていた。吐く白い息が妙に色っぽい。今まで並んで立つ機会がなかったので気づかなかったが、香田の背丈より少し低い程度だった。彼女は百六十五センチほどだろう。道理ですらりとしていると思った。
「本当にそうですね。いつも午前中がつぶれますよ。まあ、一日つぶれたとしても、何の問題もないし。それに二ヶ月に一回ですから」あと何か付け加えたいと頭を回転させていると彼女が
「私は一週間毎なんですの」と言う。早く何か言わなくっちゃ、こんなチャンスは早々ないぞ!
「いずれ二週間毎から二ヶ月毎になって、病院に来なくていいようになりますよ。私なんか今度来るのは、四月ですから」
彼女は皮の手袋をした手でコートの襟をかき寄せた。かなり寒い。
「今日は本当に冷えますね。雪になるかも」と彼女は曇り空を見上げながら、独り言のように言った。寒さで赤く染まった頬を眺めながら、なんて美しい人だろうと魅入られていた。そして、この人に恋をするだろうと確信を抱いていた。
その彼女は、顔を香田に向けもせず唐突に
「それじゃ、また」と言ってモノレール駅のほうへ歩みだした。
「ええ、お大事に!」と香田は、彼女の背中に言葉をかけてしばらく見送っていた。
やがて彼女は裏門に着き、振り返り右手を上げてサヨナラの挨拶を送ってきた。なんと若々しく親しげな、それでいて好ましい振る舞いだろう。香田もとっさに軍隊式敬礼で応えた。
香田は軍隊の経験はないが、太平洋戦争中の中学生の軍事教練で教えられた。間もなく彼女は建物の影に消えた。寒風が追い討ちをかけた。香田の口元に自然に笑みがこぼれ出る。今冬一番といわれる寒さなのにあまり感じない。アドレナリンが放出される興奮状態なのだろう。身も心も若者に返ったようだ。車に乗り込みキーを捻ると、この寒さにめげず元気よく息を吹き返した。病院の門から出てデッキのスイッチを押すと、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」の穏やかな曲が流れてきて、それはまさに香田の気分にぴったりだった。
コメント
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