旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

デカルト

2008年08月30日 17時19分19秒 | Weblog
「哲学 原典資料集」の解説より。
「デカルトは、スコラ哲学的な知の制度の不確実さに疑いを抱いた。デカルトは自然を認識するための最も確実な方法として数学を模範とした。ただしその数学とは、デカルト自らがその創始者のひとりとなった『解析幾何学』であって、幾何学的問題を代数学における方程式解法に帰結させるこの学によって、数と図形が統一されるだけでなく、自然に関する他のあらゆる学問を統一する方法が提供される。この普遍数学の理念こそ、古典的な近代理性主義、合理主義の秩序を成立させる一つの大きな動機となる。デカルトが理性主義の旗手であるゆえんである。」

「エピソードで読む西洋哲学史」より。
「自然はモノである。かたちを持ち、一定の物理的な法則の支配のもとで運動している。嵐が来る。雨が降る。別に神の怒りによってそうした現象が発生するわけではない。雨や嵐に心はない、気持ちはない。嵐は単に吹きすさび、雨はただ降るのである。世界や自然をこのように解釈することを機械論という。」(一部を改竄)

「エピソードで読む西洋哲学史」より。
「デカルト以前には、石が落下する。なぜか?石は自分のふるさと(宇宙の中心)に帰りたいからだ。落下物体の速度は増し、加速する。なぜか?自分のふるさとに近ずくと心がはやるからだ。古いスコラ的・アリストテレス主義的な説明の方法である。こういう説明の仕方を目的論的説明という。デカルトやガリレオが攻撃したのは、この種のアリストテレス主義的な合目的論である。デカルト自然学によって精霊と神秘に満ちた世界が、ようやく物理法則にしたがって運動する単なる物体の世界に変容する契機を得たのである。」(一部を改竄)

cogito,erugo sum

2008年08月29日 09時40分06秒 | Weblog
                    デカルト




哲学の第一原理
「私は考える、故に私はある。」

「私とは、その本質あるいは本性がただ考えることに他ならないところの、ひとつの実体、この実体が存在するためにはどんな場所も必要としないし、どんな物質的なものにも依存しないということである。したがって、この私を私たらしめている精神というものは、物体と全く区別されたものであり、また精神は、物体より認識しやすいものであって、たとえ物体が存在しないとしても、依然としてそれがあるところのものであり続けるであろう。」デカルト『方法序説』第4部

「エピソードで読む西洋哲学史」は、「身体とは別個に『精神というもの』が存在するという考え方は、考えるという事実があるからといって『考えているもの』が物体ではない何かであるということにはならない。また、デカルトは精神と身体が影響しあうとみたが、物体ではない、つまりかたちがないものがどのように身体に影響を及ぼすのか説明できなかった。これがデカルト流心身二元論のアキレス腱となった。現代では、『私には脳がある、故に私は考える。』というのが常識である。」と説く。

デカルト流二元論について「哲学 原典資料集」は、「色・音・香り・味などの感覚的性質についての観念が不明瞭であるのと対照的に、長さ・広さ・深さ・形・運動などの幾何学的・物理学的観念は明晰判明であって、物の実在する性質に対応しているはずのものである。感覚的性質の観念は、物それ自体に属する性質に対応するものではなく、幾何学的・物理学的性質を持った本当の物を原因として、人間の精神の内部にのみ結果として生じる主観的印象に過ぎない。『物体』の本当のあり方の探求は、感覚に依拠せずに、幾何学的。物理的観念を用いる知性の行使によって進められるべきである。自然を理性的に認識する精神と、そのように認識される限りでの物体との二元論への道がここに開かれた。」と解説する。


西洋哲学史

2008年08月28日 21時48分04秒 | Weblog
手元に、共著「哲学 原典資料集」東京大学出版会と堀川哲著「エピソードで読む 西洋哲学史」PHP新書という2冊の本がある。

前者の「はしがき」は「哲学は、誰のものでもいつの時代のものでもない知られざる『名もなき真理』の呼び声に、招きに、促しに、心惹かれた者たちの密やかな認識努力である。その呼び声の、招きの、息吹に吹きさらしになりつづけること。それが哲学の現場である。そして哲学の旗の下には、死屍累々たる死骸が埋まっている。それは、その促しに応答を試み、謎めいた哲学の言葉を吐きつつ倒れた先人の哲学者たちである。」という格調高い書き出しで始まる。著者はいづれも東京大学の教授もしくは助教授である。

後者の「はじめに」は「有名人というのもなかなか大変である。自分の私生活を他人に公然と詮索されるのである。育った家庭はどうだ、どんな父親だった、母親は優しかったかか、女性関係はどうだ、生活費はまっとうに稼いでいたか、死ぬ時はどうだったか、とはじくりだされる。」という三面記事的な書き出しで始まる。著者は法政大学経済学部卒業後、同大学院博士課程修了、現在、札幌大学経済学部教授という経歴である。

阿川弘之著「大人の見識」

2008年08月27日 02時18分39秒 | Weblog
功成り名を遂げて文化勲章まで受けられた阿川さん、題名を「老人の不見識」にした方が面白いかも知れないと冗談を言われたとか。冗談じゃありません、「老人の不見識」という題名の方が面白いどころかはるかに内容に即しています。

開口一番は東条英機の批判、中学生程度の見識しかない東条に支配された軍部や国家の不幸を嘆かれますが、それを容認したあなた方エリートたちの責任でもあったという視点が欠落しています。

遠藤周作を引き合いに出して「世界には3つのインターナショナリズムがあるそうですね。」まではよいのですが、その3つがカソリシズムにコミュニズム、ネイビイズムとは噴飯ものです。しかもコミュニズムに関しては学理的な自信がないそうですね。

それで反共の旗手とは恐れ入ります。ネイビイズムを連発される前に、せめて「経済学批判序説」に「共産党宣言」「剰余価値論」くらいは読んでおいてくださいませ。マルキストでもないわたしですら「資本論」くらいはかじっています。

明らかな社会科学音痴であったことは先刻承知ですが、「お前はほんまに赤が嫌いなんか。そんなら世界一大きな反共団体知っとるか?カソリックやで。カソリックに入れよ。お前。」とあなたにカトリックを売り込んだ遠藤周作は、あなたよりいい意味で現実的です。

全編を読んで感じました。阿川さん、随分ストイックな武人の生き方に共鳴されるようですね。武士道に生きたひとや英国風のジェントルマンがお好みのようです。ずいぶん高尚なモラルを説かれる割には、肝心な感性がかなり古めかしいですよ。

阿川さんは、東大で国文学を専攻するも戦況の悪化により繰り上げ卒業。海軍に入って士官の経験までされて、戦後は文豪志賀直哉に師事というご経歴なのですね。

海軍提督3部作も結構ですが、戦死した日本の将兵・軍属230万人のうち140万人以上が餓死や栄養失調死であったという現実から目をそむけたような偉人伝なんて何の意味もありません。「大人の見識」が聞いて呆れます。

堤未果著「貧困大国アメリカ」

2008年08月26日 00時32分14秒 | Weblog
第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々

2005年の統計では、全破産件数208万件のうち204万件は個人破産、その原因は高額医療費の負担だった。

日本では盲腸の手術代の保険点数は2007年12月現在で6420点(64200円)である。平均入院日数に最高レベルの医療サービスを受けたとしても、差額ベッド代をのぞくと1日にかかる入院費は1200点(12000円)を超えることはない。従って4日から5日間入院しても、合計で30万円を超えることは殆どない。

        盲腸手術入院の平均費用
ニューヨーク   243万円    平均入院日数 1日
ロサンゼルス  194万円         〃   1日
香港        152万円         〃   4日
ロンドン      114万円         〃   5日     

花火

2008年08月24日 00時00分44秒 | Weblog
ドラムスが心音のようにみぞおちあたりに響く。懐かしいベンチャーズ・サウンズに乗って夜祭りは始まった。演奏の中盤でベンチャーズの「アパッチ」を生演奏で聴いた。10有余年前に来日したベンチャーズの生演奏を聴いて以来だ。夕日のなかを馬で駆けるアパッチ族の哀愁が目に浮かんでくる。舞踏とまがうばかりの和太鼓演奏も見事であった。

ささやかな「はなび大会」は宮島の水中花火や、宇品港の花火と比べると著しく見劣りがする。打ち上がる花火のテンポの遅さに少々いらついた。それでも見方によれば、たまに夜空に咲く大輪の花火もそれなりに哀愁があっていい。心がやや鬱状態だからなおさらなのであろう。公園の入口から催し物の会場までお決まりの夜店が続く。

そういえばこの19日でわたしもまたひとつ年をとった。3人の知り合いの女性からバースデイカードが届いた。うちひとりのカードには「東京に来る(行く)予定があったら一緒に食事をしませんか?」という内容のメッセージが添えられていた。昨年末に彼女が広島に来た際には8時頃から深夜の3時くらいまでひたすら飲みながら語った。彼女の同僚からご馳走になったお礼も済んでいない。

機会があったら東京で会ってみたいと思う。アメリカ滞在歴が長かった彼女は今年から東京勤務になった。彼女の同僚から”Are you single?”と英語で問われて、思わず「No coment!」と応えてしまったあの夜を思い出す。博士号を持つチャーミングな女性である。



宴会

2008年08月23日 01時42分31秒 | Weblog
一昨日はパーティーで昨日が宴会である。パーティーなら席の移動が自由である。根がお調子者につき、あっちこっちのテーブルに出没して、おどけながら場を盛り上げる。話し、飲みかつ食らうのが楽しい。ところが、和風の宴会の場合には移動が窮屈なのでそうはいかない。少人数であれば余計である。言動が大いに制約を受ける。だから、ひたすら飲みかつ食らう。昨日の宴会で口にしたのは、板長に言った「もういいよ。」と「〇〇という小料理を屋知っていますか?」のふた言だけである。

もともと協調性を欠く性格なので委員や役員になるのが煩わしい。世の中、わたしとご同類がけっこう多いので役員は輪番制となり、そのうちいやでも順番が回ってきて幹事にされてしまう。気がつけば2日続けて酒の席といった悲惨な状況にもなる。組織やクラブというものはその種のお努めから逃れられないようにうまくできているものなのだ。だから責任という嵐が通り過ぎるまでじっと耐えるのだ。事務局から支給される飲食代で黙々と飲みかつ食らうのだ。

兆候

2008年08月22日 00時59分33秒 | Weblog
見えるはずがないものが見えたり、感じることができるはずがないことを感じたりする妙な体験が続いている。ひょっとして神がかり状態なのか、何かに取りつかれたのか、お迎えが近いのかなどととりとめのない考えを巡らせる。

こっちの認識力や視力が落ちているので、現実的には異なっているものが同じように見えただけのことかも知れないし、知り合いもわたしが感じたことを同じように感じていたという例もあるので、とりたてて原因を本気で究明しようとしているわけでもない。妄想の連鎖のような妙な体験が続いている。

兆候 Ⅰ

三島の「太陽と鉄」を読み終えたかと思ったら数日後「SUN & STEEL」がブックオフで売られている。週に一度は洋書売り場に足を延ばして2年になる。「SUN & STEEL」が売りに出ていたのは今回が初めてだ。

陽明学と三島について考察しようとすると「行動学入門」のなかに「革命哲学としての陽明学」があったことが突然脳裏に閃く。早速読んでみた。大塩中斎(平八郎)の乱をネタにして三島は「認識と行動」の一致こそが陽明学の要諦であると説く。

わたしは違うと思う。三島がいっている「認識と行動」は言行一致とか不言実行に近い。予想通り三島は、三島なりのやりかたで強引に陽明学を理解しようとしていることが「革命哲学としての陽明学」から読んで取れる。

陽明学では「認識と行動」よりも「認識の根底にある善なるものに対する確信」は、それこそいかにして認識されるのかを問題にしているのであるという風に、わたしの考えがまとまったかと思うと、探していた「近代日本の陽明学」が難なく見つかる。1か月ほど前からどこにいってしまったのか気にかかっていた本である。

「革命哲学としての哲学」は過去に読んだことがない。ところが先日わたしは三島は陽明学を十分に理解していない旨のブログを書いている。こりゃ一体何なのか。何がしてわたしにそういうことを書かしめたのか。不明である。

兆候Ⅱ

1年ほど前に数百キロ離れた場所にいるはずのひとをこの目で見た。そのひとはわたしの数10m先に現れた。言葉を交すことができなかった。バスの陰にはいり、通り過ぎたらこの人物は見当たらなかった。ほぼ同時刻に危篤状態に陥たそのひとは2日後に数百キロ離れた自宅で亡くなったことを葬儀に参列して知った。遺影はわたしの前に現れた時とまったく同じ紺色の服を身にまとっていた。(わたしの目撃談には証人がいる。)

兆候 Ⅲ

妊婦さんを見ただけで生まれてくるのが男の子か女の子かがわかる、というか、どちらが生まれてくるか感じることができる。過去3年間で10回の予想をして一度も外れていない。


その他にも幾多の「兆候」がある。最近酒に弱くなっているのでアルコール中毒性の妄想でないことを祈るばかりだ。


SUN & STEEL

2008年08月20日 01時09分45秒 | Weblog
つい先日、三島由紀夫の「太陽と鉄」を読み終えたかと思ったら、今日は褌姿に抜き身の日本刀を携えたby YUKIO MISHIMAの「SUN & STEEL」が目に飛び込んできた。表紙の三島は、こちらが恥ずかしくなりそうなくらい凛々しい姿ではあるが、ややあちら好みを連想させるので、by BILL GATESの「BUSINESS @ THE SPEED OF THOUGHT」を上からかぶせるようにしてレジに急いだ。

ブックオフのレジの女性たちは本の表紙や内容にまったく興味を示さない風を装ってくれるので、別にどおってことはないが、黒々とした体毛の、しかも褌姿のマッチョ(三島)が表紙で英語本であるから、三島を知らない若い世代からみれば趣味を疑われても仕方がないような壮丁だ。事実、三島にはその趣味があったことは広く知られている。

会社に帰ってから同僚に表紙を見せながら「これ誰だかわかる?」と問うてみたら皆さん「三島由紀夫」と答えてくれた。ついでに「これだーれ?」と残りの一冊の表紙を見せたら「これこれ、このコンピュータの・・・、マイクロソフトの・・・」と言葉に詰まる。「ビル・ゲイツ!」と言ってあげたら皆さん頷いた。こんなことをやっている私も私であるが、盆明けの職場は緊張感を欠いている。

「SUN & STEEL」の英文はやや難解である。「太陽と鉄」は三島の文章がすべてそうであるように明晰な日本語で書かれている。「太陽と鉄」をもう一度読んでから「SUN & STEEL」を一気に読む予定だ。机のわきの新潮文庫を眺めていたら「行動学入門」が目についた。ひょっとしたらと目次に目を通してみたら、やはりあった。最終章は「革命哲学としての陽明学」である。数10年前に読んだ記憶がある。これから読み直してみることにする。




映画「半落ち」

2008年08月20日 00時16分34秒 | Weblog
アルツハイマー病で自分が壊れてゆく恐怖におののく妻から懇願されて殺害、嘱託殺人の罪に問われた初老の警察官の犯罪がテーマである。横山秀夫の小説は読んでいない。確か2度目の鑑賞になる。ストーリーを全く覚えていないことに愕然とした。

担当の検事が母校の出身であるように設定されていたり、小説「半落ち」が直木賞の候補作となって受賞がほぼ確定した段階で、選考委員のひとりであるやはり同窓の(別に知り合いではありません。)北方謙三が、事実認識の肝心な部分に致命的な欠陥があることを指摘して横山の直木賞受賞が反故になった。

自分がドナーとなった青年が元気に働く姿を見て、新たな白血病患者のドナーになれる51歳の誕生日まで生きる決心をした梶(警察官)であるが、現実的には受刑者はドナーになれないので、実刑判決を受けた梶の生きる決心の動機が揺らぐことに誰ひとり気が付いていない。裁判官や検事、弁護士に警視正まで登場しているというのに、そりゃないだろうと北方センセがおっしゃったのである。

鴎外の「高瀬舟」も安楽死が主題である。時は江戸時代なので沙汰の方も明快である。平成の作家たちは、心が崩壊してゆくアルツハイマーやボケと取り組まなければならない。困難な作業である。この困難さがゆえに、現実的な法制度の検証を忘れていたでは済まされない。映画の後味が悪いのは、北方センセが指摘した行政法上の問題を避けて通ったからに違いない。

休暇

2008年08月18日 00時30分10秒 | Weblog
13日に親戚一同が寄って「酔心」で食事をした。この前後に顧客を3軒ほど訪問した。あとは平穏な7日間の休暇がとれた。念願の水戸学の国体論や「葉隠」に目を通すことができた。本の整理以来、行方知れずになっていた「近代日本の陽明学」もみつかった。よい兆候を感じる。

予定していた「日本の名著」の通読には苦戦した。特に期待していた「藤田東湖」および水戸学関係の訳がひどかった。たまらず「葉隠」「大塩中斎」を手に取ってみたら、まずまずの口語で意外に読み易い。

東湖や正志斎の下手な口語訳にめげずに、大塩中斎と交友関係にあった「頼山陽」や「葉隠」の解説に導かれて「山鹿素行」にまで通読が及んだ。それにしても、概略、口語訳が日本語になってないのであちこちで躓くので読むほどに疲れた。

吉和の「もみの木森林公園」に3度出かけた。移植を手伝ったバラの生育状態が気にかかって仕方がないのだ。どうやらうまく根がついたようだ。新芽が芽吹き始めた。移植して2カ月になる。もう大丈夫だ。バラの生命力に感謝した。

孤独の太陽

2008年08月16日 23時53分30秒 | Weblog
In My Room

In my room, way at the end of the hall
I sit and stare at the wall
Thinking how lonesome I've grown, all alone
In my room

In my room, where every night is the same
I play a dangerous game
I keep pretending she's late
And I sit, and I wait
Over there is the picture we took when I made her my bride
Over there is the chair where I held whenever she cried
Over there by the window, the flowers she left - have all died

In my room, way at the end of the hall
I sit and stare at the wall
Thinking how lonely I've grown, all alone
In my room


玄関から一番奥の僕の部屋で
僕は座って壁を見つめている
独りっきりで、僕は何と孤独なんだろうと思う
僕の部屋で

僕の部屋で、毎晩同じように僕は危険な遊びをしている
彼女は遅くなっているんだと自分に言い聞かせて
そして座って、待っている
向こうには僕が彼女を花嫁にした時に撮った写真がある
向こうにはいつも彼女が泣いた時に支えてあげた椅子がある
向こうの窓際には彼女が残した花がある ー みんな枯れてしまった

玄関から一番奥の僕の部屋で
僕は座って壁を見つめている
独りっきりで、僕は何と孤独なんだろうと思う
僕の部屋で

悲しき願い

2008年08月16日 23時14分10秒 | Weblog
ベイビー 俺の負けだ あきらめよう
片想いの恋だけは もうたくさんだ
誰のせいでも ありゃしない
みんなおいらが悪いのか

お前をベイビー 俺のものにすることは
むなしい 悲しい 願いなのか
誰のせいでもありゃしない
みんなおいらが悪いのか

涙が落ちるのを ぬぐいもせずに立っている
恋の芽をつみ取られ それでも我慢をしろか

オーベイビー もうこれ以上 近よらないで
燃える太陽 俺だけには
なんでつめたいんだ

みんなおいらが悪いのか
そんな話があるもんか

愛し合えぬはじめから
悲しき願いの恋だった

愛し合えぬはじめから
悲しき願いの恋だった

訳詞 タカオ・カンベ


Baby, do you understand me now
Sometimes I feel a little mad
Well don't you know that no-one alive
Can always be an angel
When things go wrong I seem to be bad

I'm just a soul who's intentions are good
Oh Lord, please don't let me be misunderstood

Baby, sometimes I'm so carefree
With a joy that's hard to hide
And sometimes it seems that
All I have to do is worry
And then you're bound to see my other side

I'm just a soul who's intentions are good
Oh Lord, please don't let me be misunderstood

If I seem edgy, I want you to know
That I never mean to take it out on you
Life has it's problems and I get my share
And that's one thing I never mean to do

'cause I love you
Oh, oh, oh, baby, don't you know I'm human
Have thoughts like any other one
Sometimes I find myself alone and regretting
Some foolish thing, some little simple thing I've done

I'm just a soul who's intentions are good
Oh Lord, please don't let me be misunderstood

Yes, I'm just a soul who's intentions are good
Oh Lord, please don't let me be misunderstood

Yes, I'm just a soul who's intentions are good
Oh Lord, please don't let me be misunderstood

Yes, I'm just a soul who's intentions are good
Oh Lord, please don't let me be misunderstood




村上春樹訳「グレート・ギャツビー」

2008年08月15日 02時41分05秒 | Weblog
映画「華麗なるギャツビー」でロバート・レッドフォードが演じた夜の庭園に佇むギャツビーの哀愁がようやく理解できた。蔵書している英文と邦訳のセットと文庫本と合わせて3冊2組の本の題名は「偉大なるギャツビー」「華麗なるギャツビー」そして今回読んだのが村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」である。

英文小説の翻訳には信じられないほどレベルが低いシロモノが多い。下手な邦訳を読むくらいなら英文で読んだ方がましなので「ゴッド・ファーザー」に始まって「カポーティ」に至るまで原著の方を読む機会が多い。ところが原著に挑むのは良いが挫折を繰り返している。知らない単語や熟語に遭遇するとぐっと読書のスピードが落ちる。読書には自ずと時間的な制約があるので結局下手な翻訳に甘んじざるを得なくなるのである。

今日たまたま寄った本屋に村上春樹翻訳の「グレート・ギャツビー」があった。その昔、日本語訳をまず読んでから原著に挑戦して、例の如く挫折した経験がある。今回は、ビールにチューハイを飲んでからいきなり読み始めたものだから、読みとおすまでとにかく時間がかかった。

それにしても、村上春樹の小説は内容が重いにもかかわらず文章が平明で読みやすいように、この「グレート・ギャツビー」もまた、翻訳であるにもかかわらず翻訳に固有の日本語離れしたような硬さがない。全くない。アルコールで麻痺しかかった目と頭で読んだにもかかわらずすんなりと設定やら光景やらが心と頭に入ってくる。お見事!と喝采したくなるほどであった。

訳者あとがきで村上は、「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な3冊をあげろ」と言われたら、このフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」であると述べている。「一冊だけにしろ」と言わわれると、迷うことなく「グレート・ギャツビー」なのだそうだ。理由は訳者あとがきに詳しい。「The Great Gatsby」の著者であるFrancis Scott Key Fitzgeraldは27歳の若さでこの円熟した作品を発表している。