旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

2010年03月31日 21時11分41秒 | Weblog
JR玖村駅に向かう通勤路に桜並木がある。一昨日の朝、桜並木の向こう側の青い山に虹がかかっていた。虹はうっすらと現れ、消え、そして再びうっすらと現れた。桜並木を過ぎると真亀神社の森に入ることになるからしばらく向かいの青い山は見えない。森を下って駅のデッキに立つ頃、やはり虹がうっすらと現れて消え果てた。春の虹は浅い夢に似て幻想的だった。

虹といえば「オズの魔法使い」をつい連想してしまう。虹の彼方にあるという夢を追い続けて、やがて現実というもののたわいなさを知ることになる少女ドロシーが年を重ねると、現実に打ちのめされる私のドン・キホーテの姿になることだろう。「ドン・キホーテ」よりも「オズの魔法使い」を読んでみたいような気分だ。

それにしても職場の同僚たちについて知らなさすぎるようだ。ごく少数の例外を除けば経歴・家族状況等について全く情報がない。元々関心が薄いといえばそれまでだが、1年近く机を並べた同僚が独身であることを昨日になって知るような始末だ。遠慮なく言葉を交わせると思ってきた、どうみても良妻といったタイプの同僚が「バツイチ」であることを今日になって知った。

強要と教養

2010年03月27日 23時02分21秒 | Weblog
その道のオーソリティーと、大学での職業教育について話しをするつもりだった。「大学では、職業教育を受ける機会が少ない。教養(科目と言ったつもりだった。)をもっと減らして職業教育のカリキュラムを増やした方がいいのではないでしょうか。」と問いかけたところ、「そうそう、教養はいけません。もっと自由に弾力的にカリキュラムを組むべきでしょうな。」という、なんだかニュアンスの異なる回答が返ってきた。

「教養を涵養することが悪かろうはずはない。それを、教養はいけません・・・。」ハッと気がついた。オーソリティーは「教養」と「強要」を取り違えている。駅から所に向かう通勤途上でのことだ。「そうですね。」と応えてたわいのない話をしながら、ふたりで道を急いだ。このオーソリティー、新年度からは局の課長として職業部門の重責を担うのだ。そういえば昨日はその歓送迎会だった。両名ともに少々お酒が残っていたということか・・・。

勤労と生活保護

2010年03月27日 17時20分50秒 | Weblog
労働行政について大先輩と話した。大先輩は「ひとたび就職すると生活保護が受けにくくなる。このことが結果的に生活保護中毒患者の増大を招いている。就職して、ふたたび失業してもすぐに生活保護を受けることができるようにすることが急務だ。」という。

最近の求人の平均給与はフルタイムで15万円から20万円といったところだ。手取りともなると生活保護費とさほどの差がない。働くこといができない事情がある場合に生活保護を受けることができるのだから、働くことができるようになれば自助努力が期待され、再び生活保護を受ける可能性が下がることを考慮しても腑に落ちない。しかも、国民年金のみの年金給付額を生活保護費が上回る。

勤労意欲という言葉がある。額に汗して働いた金額と生活保護の金額がさほど変わらない。最低賃金法が生活保護費の基礎になっていることは承知しているが、それでも腑に落ちない。介護職でフルタイムで働いてもせいぜいが税込みで15万円内外なのである。


農園

2010年03月22日 20時40分16秒 | Weblog
市から借りていた市民農園の2区画を返すことにした。約1年間、育てる苦労、収穫の喜びを十二分に味わった。できれば利用を続けたいのだが、農園が遠いうえに仕事の方が忙しくて、毎週、農園に行くことができない。雑草との戦いに敗れた。それでは、ご近所の農園の皆様に申し訳ないので撤退を決めた。もう少し近い場所に畑を借りて菜園づくりに励もうと思う。

一昨日、整地に出かけた。冬場は農閑期だから久しぶりの農園だ。心配した区画の雑草も思ったよりも勢いがなかった。3時間ほどで整地を済ませ資材を片づけた。最後は、区画の隅々まで耕運機で整地した。昨年、肥料をまいた場所や植えた野菜が脳裏に蘇る。どこに何を植えたらよいか一瞬のアイデアが閃く。管理人さんも言うように、3年耕せば、土地の性質、すなわち何を植えたらよいかが自ずとわかるようになる。その手前での撤退は残念だ。

秋口までは、稀なくらいよく農園を耕しに来ていたのに、突然姿を見かけなくなったから、きっと仕事が忙しくなったのだろうと管理人さんは思っていたとのことだ。もっと、時間的な余裕が持てたらこの農園に帰ってくると伝えた。しかし、いくら精魂を込めて耕した畑といえども、返してしまえば愛着も失せてゆくことだろう。通いが負担にならない近くに畑を探すことに決めている。

前職

2010年03月17日 21時46分17秒 | Weblog
学生時代は東京で過ごした。学生の本分は勉学に励むことだ。学生時代は学生の本分を忘れて遊び、働き、悔いのない東京暮らしを楽しんだ。本質的に本業に関心が薄いのだ。この月曜日に前勤務先の打ち上げに招かれた。会場に向かう道すがら雨が激しく降っていた。嫌いな雨に遭っても懐かしさで心は弾んだ。20年余り勤めたというのに、ことビジネスに関しては達成感がなかった。本業を投げ出して読みたい本を読み、遊びたいように遊んだ。そして、その合間にビジネスでお茶を濁した。というよりも、過酷な営業活動を遊びや読書で紛わせていた。とても現職社員の模範となるようなOBではない。。

支社長の巧みな演出もあって私の登場に歓声が沸いた。はやとコールが巻き起こった。100有余名の後輩たちは温かく迎えてくれた。嬉しかった。涙が滲んだ。自慢じゃないが在職中に本社に行ったことすらない。上京して3度、本社の敷地内にあるソバ屋で、Pタワーを眺めながらソバを食った記憶があるだけだ。在職中に新築されたPタワーは余りに清く崇高で私には場違のように思われた。しかし、広島支社の皆さんとは、戦友というか共同体のような意識で結ばれていたような気がする。それほどこの業界の生存競争は過酷なのだ。

元同僚諸氏の姿にもやや疲労の色が濃いように思われた。私が勤めている職場は現在の雇用市場で何が起きているのかについてもっとも体感しやすい場だ。元同僚達たちが営業の対象としているひとたちがどのような境遇に陥っているのか、私はよく知っている。しかし、私が勤めた20有余年間、この会社は名実ともに合理主義で貫かれた楽観論で突っ走ってきた。まるで終戦直後の日本のように、この外資系の保険会社は輝きを増してきた。輝きが失われないように念願しながらひとり会場を後にした。どのように歓迎されようと退職日を待たずして戦線から離脱した私は、数いる敗残兵のひとりなのだ。

ベートーヴェンのフーガ 広島VAN演奏会

2010年03月14日 23時21分33秒 | Weblog
女友達に誘われて弦楽四重奏のコンサートに出かけた。演奏はベートーヴェンの「『大フーガ』 変ロ長調」「第1番 ヘ長調」「第16番 へ長調」だ。クラッシック音楽に明るいわけではない。だから、曲名を目にしただけで滅入りそうになった。自慢じゃないが、小学校時代に評価5が取れなかったのは音楽だけだ。

演奏1番の「大フーガ」は所要時間が16分に及ぶ超大作だ。本人がなぜ超大作なのかを理解していないので、正直にいえば「どうも超大作らしい。」ということになる。第一ヴァイオリンを担当する演奏者の解説によると、ハイドンやバッハの古典音楽に対抗心を燃やしたベートーヴェンが、両天才に古典的手法で挑んでみたものの、「なんじゃいこれは!」ということで、終いには投げ出したことによって完成してしまった作品だということになる。なにかよく解らない。

職人的確かさとていねいさが窺える四重奏であるにもかかわらず、退屈な曲であるといわざるをえなかった。もっとも、文学作品でいう古典は、読む者の習熟度にしたがって変容を遂げることもあるから、こちらが音楽的な経験を積むにしたがって感動を覚えることができるようになるのかもしれない。。

他の第1番、第16番もほぼ同様に確かで丁寧な四重奏である。が、曲は単調に思える。おそらくは、こちら側の鑑賞のための習熟度の方に問題があるのであろう。もともとバイオリンの音色が好きだし、耳から心へと響いてくる音楽に能動的ななにかを求めなければ、いずれの曲も耳触りがよい。聞いたことがあるような懐かしさを覚えた。

一昨日、突然としてこの四重奏を聴きに出かけることになった。せめて演奏題目が意味するところくらいは理解しておけばよかったと悔やんでいる。改めて、ベートーベンが「運命」「田園」「英雄」「エリーゼのために」のみの作曲家ではないことを知った。が、しかし、クラッシックは、やはり、よくわからない。

プラグマティズム

2010年03月08日 20時59分09秒 | Weblog
日本語では難解な表現になります。英文で読む限りC・ロジャーズの表現は極めて平明です。この難解さは、個人主義の伝統がある欧米とやや希薄な東洋という文化的な違いが原因なのでしょうね。自己概念とか生活体とか、概念の把握で足踏み状態です。

心理学の胡散臭さに付き合い始めて一か月が過ぎようとしています。昨年の暮れに、試しに受けたキャリア・コンサルタント技能検定という国家試験の面接試験に受りました。もっとも論述に落ちたので技能検定不合格だったのですが、次回の論述合格を目指してテキストを10冊ほど買い込み、ねじり鉢巻き状態です。ロジャーズに言わせると、朱子や陽明の思想は逆立ちしているということになるのでしょうね。彼は正しくアメリカ・プラグマティズムの権化のような学者です。ブレッド&バターの為とはいえ、とんでもない世界に飛び込んでしまったようです。

旧交を温める

2010年03月07日 00時06分07秒 | Weblog
「論語」「大学・中庸」ともに岩波文庫のワイド版ですから金谷治の訳です。口語訳については、少しばかり練りようが足りない表現であると言わざるを得ません。直訳の限界なのかもしれませんね。貝塚茂樹著 岩波新書「孔子」や島田虐次著 岩波新書「朱子学と陽明学」の助けを借りながら牛歩の読書を続けています。もちろんご承知かと思います。「大学・中庸」には朱子の「大学章句」序と「中庸章句」も掲載されています。「日本の名著 熊沢蕃山」もやはり口語訳です。蕃山には朱子学や陽明学という広義の儒学に、今流行りのQ&A方式で答えた著作があります。かなり平明な内容なので寝酒代わりに枕読しています。


現象学といえば、フランスのメルロ・ポンティの代表的な著作の英語訳を2冊買って読み始めました。たまたまヤフオクでみつけて競り落としました。フランス語の著作の場合、妙な日本語訳で読むよりも、英語で読んだ方がわかりやすいように思います。時間不足でほとんど読めていません。

日本のコンサルタント、カウンセリングに多大な影響を与えたC・ロジャーズは「人格の適合は生活体とよい関係を保つことだ。」「適合とは、現在の経験と築いてきた自己概念が一致することだ。」といいます。かなりの楽観論ですが、本来の自分を取り戻していただくために相談にのる立場からすれば、性善説をとった方がクライアント自らが、人格の適合を得る方向に向かい易いということになりましょうか。相談に乗る側が社会を味方につけることができるわけですから。

新緑

2010年03月06日 15時53分21秒 | Weblog
サクランボが満開だ。アンズも咲き始めた。玄関先の白梅は散り始めた。たわわに実ったピラカンサスの赤い実は、数日前の夜が明けたら、野鳥の群れに食い尽されていた。わが家の庭はこれから新緑の季節に向かい、やがて濃い緑で覆われることになる。

本日は早朝より、本の整理に勤しんでいる。

メモ

2010年03月04日 21時24分01秒 | Weblog
残された就業期間があとひと月を切っていたならば、悔いを残さないようにするためにがむしゃらに仕事に取り組んでいたことだろう。ところが、あと1年間、任用が延長されたので、急転直下、向こう一年間の就業計画に修正を加えてみるだけの余裕ができた。

社会人になってからというもの経済生活に無頓着のまま走ってきたことが災いして、いまだに仕事に振り回されている。沢木耕太郎の「深夜特急」を久しぶりに手に取った。私には到底無理だが、ああいう爽やかな淡々とした生き方も悪くはないと思った。

読み始めたというよりも読み始めざるを得なかった心理学が、3面記事、あるいは週刊誌なみにおもしろいことに気づいた。カール・ロジャーズの英文著作を中心に読み進んでいる。ロジャーズを読むことはキャリアコンサルタントの資格取得のために、少なくとも邪魔にはならない。むしろ有益だ。

たまたま、岡村達也著「カウンセリングの条件 副題 クライアント中心療法の立場から」を読んでいたら何とも懐かしい、フォークル、北山修の名を目にした。そういえ彼は精神科医だった。

ハローワークにはさまざまな個性が職を求めて来所する。身心ともに健康な人ばかりが来所するわけではない。精神や肉体が健常者であるとは認め難い方も来所する。私の想像力を超えた個性を理解しようとすれば臨床心理学が有効であると認めざるを得ない。

再任用

2010年03月02日 22時18分16秒 | Weblog
ようやく慣れてきた仕事だから再任用を願ってきた。なにぶんコネも縁故もない身の上だ。情報が断絶している。採否の兆候すらつかめないのだからこの1ヶ月間は少しナーバスになっていた。再任用がなければ残された1ヶ月間を仕事探しに奔らなくてはならなかった。それでも懸命に日々の業務と取り組んだ。同僚たちの倍以上の仕事量をこなしてきた。これだけやって現職にとどまれないのならば潔く諦めるしかない。爽快感すら漂い始めていた。

あと1年間、現職にとどまることが確定した。コネや縁故がない身としてはほっとしたの一言に尽きる。

言葉

2010年03月01日 19時40分26秒 | Weblog
たまに活字が煩わしくなると、自然に触れるために海にでかけます。自然との一体感、あれっていいですね。絵画の鑑賞も好きです。絵画から受ける感動には理屈がありません。しかし、「われ思う故に我あり」ではありませんが、「哲学する時」「思想する時」は言葉の力を借りないわけにはいきません。