旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

帝国ホテル まだ見ぬブログ友に・・・

2005年10月29日 23時37分34秒 | Weblog
学生時代の棲家が「小岩に北千住、渋谷に荒川」の下町一辺倒でしたから(最近、渋谷は品がよくなったと聞いています。)、貧乏学生の身からすれば、帝国ホテルやホテルオークラ、ホテルニューオータニなんて聞くと思わず身が引けたものです。
ところが、15年ほど前に社用で京都の宝ヶ池にあるプリンスホテルに泊まってからというもの、一流のホスピタリティーやサービスの何たるかに目覚め、予算が許す限り良いホテルに泊まるようになりました。
昨年はやはり会社の招待で、大阪の帝国ホテルに泊まりました。決して周りの環境は良いとは言えませんが、晩秋という季節がらもあって、見下ろした眼下の河や公園がとても綺麗でした。もちろん、サービスは申し分ありません。
今回は赤プリか帝国かで悩んだのですが、同伴者がどおしても帝国がいいというので決めました。広島のような地方では、やはり高級ホテルといえば帝国ホテルなのです。今回はプライベートな旅になります。都会の秋を心行くまで楽しみたいと思います。

東京

2005年10月29日 23時26分51秒 | Weblog

この月末に東京に行く。 帝国ホテルに泊まる。 田舎者だから帝国ホテルはとにかく高いだろうと思っていた。 ところが、 業界の友人はそうでもないという。 ホームページで探ってみた。 彼が言うように、そうでもなかった。 時代は変わったのだ。

115周年アニバーサリープランというのがあって、 ふたりで泊まれば一部屋3万円以内と意外にリーゾナブルだ。 「特割」の空路なら、広島から東京までひとり往復で3万円とちょっと。 これなら東京を身近に感じることができる。 去年は、銀座のビジネスホテルだったが、とにかく狭かった。 先月も社用で上京した。 都合でとんぼ返りになった。

今回は帝国ホテルを拠点にして、 心行くまで都会の秋を味あおうと思う・・・。

ただいま減量中につき

2005年10月28日 23時13分45秒 | Weblog
残酷な質問ですね・・・?つい先ほど少な目の夕食を済ませました。目標は3キログラムの減量。何でもいいから腹いっぱい食べてみたい!そのような願望を抱きつつ、今日もすきっ腹を抱えて眠りにつきます。

そして、明日トレーニングに励み、また、旺盛な食欲に苦しみます。体脂肪率が18%のわたしなのですが、ホントに減量しなけりゃならないのでしょうか?

森達也著「スプーン… 超能力者の日常と憂鬱」

2005年10月25日 23時41分13秒 | Weblog

超常現象について曖昧にしていたツケがまわってきた。サイババに続いてユリ・ゲラーの世界につまずきそうだ。森達也は例のスプーン曲げ少年たちのその後を追っている。

念力でスプーンが曲がるものかどうか?

スプーンが曲がろうが曲がるまいが、そんなことはどうでもいいことじゃないか?要はその念力とやらが社会的な効用を持ちうるかどうかだ。念力でスプーンを曲げることができるのなら、なぜその力を社会に貢献するために使用しない?それをやろうとしないから手品だと言われるのだ。周知のように元スプーン曲げの少年たちは、その力を科学的に解明することに極めて消極的だ。状況証拠からいうとクロ、単なる手品だといえなくもない。あっと驚くようなタネがあるにちがいない。

一方、量子力学によればスプーン曲げは可能であるというので、なにかしら心がときめく。山は険しいが、ボーアやアインシュタイン物理学の概要くらいは掴んでおきたいものだ。もっとも、サイババやユリ・ゲラー、スプーン投げの奇跡を信じかかったことがある私自身に対する自戒の意味も込めて。

そうそう、この森達也さんも広島県は呉市の出身でした。 

パンタ笛吹著「裸のサイババ」

2005年10月25日 23時39分41秒 | Weblog
その昔、「理性のゆらぎ」ほか青山圭秀のサイババ3部作を読んだことがある。かの京都大学理学部を出た理学修士で医学博士の青山さんが、もっともらしいことを言うものだから文科系のこちらとしてはつい信じてしまいそうになる。意外に権威には弱いのだ。

野坂昭如風の表現でいうと、
「それにしても宝石や貴金属・時計の物質化にビブーディという灰撒き、終いには目の前にいながらにして他の場所に同時出現するというおどろおどろしさ、さながら究極のテレポートの噂。及びもつかない学者先生たちですらサイババを礼賛、小生のような凡俗ならばこそ、ひょっとしてという気分になってしまうという次第。

なにやら手品師のようなあり難い神様のような不可思議さと風貌に怖気づいて、サイババの噂に触れず近づかず、幸か不幸かうまく忘れかけていたものの、どこやらの偉い学者が量子力学的見地からすると超能力というものは十分にありえるなどといい出すご時世。そこで小生、かの山本義隆大先生が翻訳されたというニールス・ボーアの難解な量子力学の論文集に挑むも挫折、思えば生来物理音痴のていたらく。当初より量子力学の理解は無理というもの。」(うまく野坂風に仕上がった、パチパチ。)
という言い草にでもなろうか、わたしは半信半疑であった。

笛吹は明快にサイババの奇跡に疑問を投げかける。そして、サイババの元側近たちの証言として奇跡はやはり手品じゃないかと推定する。さらに困ったことにサイババがホモセクシャルであり、3万人に及ぶ青少年が彼の性の犠牲になったことを元側近たちの多くが語っている。(もちろん、ホモセクシャルが悪いというのではない。宗教的権威をかざして関係を迫るサイババが問題なのだ。)

サイババの偶像は、笛吹らの著作や他のサイババを告発する団体によって既に地べたに引き摺り下ろされかかっている。それでも、地上には5千万人に及ぶサイババの信者がいる。その中でもっとも気前よく寄付をするのはその殆どが日本人らしい。サイババを告発している団体はこの気前がいい金主に困っているそうだ。

人騒がせな青山圭秀さんのコメントが欲しい。ちなみに青山は受験の名門、広島学院高校の卒業である。


朝倉喬司著「ヤクザ・風俗・都市」 ③ 芸能人

2005年10月25日 23時20分29秒 | Weblog

『各地を巡回する漂白の芸能民と大夫元=勧進元の関係を近代に持ち込んだのが、地方興行を通じた芸能人とヤクザのつながりである。地方の住民にとっては、遠方から巡ってくる芸能者と人々との劇的な落差こそが芸能の力の源であった。映画産業勃興当時の日本映画界も、当初はこの領域、つまり、一般社会にとっては「異質な地域」に基盤を置いた。
ところが、60年代には近代市民社会の代弁者である新聞社を拠り所とするテレビが商業基盤を固めるに至り、芸能界も変容した。市民社会に固有の平準化によって、芸能人と大衆との落差が急速にに切り詰められて行ったので、芸能人はテレビ空間において小さな落差をめまぐるしく自作してゆかざるをえない状態に陥った。』

ついつい、うけを狙う。

2005年10月23日 21時21分10秒 | Weblog
飲みにいけば女性のうけを狙って、おごる。クライアントのうけを狙って、ヨイショに励む。若い同僚のうけを狙って、よき理解者のふりをする。インテリのうけを狙って、知的であるようなふりをする。よき社会人のうけを狙って、道徳についてまくし立てる。社内でのうけを狙って、上司にやる気満々のふりをする。識者のうけを狙って、知ってることでも知らないふりをする。好きでもない女性のうけを狙って、好きなふりをする。好きな女性のうけを狙って、好きでないようなふりをする。

ついついやってしまいそうなんだけど・・・なかなかできないんだよなあ。正義感が強すぎて。なんちゃって!?

中沢新一著「チベットのモーツァルト」 ①

2005年10月21日 10時00分22秒 | Weblog

このお題で、なんと言語論なのである。センスは悪くない。

ジュリアス。クリステヴァという研究者の「笑い」に関する洞察から入り、禅僧薬山禅師の「はじけるような明晰な笑い」に言及し、クリステヴァによる幼児言語の「*アナクライズの笑い」を導く。話はさらにフッサールに跳び、数の生成から、デカルトの代数幾何学的世界観に隠蔽された「*起原の数」がはらむパラドックスを指摘する。次に、空間を代数化しようとしたデカルトにたいして、空間を解析しようとしたライプニッツの微分にたどり着く。さらに洞察は、トポロジーからインド的(ブラーフマン的・仏教的)言語論に進む。
一度読み通してはみたがよく解らない。

ああ、やれやれ、この小冊子を読むために遠視眼鏡まで買ったというのに、予想通りというべきか、中沢新一は難解である。再度、専門用語を「現代哲学辞典」で引きながら読み直してみることにした。

鷲田小彌太著「学者の値打ち」 ①

2005年10月16日 00時54分59秒 | Weblog
「大学教授になる方法」で世間を騒がせた鷲田教授による学者論である。例によって野次馬的好奇心からつい読んでしまった。第三章、「大學ブランドの正体」から読み始めた。鷲田に言わせると、一流大学とは偏差値の高い学生が行く大学のことであり、研究教育のレベルが高いとは限らない。即ち、学生の学ぶ力が高い大学のことを一流大学というのである、ということになる。

大学や大学院を新・増設する際、東大教授を人事に配すると文部省の許可が通りやすかったので、天下り先を渡り歩く、これが東大教授の特権であり、学会における東大閥の温床となっていた。ところが、少子化社会を迎えた大学では、学生数の激変に対応して不要なポストを減らそうとしている。大学の許認可すら規制緩和され、研究者の質を問わざるを得なくなった。東大を出ていることよりも、質の高い論文を年に1度は書ける研究者への需要が高まっているのである。

こういう事情によって、東大を頂点とする学閥は崩壊し始めているというのが鷲田の見解である。そういえば最近、文科系に限っていうと、こちらの度肝を抜くような著作を著したブランド大学の研究者は見当たらない。どうやら、大学ブランドと研究成果の間には偏差値の差ほどの知的相関関係はないようだ。

ブッダ 臨終のことば

2005年10月16日 00時39分57秒 | Weblog

「・・・そこで尊師は修行僧たちに告げた。
『さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成させなさい。』と。
これが修行を続けてきた者の最後のことばであった。」

後半部「怠ることなく修業を完成させなさい。」をパーリ語から直訳すると、「ぼんやりと放心することなしに、気をつけて一切のなすべきことを実現せよ。」という意味になると、中村元は脚注で解説している。
世尊は、45年間にわたって説いた一切の教えを、「怠ることなかれ」というただひとつの句の中に要約して弟子たちに与えたのである。如来の最後の教え、つまり仏教の要訣は、「無常を悟ること」と「修行に精励すること」に尽きるのであろう。

ところが年代の経過と共に、ゴータマ・ブッタは仏として神格化され、仏の出現は稀であるとかいった神学的思弁が付加されることになった。この分野に関しては、Waldschmidtというドイツ人の研究者の引用が多い。脚注ではドイツ語のままで引用されている。原始仏典研究の先進国はドイツである。ドイツ語ができて当たり前ということであろうか?岩波文庫青帯は手ごわい。

やらなきゃいけないこと

2005年10月14日 22時45分34秒 | Weblog

100年に1度は死ななきゃならない。1年に1度は歳を取らなきゃならない。半年に1度は散髪しなきゃならない。月に1度は風呂に入らなきゃならない。週に1度は歯を磨かなきゃならない。日に1度は食事をしなきゃならない。1時間に1度は○○しなきゃならない。1分間に1度は息をしなきゃならない。1秒間に1度は心臓を動かさなきゃならない。

○○の怪答募集中!

わたしの回答は、「△ゃ○い」(極めて不謹慎、お粗末!)。

電車女 ②

2005年10月14日 20時33分14秒 | Weblog

作戦やなんだかで寝たふりをしていた。しかし、紙屋町を逃すと恐らく己斐まで行って引き返すことになる。途轍もない電車賃と時間の無駄が生じる。そこで薄目を開けて車中を観察してみることにした。
正面では、顔だけを見ると年齢不詳やけに目元に濃い化粧を施しているのに、体の発育が不全な少女たちが笑い転げている。色気というものがないから、多分中三か高校の低学年。向こうの座席は見えないから、こちらの座席に目をやると、明らかに勉強かスポーツ疲れの高校生らしいのが、協定したように俯いたまま目を閉じている。外の皆さんはといえば、うつろな顔をしてただつり革に手を伸ばしているばかりだ。

電車女 ①

2005年10月13日 22時45分20秒 | Weblog

何年ぶりかで広電の路面電車に乗った。袋町から県病院前まで電車に揺られたのである。午後3時に行きが宇品方面で帰りが紙屋町方面だから、まさか混むとは思わなかった。そして、行きは予想通り混まなかった。ところがである。30分ほどで所用を済ませて、やはり県病院前で己斐方面行きの帰りの電車に乗ったところ、紙屋町に近づくに従って混むは混むわ。鷹の橋あたりで気がつけば電車の中はそこいらじゅう女子高生だらけ。黄色い声が飛び交う。
わたしはここまで混むとは思わなかったからのんびりと最後部の座席に座っていた。出口は最前にあるから下車しようとすれば混みあう女子高生たちの間をすり抜けなければならない。電車は下車を予定していた袋町に近づく。小心者のわたしはここで怖気づいた。「あのおじさん、わざと最後部に座ったのよ、やーね。」という声が心のうちのどこからともなく聞こえてくるのである。下車予定の袋町では乗客がいたが下車するひとはいなかった。わたしには女子高生を掻き分けて下車するほどの度胸がない。電車は本通に着く。やはり下車するひとはいない。下りる勇気が湧いてこない。

親切

2005年10月08日 00時38分06秒 | Weblog

人の為になることをしてあげれば、多分、親切を(施?)したことになるのでしょうが、何だか心情的にしっくりきません。困った人を助けてあげれば、名実共に人に親切にしてあげたことになるのでしょうが、親切という言葉自体に偽善的な臭いがして嫌ですね。困っている人を助けるのは人として当然のことですし、他人の為になると思ってしたことが「小さな親切、大きな迷惑」ってことは多い。
もう少し素直になればよいのでしょうが、つい斜に構えてしまって今回も回答になっていませんね。困りました。