旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

広報

2009年02月27日 22時35分02秒 | Weblog
昨日の夕暮れ時のことである。クルマで移動中にいきなり私が倒れて入院したという情報が入った。携帯電話を受けた同僚は苦笑いしながら「わたしの隣で車を運転していますよ。」と応えてくれた。

情報の広がり様というものは面白いものでちょいと重要な話だと、尾びれに背びれ、終いには足までついてひとり歩きを始める。自分の高血圧症について多くを語り過ぎたことを後悔している。

頻繁に会っている畏友のひろしさんですら按じてくれるのだから主治医の先生も、このきかん坊の患者のことを少しは心配しているのではないかと思う。皆さん先生、ご安心ください。今朝の測定で下が105に上が158、まだ高めとはいえ降下剤なしで元気に生き延びています。

柳井 白壁 独歩 

2009年02月16日 23時32分57秒 | Weblog
所用があって玖珂経由で柳井まで出かけた。用事が済んでもなお日が高かった。その昔、当地に般若姫と用明天皇が滞在した際に、般若姫が井戸のほとりに楊枝を置いたところ、その楊枝が柳に成長したという伝説がある。柳井という地名の由来である。柳井見物を決め込んだ

たまたま般若寺で「火渡り」をやっているというので室津に向かった。観光バスまで乗り入れるような大勢の人出だ。展望台から境内を見下ろすと白い煙が上がって人の列が続く。「火渡り」の場では山伏姿の行者4、5人が檜を焚きつけている。その中央を裸足の観光客や地元の人たちが通り抜ける。火というよりも煙の中を次々に通り抜けてゆく。深い山に響く案内のマイク声が興ざめだ。

室津半島を下って、柳井の白壁通りを散策した。竹原の白壁よりも清楚でこじんまりした漆喰塗の和風建築が続く。雛祭りが近いので企画として各屋にお雛様が飾ってあった。赤い雛壇に漆喰塗の白のコントラストがいい。町や商工会が力を入れているのであろう。駐車場は無料だし掃除も行き届いて清々しい。

国木田独歩ゆかりの住宅に足を延した。独歩は裁判官をしていた父親の転勤に従って柳井で中等教育を受けた。上京して神田の某法律学校に籍を置いたのち東京専門学校の文科で学んだ。何故に神田の某法律学校なのかが気にかかる。硝子戸超しに掲示物を見ていると青年が話しかけてきた。

なんでも松山から周防大島経由で柳井に来たのだそうだ。見るからに文学好きそうなので話に乗ってみた。国木田独歩や二葉亭四迷の愛読者だ。柳井にあるこのゆかりの住宅とは別に、大分県の佐伯市にも同様の住宅が残されていて、そちらの方が展示品が整っていること、柳井の住宅は前日までに市の教育委員会に申し出ておくと中にはいることができることを教わった。

それから20分ばかりふたりのうまくかみ合わない文学談義が続いた。青年は明治時代の文学の愛読者であり、わたしがイギリスやフランスの翻訳文学の愛読者であるというどうしようもない好みの差があって、英語の明快さが好きだと言ったら「太宰が嫌いでしょ。」、35歳を過ぎた頃、三島の「金閣寺」を読んで文学に開眼したというと「じゃ、大江は嫌いでしょ。」といった妙な会話しか成り立たなかった。

肝心の国木田独歩はその昔、受験勉強で記憶していた代表作「武蔵野」の題名を知るばかりである。しかも、エコ関係の著作で引用されていた部分しか読んでいないので、当方に、独歩の足跡を訪ね歩くような青年との間で独歩論を闘わせるだけの素養がない。「何かの縁だから『武蔵野』は読んどくね。」と言って別れた。思えば誠実そうな好青年であった。

帰還

2009年02月13日 12時41分24秒 | Weblog
120歳まで生きる予定です。ようやく人生の折り返し地点にたつことができました。過去を振り返ると人間、未来に向かって臆病になります。ですから、後悔することは大いに後悔して過去の反省はしないことにします。最近の検査でわたしの心臓には毛が生えていないこと、45歳並みの強靭さを備えていることが判明しました。これまでいじめぬいた体ですからほっとしました 。親譲りのこの体ともども気楽な旅を続けて心地のよい老境に達したいものです。ご縁があった人たちが道連れです。「たおやか」な余生を送りたいと思い至っています。


社会復帰

2009年02月11日 22時28分25秒 | Weblog
先週の水曜日、血管年齢が80歳と言われ凄まじい動脈硬化の進行に慄いた。血管の惨状をひとり想像して日ごろの不摂生を後悔した。数日前から薬の投与があって昨日の火曜日、ブドウ糖の点滴やら造影剤の注入やらを受けながら心臓のCTを撮った。点滴の始まりから医師のコメントをもらうまでに約2時間を要した。担当の医師は著名な循環器の専門医だ。

ところがである。コンピュータ処理されたと思われるわたしの、まるで模型のような3次元心臓に「どうみても45歳の心臓で幸いにというべきか不幸にというべきか動脈硬化の兆候がない。」という専門医の所見が下された。嬉しいことに他の血管のCT検査の必要もないというご神託である。上が110、下が180を超えているというのに、まるで期待外れであったと言わんばかりの対応を、小心者のわたしは見逃していない。

気が抜けた。大いに気が抜けた。実はカテーテル検査を覚悟していた。それほど先週の血圧脈波検査解析結果は凄まじかった。帰りにたっぷり血圧降下剤をわたされた。一か月分である。飲むかどうかは主治医の先生と相談して決めると告げてあるのにこれはない。突き返そうかと思った。思ったものの返せない。病院というところはそういうところだ。7割は健保組合の負担だから、「ま、いっか!」、根本的にモラルが欠落しているのである。

この結果を踏まえて、休日明けに再び主治医の先生と血圧降下剤を飲む飲まないの医師と患者の不毛な論争が始まる。主治医の先生は、「あんたの命なんじゃけん好きなようにしろ。」という。わたしはある種の確信犯であるからまだ降下剤を飲む予定はない。前途は多難だ。

1週間の休戦ののち、わたしの人体実験が再び始まる。昨日の検査中の血圧は下95に上が155である。造影剤の副作用もない。ブドウ糖の点滴のせいか検査後は妙に体調がいい。CTの検査になんでまたブドウ糖の点滴が必要なのかいまだにわからない。1時間もかかった「生まれ落ちてから2度目の点滴」の方が、CT時の造影剤の注入よりもはるかに怖かった。


仕事

2009年02月10日 00時00分10秒 | Weblog
こころが弱くなっている時には動くに限る。体調が少々思わしくないときも同様だ。今日は顧客からの要望が多かった。次から次に電話や訪問の要請が入ってくる。相手の意向を見据えて的確にアドバイスをする。7件ばかりの要望をこなすともう宵闇が迫っていた。

呑気な政局が続いている。日本経済の舵取りを委ねた政治家・官僚たちには危機に直面しているというのに危機感がない。危機の解説をしているような無責任さが漂っている。わたしは事態を悲観するようになった。明日は造影剤の注入をうけてCTで心臓を撮る。どのような結果がでるか楽しみだ。

天下分け目の関ヶ原

2009年02月05日 20時37分54秒 | Weblog
どうにもこうにも血圧が下がらない。主治医の先生の指示通り循環器科の専門医の先生にかかった。検査の結果、期待に反して下が110以上、上が180近い重度の高血圧症であることが判明した。なんでも測る度に血圧が大きく変動するのが重度の高血圧症の特色なのだそうだ。血圧計がどうのこうのというような抗弁は切って捨てられた。

血液検査のためにとたっぷり4本の血液を抜かれながらふと考えた、血圧の測定だけでなぜ動脈硬化の進み具合まで測定できるのか?それにしても80歳並みの硬化具合だといわれると少々慌てる。来週の10日にCTで血管の検査をすることになった。3年がかりで主治医の先生から降下剤を飲めといわれているのに拒み続けて人体実験としゃれこんだわたしの自信はどこかへぶっ飛んでしまったようだ。不安が先に走っている。

待合室でわれにかえってみると、こういう事態に陥ってもなお疑り深い自分がいた。左右の足首と左右の手首の血圧を測定しただけで80歳並みの硬化という結論を出すのはかなり乱暴なような気がする。検査数値に疑いを持った場合、目で確かめるしかない。再び診察室に呼ばれた。敵さんはまるでこちらの疑問に応えるかのように心臓のCTを撮ってみようと言いだした。こちらとて素直に重度の高血圧症を認めるわけにはいかない。2月の10日が天下分け目の関ヶ原というわけだ。

クラウン

2009年02月01日 01時16分09秒 | Weblog
ブレーキパットの寿命が風前の灯状態である。タイヤは摩耗が著しくたまにスリップをしてわたしを驚かせてくれる。エンジン音が最近高くなりつつあるし、たまに妙な噴射音がする。1度の軽い自損のさいの傷は放置してある。後部座席のフィルムに目立つ破損がある。電装関係に故障が起きやすくなるほどの年数もじゅうぶんに経過した。あれこれなおすと車検を含めて50万円の出費になってしまう。「いつかはクラウン」ともいう。わが愛車の走行距離は21万キロに近い。本日、5年余りのお付き合いに終止符を打った。

知り合いの某女史がいうようにクラウンはほんとうによくできた車だ。次の車もやはりクラウンにした。同じ3000ccのロイヤルサルーンで車体の色も似通ってはいるが微妙に違うらしい。現在1300ccのやはりトヨタの代車に乗っている。エンジン音が高いというよりもうるさいし、今どきの車で久しぶりにノッキングの経験までさせていただいた。走行距離に目をやると100000キロと少々だ。中古とはいえ小型車ならば新車が買えるほどの価格であった。それでもやはりクラウンを選んでおいてよかったと胸をなでおろしている。原油が枯渇しない限りこのクラウンが終いの車両になるのであろうと妙な感慨にふけった。