旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

メンタル

2010年04月30日 22時31分34秒 | Weblog
Ⅰ 親子二人の母子家庭で育った。他人に頼らずに生きてゆくことを貫いた母は老いてしまった。我慢に我慢を重ねて働き続けた。5年ほど前から体に変調をきたしている。我慢をするたびに体が軋む。様々な症状となって体を蝕む。だが、生活保護を受けているひと達が許せない。自分は生活保護を受けるような人間にだけはなりたくない。だから診療内科の治療を受けている。定期的に臨床心理士のカウンセリングも受けている。この5年余りの闘病生活で貯えが底をつき始めている。そして、求職活動を始めたもののうまくいかない。失業給付・基本手当の受給資格も先月できれた。だから、職業訓練を受けたういと思う。生計を維持しなければならない。生活支援給付金を受給しながら訓練を受けたい。

Ⅱ 臨床心理士が精神科医の治療を受けている。1年ばかり公立の病院でカウンセラーを務めた。院内の人間関係が原因でうつ病を発症した。場当たり的に農業で生活を維持したいと考えている。農業・園芸の職業訓練を受けたい。

休日

2010年04月23日 22時32分52秒 | Weblog
水曜日ともなれば次の休日に何をして過ごそうかと考え始める。週に5日の稼働とすると水曜日の昼休憩あたりで平日の5日間が二分される。月・火の勤務は辛いから上り道にたとえる。水曜の午後からは休日に向けて道を下って行くように爽快だ。だから、水曜の昼休憩がちょうど峠に当たるような心地がする。そして本日無事に金曜日の17時を迎えた。休日に向けて張り切った分、精神的な疲労感が残る。が、役所を出るとそんなもの瞬時にすっ飛んでしまう。

列車に乗る時間をいつもとは少し遅らせて新幹線口の本屋に立ち寄った。新書を一冊買って、構内のキオスクで「午後の紅茶」と「森永ミルクキャラメル」を求めた。馴染みの店員さんといつものように他愛のない話を交わした。席を確保した車中で紅茶を飲んでからキャラメルを味わった。そういえば、バス通りから直接敷地に車で入ることができるようにするための工事が始まった。 

帰宅してみると敷地の前のバス通りに5メートルほどの進入口が開設されていた。明日アスファルトの舗装が済めば敷地内に車を止めることができるようになる。思えばこの20数年間で4度の引っ越しをしたというのにいずれの引っ越し先も敷地内に車をとめることができなかった。ようやく車を敷地内にとめることができるようになった。柿や杏の古木の木陰を駐車場所にする。これからは、駐車場に着くまでの雨に悩まされることはないだろうし、敷地内でのんびりとワックスがけや車内の清掃ができるようになる。

職業訓練

2010年04月22日 21時56分51秒 | Weblog
ハローワークの在り方が様々な形で議論されているようだ。つい最近では、ハローワークの運営を県に委ねて職員をすべて臨時職員にしてしまおうというどこかの県知事さんの意見が報じられた。職業訓練の成果を就職率で測れという厚生労働大臣の指示もあった。本気で日本の労働行政を考えるならば、避けて通れないはずの議論が先行しないといけないはずなのに、突如として意見や指示として報道される。これでは行政側の理念が更にみえにくくなってしまう。

最近、労組の説明会に参加したついでに尋ねてみた。「職員とほぼ同じ労働時間なのになぜ我々は非常勤職員と呼ばれるのか?企業ならば契約社員と呼ばれるのだから、わたしは契約職員ではないのか?」と。「民間では臨時社員という言い方をしないのですか?」と分会長は少々慌てた表情だった。呆れた。「オフコース!」と応じて話題を変えた。組織が硬直すると労働組合までが硬直するのだ。なんたる貧困。こっちとらそのむかし、典型的な御用組合の反逆的組合員だったという筋金入りだ。

職業訓練の在り方に関して改善策を問われたら、提案したいことがある。ひとつは訓練生の選考方法の改善についての提案であり、いまひとつは訓練校に対する評価制の導入に関わる提案だ。いづれも職業訓練を活性化させるための提案である。長妻大臣はすでに職業訓練の低落ぶりに気がついているようだから近々に非常勤職員にも意見を求めることになる。その時に真っ先に改善案を提出すれば、われわれというよりも、わたしが単なる非常勤職員ではなくて専門職であることを認めざるを得なくなることだろう。

などと・・・、大人げないことを考えてみる。思えばわたしは、頭のてっぺんから足の先まで、実に大人げないのだ。

ツァラトストラ

2010年04月21日 22時54分26秒 | Weblog
人生の重みは耐えがたい、とはいえ、そんなにめそめそした様子は見せないでくれ。わたしたちはことごとく重荷を担う力のある、けなげな、牡あるいは牝の驢馬なのだ。1滴の露をのせてもふるえる薔薇のつぼみとは、われわれは類を異にしている。
 
ニーチェ「ツァラトストラはこう言った。」 読むことと書くこと 

休養

2010年04月18日 09時09分27秒 | Weblog
現在の職場で仕事を始めて間もなく2年目を迎えます。年度変わりの4月は仕事が忙しくって気分転換が精いっぱい、休養する時間が殆どありませんでした。たまに職務の知識や経験不足を感じることもありますから、そうですねえ、職務に必要な心理学や雇用や経済動向について勉強してみたいような気もするのですが、仕事のことで頭がいっぱいなので読むことそのものがストレスになりかねません。この連休では街や海で思い切って休養することにしました。

専門店で好きなコーヒーを飲む、心の糧になるような本を読む、新緑の中でくつろぐ、海や山を見つめている。休養にはお金がかからないからいいですね。10日間ばかりは仕事と関わりのない世界で暮らすことになりそうです。しっかり食材を選んでフレンチポテトや焼きナス、舞茸の天ぷらをつまみにして、できれば屋外で冷えたビールを飲む。少し贅沢ですが、和牛のバーベキューもいい、新緑や海を眺めながら食することができたら最高です。

求職者の皆さんの職業や職業訓練に関わる相談に応じています。日に20名以上の方々と面談しています。切羽詰まった皆さんが多いので、こちらがおおらかに対応しないと皆さんに不安を与えてしまいます。また、あまりにお役所仕事的に対応すると、皆さんに不信感を与えてしまいます。皆さんのご要望にしっかりと耳を傾けるためにも、こちらの心に休養が必要なのではないかと考えています。

というわけで、このゴールデンウィークは思いっきり休養します。

現象学

2010年04月14日 20時26分03秒 | Weblog
人間は与えられた世界の産物だ。だから世界を究明しようとすれば、外界にとどまらず世界を知覚する「わたし」も究明の対象にならざるを得ない。ところが、一般的な「わたし」というものは成り立たない。「わたし」には個別の肉体を伴うからである。しかし、1+1は2である。また、移動した距離を所要した時間で割ると速度がでる。感情や感覚の外部で理解できる。こういう作用を理性の作用であると先哲は語る。数学や物理学が典型である。なぜ、個別の「わたし」が数学や物理学の法則を所与の法則として認識できるのか、この迷路に挑んだ哲学が現象学と呼ばれる。

2010年04月12日 21時38分52秒 | Weblog
目の前に同世代と思しき男が座る、そして話す。年齢は、まず頭髪の生え具合や皺の数にあらわれる、声や表情にあらわれる。話してみると解る、年齢は声質にあらわれる。年齢は話す言葉にあらわれる。こちらが呆れるほど言葉が貧困なひとたちがいる。言葉が老いている。こういうひとたちは決まって表情に乏しい。

3年ぶりになる、男3人で花見をした。百貨店で食べたい弁当を買い、つまみを買い、飲みたい酒を飲んだ。花冷えに舞い散る桜、近況報告。ひとりはボケ始めた母親を心配し始めている。ひとりは掲載中の新聞記事にこころがはやり、ひとりは仕事と人間について語る。それぞれの弁当をたいらげ、つまみをたいらげ、酒も飲みつくした。みんなの声は若く、ボキャブラリーに富み、声質はあくまで若いし、言葉も若い。表情もある。通り雨で、花見は解散になった。

帰宅後は熱いシャワーを浴びた。コーヒーのあとで思いっきり冷たい水を飲んだ。庭では例年になく紫モクレンが花をつけている。バラのさし木を新しい鉢に植えかえた。先日買ったヤマボウシが葉芽をふいた。バラがツボミをふき始めた。庭の植物たちに肥料を与えたら雨が降り始めた。春の雨は、身にも心にも爽やかだ。

仕事

2010年04月07日 22時13分16秒 | Weblog
「忙中閑あり」は安岡正篤さんの造語だそうだ。もともと影の参謀とか策士とか、虎の威を借りる狐よろしく先哲解釈の権威で処世をする人間が好きではないから、この表現を控えようと思いつつ、これまでの癖で使ってしまう。要は、口の割には私に節操というものが欠落していることの証左なのだ。

たまに来所する求職者が驚くくらい、連日ハローワークは混み合っている。確かに、年度替りという要因で3月に離職するひとが多い。当然といえば当然なのだが、8時半の受け付け開始からハローワークは人の海、ひとの波が押し寄せる。押し黙ったまま呼び出しを待っている皆さんに慰労の意味をこめて「どうもお持たせしました。」という挨拶から職業紹介や訓練相談の手続に入ることにしている。

空調のせいなのか、ひとの海のせいなのか、早春だというのにハローワークは蒸し暑い。数10分もすると全身から汗がにじんでくる。顔面は、目に汗がはいらんばかりの惨状だ。それでも、来所者の皆さんの姿はちょうど1年ほど前のわたしの姿なのだから、どうしても相談に熱が入る。熱意が熱となって全身を駆け巡っているような錯覚を覚えることもある。

たまに「シンドラーのリスト」のような使命感に駆られて、紹介状を書いたり訓練の申込を受け付けている自分の姿を連想する。しかし、事業所へ紹介状を出したからといって就職が決まるわけでもないし、訓練の申し込みを受け付けたからといって訓練の選考にうかるわけではない。こういう連想をすること自体、すでに仕事がマンネリ化し始めたか、疲れ始めているかの兆候であるように思えれてならない。

ヴィトゲンシュタイン

2010年04月07日 21時14分27秒 | Weblog
広島駅構内の古本屋で時間をつぶしていると、藤本隆志著「ヴィトゲンシュタイン」が目に止まった。芸備線の列車を待つ合間のことだから、さっそく買い求めて車中で読んでみた。ヴィトゲンシュタインは現象学から生まれ育った分析哲学の系統だ。ブレンターノ、フッサールからメルロ・ポンティ、そしてヴィトゲンシュタイン、目に留まる書物の性質が連鎖するのが興味深い。本が私を求めているのか、その逆なのか私には解らない。

以前、彼の全集の内の一巻を読んだことがある。難解極まりないというよりも、好きになれない文体だ。他人に解り易く表現しよう、説明しようという姿勢が微塵もない。正統的な哲学の教育を受けていない身からすると、この種の著作を読むことが実に味気ない。もしも読むことを強要されたら神経が萎えてしまいそうだ。

このようなヴィトゲンシュタインがバーランド・ラッセル卿の弟子だというのも何か不可解だ。ラッセルは平易な表現で深遠なことを書く。読む側からすると実に解り易い。哲学する者はいづれ言語の問題に突き当たる。ヴィトゲンシュタインの言語論については読んでおきたいと思う。ヴィトゲンシュタインといいメルロ・ポンティといい、とんでもない迷路に踏み込んでしまったような気がする。

つい固有名詞が先行してかれらの思想や哲学をうまく表現できないのは、著作を理解できていないことが原因のように思う。もとより、概説書を読んだり著名なフレーズを暗記して哲人や思想家を理解したような気になる気は毛頭もない。蕃山が言うように、知ることと合点がいくことは別問題である。解ることは解る、解らないことは解らないと言えることが哲学することの第一歩なのだ。

現象学

2010年04月05日 21時20分04秒 | Weblog
現象学という哲学がある。いまだ私には理解できない哲学なので、現象学という哲学があるらしいというのが正しい表現だ。デカルトはひとの意識を感性的な実在と理性的な実在に分かち、感性と理性との二元論を前提にして理性的な思惟を感性から分かち科学を科学たらしめる思惟の先駆けとなった。フッサールはこのデカルト的省察を批判的に摂取して新たな純粋論理学を打ち立てようと目論んだ。純粋論理学の再構築を目論んだ哲学が現象学だ。まるで高校生の作文のような表現ではあるが、私の理解が及ぶ範囲内で現象学を説明しようとすればそういうことになる。

読書を進めている著名な現象学のメルロ・ポンティが著した「知覚の現象学」は、物質と意識・精神・知識との関わりを現象学的に明らかにしようとする。ここで問題になるのは、例えば、ひとはなぜ猫を猫として認識できるのか、またなぜ醜い猫、可愛い猫を認識できるのかというプラトン以来のイデアの問題だ。プラトンは万人の心の中にはあるものをそのものであると認識できるイデアがある。そのイデアは原始的なイデアから、芸術品に至る洗練されたイデアへまで多様である。さらにイデアは時間や時代とともにと姿を変えながら展開することがあると説く。が、プラトンは進展させる要因について応えていないといわれる。・・・いわれると書かざるを得ないのは、おそらくはプラトンのイデア論に対する私の理解が足りないからだ。

「知覚の現象学」のなかでメルロ・ポンティは知覚が物質を認識しようとすると「指向性」の働きによってひとに共通の認識が生じる。例えば、ひとは右目と左目との両目で景色を見る。ところが神経の働きによって映像はひとつの心象になる。二つの眼が別の情景を見ているにもかかわらず、だ。たとえば、指向性というのはこういう作用をいう。さまざまな戦闘を見た兵士が戦争が悲惨なものだというひとつの心象を得る。こういうのも指向性の作用だ。イデア論にしても指向性にしても、日本語がいまひとつしっくりとこない。知ることと合点がいくことは違うと熊沢蕃山は言った。現象学がいまだに消化不良なのは合点がいかないからだ。

クレーム

2010年04月04日 00時22分43秒 | Weblog
忙しい金曜日だった。始業から終業まで忙しかった。来週も怒濤の如く離職者や求職者が訪れることだろう。定年退職やら年度の区切りで離職する人が多い。4月は離職票の季節だ。

職業訓練の受講希望者から奇妙なクレームがあった。私が訓練期間と申し込みの受付期間を間違えて説明したというのだ。手渡したリーフレットには受付期間と訓練期間が明記してある。せっかくリーフレットをお渡ししたのだから本人が確認すれば自ずとわかることだ。「んなアホナ?」と思いながら説明の仕方が悪かったと詫びた。言った言わないでもめたって仕方がない。最終的には、確認しなかった本人にも責任があったことをお認めになったので事なきを得た。が、どうにも後味が悪い。

日に20人以上と面談している。この職に就いてから既に9カ月余りが経過したから、延べで3000名以上の来所者と面接したことになる。責任の所在はともかく、この間、4件のクレームがあった。どちらかというと事務に間違いが多い方であるにしてはよく健闘していると思う。おそらくは誤差?の範囲内だ。だからこそ、1件のミスが致命傷にならないように一層気を引き締めて仕事に当たらないといけないと思う。良い勉強になった。