旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

抱負

2011年02月28日 19時27分12秒 | Weblog
この春からは任用といわずに雇用というのだそうだ。本日、再雇用が決まった。かなりきびしいと思っていただけに内心ほっとした。末端とはいえもう1年、行政の一翼を担うことになる。引き続き市民の皆さんのお役に立ちたい。これが抱負だ。

何事も3年は辛抱という処世観だから仕事が苦になることがない。それに窓口業務はひとが相手だから得意とするところだ。複雑怪奇な役所の手続きをやさしく来所者に説明することが私の職務だ。いつまで続けるのか、いつになったら雇止めになるのか私にも解らない。仕事がある限り、市民の皆さんのお役にたてる限り勤め続けたいと思うばかりだ。




プラグマティズム

2011年02月26日 18時56分43秒 | Weblog
昨年までアメリカで心理学を学んでいたというある女性がエリクソンの名を挙げたので、デリダの「精神について ハイデガーの問い」を買ったついでにエリクソンの「アイデンティティの心理学」を買った。彼女は心理学用語の日本語表現が不得手だ。米国で学んだ彼女は米語でPsychologyを理解しているのであって、いまだ日本語では理解していない。たとえば、エリクソンの代表的な著作や、専門分野についてたずねたところ、催眠療法や異常心理学、幼児心理学といった日本語がでてこないらしく突如として英語で話し始めた。

「世界の名著」の旅はプラトン、デカルトを経て一挙にプラグマティズムまで飛ぶ。「世界の名著 パース・ジェイムズ・デューイ」の解説を読み終えた。解説で1890年に出版されたジェイムズの「心理学原理」は名著の誉が高いとまで持ち上げられているにもかかわらず「世界の名著」には掲載されていない。

プラグマティスムがアメリカの心理学に大きな影響を与えたに違いないと思い込んでいた。「世界の名著 パース・ジェイムズ・デューイ」の解説によれば、ジェイムズが「プラグマティズム」に先んじて著した「心理学原理」がデューイの哲学思想の方向変換に最大で唯一の影響を与えた。また、プラグマティズムの理論的完成者であるデューイは「心理学原理」の中の概念、識別と比較、推論等を扱った章を読むことをいつも学生に奨めていたとある。逆に「心理学原理」がプラグマティズムに影響を与えていたということになる。誤った理解だった。

日新

2011年02月23日 21時54分36秒 | Weblog
『まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり。』
                          「大学」 伝二章

『心を洗い清めて旧来の悪習を除きて自ら新たにし、一度のみならず日々これを新たにし、なおもまた日に新たにせねばならぬ。』

呼び込み

2011年02月19日 21時46分08秒 | Weblog
職場ゆかりのひとが寄ってきて「どしたんあんた?バイトしよるん?」と話しかけてきたかと思ったら、横から大学の後輩に当たるRCCのえらいさんが「お久しぶりです。」と割り込んできた。その後も呼び込みを続けた。20年ほど前のお隣さんや中学時代の同級生が私に気がついて寄ってきた。

本日は物産展の呼び込みをやった。もちろんボランティアだ。私には相手が誰だかわかっているのだが、「あのひと、どこかで見たことがある。」とばかりになんども行ったり来たりしながらこちらを窺っているひとがいたり、こちらが知り合いじゃないかと勘違いして声をかけたら人違いだったり、さまざまな巡り会いと僅かな勘違いがあった。

昼の休憩時間には「ジュンク堂」で新本に目を通すことができた。新本のインクの香りはいい。認知療法や行動療法を理解を理解するためのヒントを得た。私は心理学とキャリアコンサルティングを混同しがちだった。立ち読みで、コンサルティングは健常者に対する心理学の応用・実践なのだということに気がついた。これは大きな収穫だ。
   
また、デカルトの岩波文庫ワイド版「方法序説」を数ページ読んだ。最近読んだ「ソクラテスの弁明」と同様の衝撃を受けた。要は思索の方法が独創的なのだ。「方法序説」は岩波以外にも数冊持っている。それでも改めてワイド版を買い求めることになるのだろう。随分とわかりやすい翻訳だった。

物産展を訪れた母親と兄を誘って中華を食べた、爽快な気分にとりとめのない世間話を肴に紹興酒を飲んだら瞬く間に一本が空いた。物産展に戻ってワカメを買うという母と兄と別れて芸備線に乗った。バスに乗り換えて家に着いたのは8時前だった。明日の午前もエールエール8階の催もの会場で呼び込みを続ける。大きな声を出すのはこころと身体に好い。

夢現(ゆめうつつ)

2011年02月15日 21時30分12秒 | Weblog
「親知らず」の抜歯から3日が経った。経過はよい。傷口はすっかり閉じて昨日から出血もない。気のせいか頭まで軽くなってきた。肩こりは「親知らず」が原因だという先入観がある。だからというわけでもなかろうが肩凝りが霧散したようだ。またひとつ若返ったような爽快な夕べが訪れている。

今日は前触れもなく同窓生が職場に現れた。他愛もない話をまくしたてて帰って行った。最近同窓会に現れるのだけれど、ふたりでじっくり飲むような間柄ではない。それにしても最近、職場に古い知り合いがよく現れる。ここ1カ月だけでも片手を下らない。

予兆というのか兆しというのか、最近、何かが起こる前には必ずといってよいほど日常生活に関わりのない人間が現れる。悪い知らせの前には胸騒ぎがあるし、良い知らせの前には心の高揚感がある。錯覚なのか幻想なのか3年ほど前に広島にいるはずのない人を見た。あの日からそうなのだ。

メタポ検診の結果が出た。もっとも心配していた血糖値は拍子抜けするほど低かった。異常所見は高脂血漿および高血圧のみで心電図にかすかな所見、気がかりなのは背が1.5㎝縮んだことでこれは目下治療中だ。身体の疾病がひとつ、またひとつと治癒するに従って感覚が研ぎ澄まされてゆく。高血圧を治療すれば神に近づくのではないかという妄想がみえる。心が危険水域に入り始めたようだ。

湯浅誠の反貧困

2011年02月14日 19時48分34秒 | Weblog
日本では企業が市民の福祉を支えてきた。欧米では国が市民の福祉を支えている。だから、わが国で増税しようとすれば国会で否決される。ところが、欧米では増税の理由さえきちんと説明すれば可決される。いずれにしてもわが国では企業の「福祉の傘」によって守られているひとと傘の外で雨に打たれている人との格差が拡大する一方だ。傘の中に止まるために努力した人たちは、傘の外にいる人に対して冷ややかだ。であるにもかかわらず非正規社員が増え続けている。非正規社員は傘の外にいる。

企業が福祉を担うと社員に忠誠心を求めるようになる。会社が社員に「気に入らないのなら辞めればいい。」という対応は、一家の大黒柱と主婦の関係に似ている。「他に代わりはいるのだからいつ出て行ってもらっても良い。」というわけだ。会社は社員の福祉の面倒までみてきた。だから、社員以外の従業員には福祉を提供しない、一家の大黒柱はほとんどが男性だから、女性がパートやアルバイトで自立できない仕組みができて年金制度や税制がそれを支えている。

恐怖

2011年02月12日 20時33分53秒 | Weblog
「今日は抜かれますね?」と囁かれるやいなや手鏡を渡されて、「よーく見てください。ここの歯との境界を切断してから「親知らず」を切除・抜歯しますね。」と涼しい顔で伝えられた。これから私の身体から切り離される「親知らず」を憐れむ余裕なんてない。目を固く閉じて歯を食いしばるばかりだ。

「はーい、口を大きく開けてえ。」が合図だ。いきなりチクリときたかと思うと、繰り返し「親知らず」の周りがチクリチクリと急襲される。そしていつしか痛みは遠のき、顎の右下方は石を突っ込まれたような違和感に占拠されてしまう。キーンという機械音が隣の歯と「親知らず」を切り離したようだ。

占拠された違和感のあたりがガリゴリと歯肉ごと削られたり、抉られたりしているようだ。もちろん私は眉間に皺を寄せるばかりで固く目を閉じている。先生が何かを強く挟んで思いっきり引っ張ったようだ。傍らの助手に「吸引!」と声をかけた。口の中が血だらけになったのが解る。

「うがいをしてください。」という声にわれに返った。「やれやれ、これで手術は終わった。」と胸をなでおろした。ようやく目を開ける勇気を持つことができた。予想通り口をすすいでも、すすいでも血がとまらない。若干不安になって「このまま血が止まらなかったどうなるのでしょう。」と先生に問うてみた。「はやとさんは血圧が高めだから、ま、そんなもんでしょ。」というつれない返事が返ってきた。

再び治療に戻った。軽く消毒でもするのだろうと考えた私が愚かだった。まだ麻酔がきれない「親知らず」の抜歯あとのくぼみを何か金属状のへらのようなものでこさげているのがわかった。こさげているのは明らかに顎の骨のあたりだ。身ぶるいしてきたのでさらに固く目を閉じた。5から6波の波状攻撃だ。痛みを感じないだけになお不気味だ。歯茎から顎の骨にかけて激しく攻撃されている。

何度も何度も、のどの奥あたりに流れ込んでくる血液を飲み込まざるを得なかった。自分の血なのだからどーってことはない。既に手術の恐怖から何かが麻痺し始めている。顎の骨にこびりりついた何かを落とす作業も終わったらしい。再び口をすすぐように指示が出た。

ああこれでようやく終わった、と言いようのない解放感に浸っていると、再び治療椅子が倒された。「はい、大きく口を開けて。」が合図だ。こうなったらまな板の上の鯉、煮るなり焼くなり勝手にしてくださいと先生に伝えようとしたが、患部の出血をとめるためにガーゼを噛まされていて思うに任せられない。「ウー」とうめいて私の抵抗は終わった。

大きく開けた口のなかで先生が裁縫をしているらしい。麻酔の効きが悪いところにいきなり針が突き刺さるような感触に慄いた・・・続く。

講演会

2011年02月11日 13時17分19秒 | Weblog
この日曜日に「年越し派遣村村長」湯浅誠さんの講演会を聞きに行く。東大を出た知的エリートがなんでまたこういう活動に頭を突っ込んだものかと個人的な興味があるし、岩波新書「反貧困」で湯浅さんが明らかにした「溜めのない人たち」に対して著者自らが以降、どのようにこの問題と取り組んできたのかを仕事との兼ね合いで知っておきたいからだ。

現実問題として、生活保護すれすれの求職者がかなりの数ハローワークを訪れている。私は求職者に対して彼此の立場にあるという認識が薄い。自身が4度の離職のたびにいいようのない喪失感に囚われたし、自業自得とはいえ、離職のたびに負債はあるが蓄えがない状態で求職活動に取り組まねばならなかった。私の経験と彼らの境遇は紙一重なのだ。

健康な体と人並みの教育があったし、身内から物心にわたる支援も受けて「溜めがなくなるところ」まで追い込まれなかった。また幸運にもなんでも相談できる有力な支援者がいてくれたので、奈落の底を這いずりまわった程度の傷で済んだ。一方で、求職者の皆さん中には、その内のひとつ乃至はすべてに恵まれなかったために「溜めがないという」蟻地獄から這いあがれない人たちがいる。だからこそ私は求職者の皆さんに対する就職相談や訓練相談と懸命に真剣に取り組むのだ。

現代思想の源流

2011年02月10日 22時56分25秒 | Weblog
想像を逞しくして先入観で行間を読むのではない。また、みずからの小さな体験・経験を過大評価する気もない。が、敢えていうならば実存主義的読書法というか、反事大主義的な読書法というか、最近では自己流の読書が意外に正当的な読書だったのではないかと思うようになってきた。で、その道の権威によって書かれたこの本と私の理解との差を計ってみたくなったというのが購入した大きな理由だ。 

「現代思想の源流 マルクス ニーチェ フロイト フッサール」が手元に届いた。この4大哲学・思想家クラスともなるとなかなかその思想の全体像が見えてこない。そこで、その全体像を明らかにするために定評がある学者の手を借りることにした。原著以外の著作を読むのは久しぶりなので連休の楽しみがひとつ増えた。

この本を買うことになったきっかけは、積み上げた本の下敷きになっていたジークムント・フロイト著「自叙・精神分析」だ。青年時代のフロイトは貧しく、どのようにして他人に取り入って経済的な支援を受けるかということに苦慮したようだ。このことが彼の人格の形成に大きな影響を与えていると直感した。このフロイトの「文化・芸術論」、マルクスの「経済学批判序説」、ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」は私の愛読書で、現象学についていうと最近メルロ・ポンティの著作に魅せられている。

たまの休日くらいは仕事から離れて自分の時間を持ちたい。今週は仕事が捗ってすべての仕事をその日中に済ますことができた。ここしばらくの休日は、好きな本の整理に専念することができそうだ。至福の時間に胸が躍る。しかも、報道によれば明日の早朝から明後日にかけて広島地方は雪だ

無知の知

2011年02月08日 22時56分34秒 | Weblog
ソクラテスの友人である故カレイポンがデルポイで「ソクラテスよりもだれか知恵がある者がいるかどうか」をたずねた。そこの巫女は「より知恵のある者はいない」と答えた。神託のことを聞いたソクラテスは、自分は知恵がある者ではないと自覚している、神は何を言おうとしているのだろうか、何の謎をかけているのだろうかと考えた。

「この男も私も、おそらく善美のことがらは何も知らないらしいけど、この男は、知らないのに何か知っているように思っている、私は、知らないから、そのとおりに知らないと思っている。だから私の方が知恵があることになるらしい。つまり私は、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで勝っているらしいのです。」

「作家は口ではいろいろたくさん結構なことを言うけれど、その言ってることの意味はなにも知らない。作家がその作品を作るのは、自分の知恵によるのではなくて、生まれつきの素質によるのであり、神がかりになるからなのであって、これは神の啓示を取り次ぎ、神託を伝える人たちと同じようなものなのだと。」
      世界の名著 プラトンⅠ「ソクラテスの弁明」から引用の上、一部を改竄。

ソクラテスの弁明

2011年02月07日 20時06分26秒 | Weblog
日曜日の午後、本の整理をしていると埃にまみれた岩波文庫「ソクラテスの弁明」が出てきた。1978年10月10日第43刷発行版だ。1927年7月3日第1刷発行だから、少なくとも初版から51年目に私が買い求め、それからすでに32年が経過したということになる。ソクラテスが毒杯をあおって刑死したのは紀元前399年、今から2400年余り前のことだ。

高校の夏休みの課題図書だった。「ソクラテスの弁明」を読んで読書感想文を書けというのである。どうしようもない活字音痴で哲学や思想と殆ど無縁だった。しかも、国語特に現代文が苦手で私の読解力には問題があった。読書習慣がない者は往々にしてそうであるように内容を自己本位に解釈してしまうのだ。

読書感想文の課題図書から40年以上の歳月が流れた。岩波文庫の活字があまりに小さいので「ソクラテスの弁明」を世界の名著「プラトンⅠ」で読んでみることにした。一気に半分ほど読み終えた段階で、若かりし頃に興味が持てなかった理由が明らかになった。

「ソクラテスこそがアテナイ一の知者」であるという神託が巫女によって告げられる、まず、その「神託」という言葉の意味がわからなかった。また、ソクラテスは町のあちらこちらで若者や市民と議論をするのである、こういう文化が私の周辺にはなかった。いくら活字で語りかけられても、この種の言葉の理解や似たような文化が欠落していたのではソクラテスの言動を理解することは困難だ。

「ソクラテスの弁明」という古典に親しもうとすれば、たとえば神託という言葉の意味内容を自力で理解できるレベルの言語能力と文化的背景に肉薄しようとする経験や知的な蓄積が最低限必要だ。ソクラテスが刑死したのは70歳、「ソクラテスの弁明」の作者である弟子プラトンは28歳だった。


歓迎会

2011年02月02日 22時32分16秒 | Weblog
今日は週に1度、1週間ぶりの病院でのストレッチだ。10分間、腰に電気を当ててから治療に入った。まず、腹式呼吸によって腹筋を鍛える法を済ませる。次に大きなバルーンを利用した腹筋のストレッチに励んだ。最後は整体だ。冷たい風の中をバス停に向かった。要痛はほぼとれた。上半身の重みを感じることもなくなった。あと数度か病院に通えば治療から解放されそうだ。

水曜日ともなると仕事の垢が頭や心に溜まって頭の隅の方で悪戯をする。ハローワークに勤め始めてからというもの、心地よい疲労感にとらわれることがあっても、この種の倦怠感や不完全燃焼を感じることはなかった。年のせいか仕事のせいか、あるいはその両者のせいなのだろう。

がむしゃらに仕事をこなしてきた。ふり返れば約1年間をかけて職務を理解し、あとの半年で仕事に慣れた。当初の予想とは大きくかけ離れた実態ではあったが大方の業務はこなせるようになった。国は職業訓練がらみの求職者支援事業を恒久予算化するというのだからしばらくは任用を続けていただけるのだろう。私が身を置く職業訓練担当部所は、入った時の8人体制からこの1年と半年ほどで私を含めて7名が加わって既に15名の大所帯になった。そして、明日は1月にはいってきたルーキー2名の歓迎会だ。

雇用政策

2011年02月01日 19時53分37秒 | Weblog
「契約自由の原則が全面的に妥当している場合には、現実の労使間の力の差のために、労働者は使用者に対して不利な立場に立たざるを得ない。労働基本権の保障は、劣位にある労働者を使用者と対等の立場に立たせることを目的としている。」
「憲法」芦部信喜著 岩波書店

『すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う』憲法27条1項
「その労働によって生活する国民がすべての労働市場において適正な労働の機会を得られるようにせよ、との国政の基本方針を宣言するものである。それは、自由市場経済において労働者の雇用が労働力需給の変動に翻弄されてきたことを反省し、完全雇用を国政の重要として宣言した規定ともいえる。したがって本項は、労働市場の法規制に関する基本原則を定めたものである。」

「勤労の権利とは、国の2つの政策義務を意味する。第1は、労働者が自己の能力と適性を活かした労働の機会を得られるように労働市場の体制を整える義務である。そのような労働の機会を得られない労働者に対して生活を保障する義務である。本項はまた、国に対してこれらの積極的政策義務を課すとともに、立法府に対しそれら義務の実施のための立法の授権をもなしている。」
「労働法」 菅野和夫著 弘文堂


雇用の安定のために何をすればよいのか、経営者や労働組合なら当事者として一定の回答を寄せることができることだろう。ところが、雇用の安定のために「国が」何をすればよいのかとなると回答はかなり難しい。菅野和夫は上記「労働法」で、近年の政府の積極的雇用政策とそのための多数の立法措置は、憲法の「勤労の権利」の理念への積極的な取り組みとして評価できると述べている。