旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

大川周明

2007年05月31日 23時26分08秒 | Weblog



中央新書 大塚健洋著「大川周明」を一気に読んだ。

「昭和21年5月4日、世紀の東京裁判が始まった。ウェッブ裁判長が開廷の辞を述べ、起訴状の朗読が始まったところで、法廷に異常などよめきが広がった。午後3時37分、被告席の大川が突然、前に座る東条英機のハゲ頭を、ペタリと叩いたのである。この日、大川は水色のパジャマに下駄履きという異常な風体で出廷し・・・。精神鑑定の結果、梅毒性脳疾患である重度の進行麻痺症の躁状態であることが判明した。」あの大川周明について描かれている。

「日露戦争後のアメリカの東亜進出政策は、『藪医者が(麻酔)注射もしないで切開手術を行うような乱暴ぶり』で無遠慮にして無鉄砲な点は、、近代外交史上類例を見ないほどである。・・・。極めて利己的で矛盾撞着に満ちている。日本の唱える東亜新秩序は、世界秩序を意味し、やがてアングロ・サクソンの世界制覇を否定するが故に、結局、日米両国の衝突は避けられない。・・・。」

「東亜新秩序とは、日本民族の内に潜む「三国魂」即ち中国精神とインド精神を総合した日本精神を、客観化しひとつの秩序とするものである。したがって、「大東亜戦は、単に資源獲得のための戦ではなく、経済的利益のための戦でなく、実に、東洋の最高なる精神的価値および文化的価値の戦いなのである。」と大川周明は主張する。

『ある復古主義者の思想』という副題がついているが、世界を日本精神に同化させようという考え方はファシズムに共通する一元的価値観の典型である。大川周明が大東亜戦争の理論家と呼ばれるゆえんである。

夜霧のブルース

2007年05月29日 22時42分14秒 | Weblog
青い夜霧に 灯影が紅い
どうせ俺らは ひとりもの
夢の四馬路か ホンキュの街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ

可愛いあの娘が 夜霧の中へ
投げた涙の リラの花
何も言わぬが 笑って見せる
ああ これが男と いうものさ

花のホールで 踊っちゃいても
春を待たない エトランゼ
男同志の 合々傘で
ああ 嵐呼ぶよな 夜が更ける


     島田磬也 作詩 


エキサイティング

2007年05月25日 22時27分29秒 | Weblog



当てが外れることは往々にしてあるものだ。しかし今回は一日だけで4件も当てが外れた。〆て○百万円近い当てが外れるとさすがに落ち込む。出す方の当てが立たなくなってしまった。

予定通りなら、自由に使えるお金が50万は残ると思っていた。そのお金で2~3日の京都旅行を楽しみ、高くて手がでなかった本を思いっきり買う。近くのホテルでフランス料理とワイン、ラウンジでカクテルを味わってから、気が済むまで眠る。バラの株だって欲しかった。スーツやメガネも買い替える予定だった。ささやかな夢は、シャボン玉と消えた。

入るべきものが入らないと落ち込むし、下っ腹に力が入らない。今日という一日が生ける屍のようなブザマさである。緊張の糸が切れてしまった。性質がギャンブラーだから、お金がないと何もできない。風邪までひいてしまった。泣きっ面に蜂という構図か。

将棋の米長邦雄に言わせると、「不運は人を強くする。幸運も不運も実力のうちである。落ち目のときこそ真価が問われる。私利私欲を捨てれば必ず道は開ける。」のだそうだ。

ところがどっこい、よくよく考えてみると、入ってくる予定のお金が不渡りになったわけではない。入る当ては外れたが、今月中には確実に入ってくる。米長流に言うと「避けようのない不運にも光は射す。」ということだろうが、私はまだまだ成仏できそうにない。

米長のように達観してしまうと、人生がつまらなくなるような気がする。娑婆でのた打ち回って苦楽の思いに身を焦がす。こういう生活の方がエキサイティングで面白い!

「大学」

2007年05月24日 01時24分05秒 | Weblog

「孔子」「孟子」「大学」「中庸」を合わせて四書という。

その「大学」の書き出し。
「踏みとどまるべきところがはっきり解ってこそしっかり落ち着くということになり、しっかり落ち着いてこそ平静であることができ、平静であってこそ安らかになることができ、安らかであってこそものごとを正しく考えることができ、正しく考えてこそ目標も達成できるのだ。ものごとには根本と末端とがあり、また始めと終わりとがある。何を先にして何を後にすべきかわかるなら、それでほぼ正しい道を得たことになるのである。」(岩波文庫)

「大学」は孔子の門人の曾子の作、「中庸」は曾子の門人の子思の作。そして、思子の門人に学んだのが孟子である。

バラ

2007年05月22日 19時09分25秒 | Weblog

薔薇づくりに凝っている・・・というよりも、たかが2本の株に大輪の薔薇を咲かせようと懸命である。春先に、朽ちかけたバラの株の根元に小さな芽をみつけたのが始まりである。さっそくバラ作りの本を買って、注意深く芽の成長と取り組んだ。

ものの本によると、バラの新しい枝のことをシュートと呼ぶ。30センチほど株から離れた円周に肥料を生める。一度目は肥料を埋めたままにして水はやらない。バラをその肥料に慣れさせるためなのだ。

春先の小さな芽は、2ヶ月を経て太さが1センチ、高さが1メートルほどのシュートに成長した。7つの蕾をつけている。もう一方のバラも、2輪の大振りなバラの花をつけた。

オーソン・ウェルズの「市民ケーン」では、「Rose bud(バラの蕾)」は、子供の頃、ケーンが愛したソリの名前であった。わたしはバラの栽培に愛着を感じ始めている。夢は、「ローズ・ガーディン」づくりへと膨らんでいる。

王陽明全集全10巻

2007年05月21日 23時20分00秒 | Weblog


とうとう予約してしまった。

林田明大の「新説伝習録入門」でお茶を濁そうとしたのが拙かった。何に頼ったものかは知らないが、その「伝習録」の口語訳が意外に解りやすい。そこで、つい買ってしまったところまではよかったのであるが、じっくり読んでみようとしたら、どうしようもなく解説が悪い。サラリーマンに受けそうな処世訓で満ちているのである。これじゃ著者は、まるで陽明の権威を借りた悪しき意味での評論家みたいなものだ。無理がある。

「論語」の中で、孔子が禄についてふれた2節について知っていれば、林田のような浅い解釈は成り立ちにくい。

「子曰く、多くを聞きて疑わしきを欠き、慎みてその余りを言えば、即ち咎め少なし。多く見て危うきを欠き、慎みてその余りを行えば、即ち悔い少なし。言に咎め少なく、行に悔い少なければ、録その内にあり。」為政第二の18

「子曰く、君子は道を謀りて食を謀らず。耕すや飢えその中にあり。学ぶや禄その中にあり。君子は道を憂いて貧を憂へず。」衛霊公第十五の31

残念なことに、孔子さまはビジネスに興味がない。従って、「王陽明然り」なのである。

裁判

2007年05月17日 22時45分01秒 | Weblog
弁護士費用がなくて本人訴訟を強いられたことがある。判事が、相手側の弁護士の言いなりみたいな和解案を出してきたので、「判事、このような和解案では私が破滅してしまう。これが司法のやることですか?」と反論したら、「この和解案を履行されたあかつきには、あなたも得るものがあるのではないでしょうか。」と平然と言い放つ。

「得るものなんかねえよ、この若造!」。ほんと、その場で靴を脱いで張り倒してやろうかと思った。

調停もやったことがある。見るからに人が良さそうな調停員、こっちが言ってることを全く理解できない。いらいらしていると、簡易裁判所の判事が出てきて、「調停員を侮辱するような言動は慎みなさい。」ときた。

「どっちが侮辱してんだよお!」。

人の心の痛みに鈍感で、良識・ものの道理に疎い、純粋培養されたお坊ちゃまやジイ様たちに、複雑な利害や人間関係がからむ事件を公平に裁くことができるものかどうか、大いに疑問である。裁判員制度の導入に当初より賛成だ。

『伝習録』

2007年05月16日 06時08分07秒 | Weblog
ここのところ王陽明の「伝習録」に啓発されるところが多い。「知行合一」とか「致良知」について説いた著名な王陽明の言行録で「陽明学の教科書」である。

王陽明は、科挙に合格した進士(高級官僚)である。理論の人というよりも実践の人であった。同僚の裏切りや帝の誤解から左遷や鞭打ちの刑に服した経験がある。病弱であるにもかかわらず不屈の魂を備え、教化力に長けた人物であったと伝えられる。

誰しもが高校の倫理か世界史で習ったように、「知行合一」の思想で有名である。陽明がいう「知行合一」とは、「知は行の目的であり、行は知の修行である。知は行の始めであって、行は知の成ったものである。」という意味合いである。

「伝習録」によると、知識と行動との関係についの様態について述べた後に陽明は、「もしも私の説く趣旨が理解できたのであれば、便宜上、知行は二つであると言っても構わない。私が説く趣旨が理解できなかったのであれば、知行はひとつである(知行合一)と言っても、何の意味もなさない。」と弟子たちを諭している。

日記

2007年05月14日 22時46分40秒 | Weblog
忙(せわ)しい日々が続いた。忙しい忙しいと言うビジネスマンほど無能なのだそうだ。私に言わせると、どうみたって「良識的なビジネスマン」そのものが文字通り「有難い」のだから、何てことはない。ひとはみんなちょぼちょぼ、たかが金儲けと開き直って、「どうしようもない奴だ」と言われるくらいくがほどよい。ビジネス戦線で少々落ちこぼれたくらいでヤケになる必要は、全くない。期待されるほど辛いことはない。所詮は世の中、良心的なビジネスでは儲からないようにできている。儲かる奴というのは、悪どいか無知なだけの話だ。こういうのを「引かれ者の小唄」とでもいうのだろうか・・・。思わず小唄を口ずさみたくなるような暗澹とした半年間であった。

連休は風邪をこじらせて休養を強いられた。いまだに肺や喉の具合が悪い。健康のありがたみをひしひしと感じる。基本的にじっとしておれない性格だから、辛かった。最近では本屋さん通いが続いている。活字に渇いているのだ。

先日ブックオフで日本思想体系のバラ売りをやっていた。一冊が500円から1000円の惨状。「中世神道論」は「近世神道論・前期国学」との関連で欲しかったので即日買い求めた。30巻ほどが並べてあった。蔵書にないものが20点ほどあった。じっくり選んでうち何冊かを求めようと、1週間を置いて行ってみると、すべて消えていた。今時、この手の書籍を買うひとがいようはずがないという観測が甘かった。思えば、このわたしだって、この手の書籍を求めるひとの内のひとりなのだ。全部売れたのかと聞くと、店員は「さあ知りません。」と無気力に答えた。一冊も残っていなかったから、全てを誰かが買ったものか、どこか別の店に並び替えられたものか判明しない。多分後者であろう。それにしても惜しいことをした。

最近、双葉図書が古本の販売に力を入れている。ブックオフと同様に一定の期間売れないと、105円本のコーナーに並べられる。このコーナーでの、ある日の買い物。藤村由加著「人麻呂の暗号」文芸春秋 矢貫隆著「『自殺』生き残りの証言」文芸春秋 土屋賢二著「棚から哲学」文芸春秋 ジークムント・フロイト著「自叙・精神分析」みすず書房 ノーム・チョムスキー著「9.11 アメリカに報復する資格はない」文芸春秋 〆て525円也である。ああ・・・。