渡辺三枝子さん
それにしても「論語」が9種、「徒然草」が7種の訳書、「大学・中庸」に国分康孝さんや渡辺三枝子さんの著作が次から次へと机上に集まってくる。本棚では「ブッダ最後の旅」「コーラン」「方法序説」「孟子」が出番をうかがっている。フッサールやラートブルク、フロイトにケルゼンたちはどこに隠れたのだろう。西洋思想大事典は段ボール箱のなかで眠り続けている。
渡辺三枝子さん
それにしても「論語」が9種、「徒然草」が7種の訳書、「大学・中庸」に国分康孝さんや渡辺三枝子さんの著作が次から次へと机上に集まってくる。本棚では「ブッダ最後の旅」「コーラン」「方法序説」「孟子」が出番をうかがっている。フッサールやラートブルク、フロイトにケルゼンたちはどこに隠れたのだろう。西洋思想大事典は段ボール箱のなかで眠り続けている。
達成感に安住してすでに一週間余りが経過した。ひとり本年度をふり返りながら書類の整理を進めている。広島湾岸の学園は春の気配だ。
『カウンセリング理論のひとつに社会構成主義がある。その社会構成主義の4つのテーゼは、①私たちが世の中や自己を理解するために用いる言葉は無限にあり、言葉が世界を構成している。②記述や説明、あらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる。③私たちは、何かを記述したり説明したり、あるいは別の方法で表現したりするとき、同時に、私たちの未来をも創造している。④自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である。』 「カウンセリングの理論と実践」(日本マンパワー)から引用。
パーソンズの職業指導理論は、まず心理測定で各個人の特性を明らかにする、次いで職業分析で各職種が必要とする特性を明らかにしたうえで、各個人が自分の特性に適した職を選ぶという図式である。心理測定➡職業分析➡職業斡旋、これが特性・因子論の原型だ。
特性・因子論の原型であろうが、現代版であろうが、そのカウンセリングの焦点は「自己の特性の理解」と理解に基づく「自己の展開法」に要約できる。この理論の現代版は、自分の適性に適した環境を自分で選んでゆくプロセスがキャリアだと説明する。国分康孝著「キャリアの理論」(誠信書房) から引用のうえ一部要約・改竄
国分康孝さん
昨夜の読書はホコリをぬぐうところから始まった。せっせせっせと机の上、本棚のホコリをふきとっていく。庭の雑草をぬいていくと雑念が消えていくように、本棚の一段一段のホコリをぬぐっていくと、みるみる心のホコリがとりはらわれていくようだ。
部屋中のホコリをふきあげたあとで部屋を見渡したら、国分康孝さんの著作が目についた。「カウンセリングの理論」「カウンセリングの技術」「カウンセリングQ&A」(1・2・3)の計5冊(いづれも誠信書房)だ。国分さんがアセスメントツールについてどのような見解を持っているのかを知りたくて目次にあたってみた。
事大主義や権威主義は 『 親の仇 』 くらいに考えている。社長がどうした、高級官僚がどうした、学者がどうした、名家がどうした、東大がどうした、癇に障ることばかりだ。問題は、権威を与えられたひとたちの人格なのではあるまいか。
食堂まで100メートルばかりを歩いて執務室に戻った。トイレまで数メートルを歩いた。足のお世話になったのはわずかこの2度だけだ。息を続け、目の筋肉を少々使い、たまに首を回しながら天井を仰いでいるうちに帰宅時間になった。体の部品を自覚的に使ったのはこれっきりだ。しかも、呼吸については自覚的に体の部品を使ったものかどうか疑わしい。
デスクワークを続けると運動不足になる。明後日からの休日が楽しみだ。
事務全般が苦手だ。数字オンリーの確定申告は最も苦手な事務のひとつだった。ここ数年は国税の方で事務が苦手なわたしのためにわざわざ 『 確定申告書等作成コーナー 』 や 『 e-Tax 』 を用意してくれている。源泉徴収票に保険料の支払証明等がそろえば、案内に従ってWeb上でピンポンパン、自宅で申告書を作成できる。
今回はそのWeb上の「確定申告等作成コーナー」で確定申告書を作成してから広島クレド11階の申告会場を訪ねた。1時間余り待たされて5分ばかりの相談で、税理士さんと担当職員さんから数字に間違いはないといわれたので、その場で申告を済ませた。
こうも利便になってくると事務が苦手だどうだの問題ではない。申告を早めに済ませておこうかという気にもなる。ここ30年間は毎年確定申告だった。うち、期限内に申告を済ませたのは、確か、一昨年の e-Tax からの3度を数えるのみだ。じゃ、それまではどうしていたのか・・・。思い出すだけで背筋が寒くなる。だから、確定申告についての話はここまで。
朝の電話で心のどこかに引っ掛かっていた懸念が霧散した。心配事がなくなって心が丸くなるのは久しぶりだ。祇園のイオンでフタバ図書に寄った。やはりそうなのだ、心が丸いと活字に興味がわきにくい。ページをめくることさえ億劫だ。20分ほど本の表題だけを眺め続けてのち退散した。
精彩さを少々欠いたマックでフライドポテトとマックシェイクを注文して、陽光下の、空と山、住宅と大学を眺めながらいただいた。たおやかな時間の経過を感じた。昨夜、パソコンの置き場をパソコンラックから机上に移動した。中近両用の眼鏡のレンズを買い替えたのでずいぶん近くで焦点が合うようになった。ようやく眼精疲労から解放されそうだ。
昨年の夏場から生徒の就職支援に明け暮れた。すべての就職希望者が内定するまで心が休まることはなかった。休養しているときでさえ頭の中を支援のための戦略が駆け巡った。そして本日、最後の女子生徒が内定した。「苦しい闘いだったね。でもよく頑張った。おめでとう。」のメールを送ったあとは、安堵感というか気がぬけたというかしばらく呆然としていた。
阿弥陀如来は前身の法蔵菩薩の際、 自らは如来として完成されているにもかかわらず 、衆生を救い切るまでは如来にならないと誓われた(阿弥陀誓願)。わたしは如来や菩薩ほど賢くはない。それでも衆生を救い『切る』までは如来にならないという境地だけはよく理解できる。しばらく充電してこころを整えてから、来年度のための支援体制に入る。
ディラン・トーマスとボブ・ディラン
ボブ・ディラン
当時、ボブ・ディランが体験していた旅らしい旅は、ケルアックの「路上」をまねたデンバーへの一人旅ぐらいでしたが、多くの人々が彼のことを十代から孤独な旅を続けている「放浪のシンガー」であると信じていました。このイメージは、どうやらディラン自身によって作り上げられたもののようです。彼は、そんなイメージづけのために自分の過去とプライベートを徹底的に隠し続けます。そして、この生き方は彼のカリスマ性をどんどん高めて行くことになるのです。そんな彼のイメージづけを象徴しているのが実は彼の名前です。ウェールズ出身の詩人、ディラン・トーマス。アルコール中毒に苦しみ、1953年に39歳という若さでこの世を去ったカリスマ詩人に憧れていたディランは、ボブ・ディランと名乗るようになったのでした。 『小樽市在住の鈴木 創(スズキ ハジメ)さんのブログから引用(一部省略)』
ディラン・トーマス
あのやさしい夜の中へおとなしく入ってはいけない
あのやさしい夜の中へおとなしく入ってはいけない 老人は生涯の日暮れに 燃え上がり狂うべきだ 死滅してゆく光に向かって 怒り狂え 怒り狂え
賢明な者はその果てに 闇こそ正しいと知れば 彼らの言葉も稲妻のような閃光を発することがなかったから 彼等は あのやさしい夜の中へおとなしく入っていこうとはしないのだ
ディラン・トーマス詩集 松浦直己訳
次週は月曜に出勤すれば火曜・水曜と夢のような連休が待っている。休養好きの身からすれば、この2日間をどのように過ごすかと想像してみるだけで胸が熱くなる。春の足音を尋ねて西中国山地か石見海浜公園かと、ぬくもりを訪ねてこころがあちらこちらにとんでゆく。
普通にひと様が働いている平日に休むことができる。これはある意味で大きな喜びだ。平日に好きな読書に耽ることができるなんてなんという贅沢なのだろう。しばらく読書から遠ざかっていた(といっても10日間くらいだが)のでなおさらだ。目を通しておきたい本も溜まっている。
いつまでたっても読書から解放されないわたしの故郷は本の世界なのだろう。いい年をして困ったものだ・・・。
「広島じゃけん」という店で定番の「お好み焼き」を食べた後で安佐南区の【ブックオフ】をのぞいた。夕食後にゆったりとした気分で古本を漁るのは久しぶりだ。
好々爺風の文化勲章受章者河合隼雄は知的でないその風貌が好きではなかった。むかしから作者の風貌で読むかどうかを決める悪い癖がある。数か月前に河合隼雄著「カウンセリングを考える」上・下(創元社)を読み始めてからというもの、風貌と著作に関わる見方・考え方が明らかに変わり始めた。河合さんの場合、その著作が風貌とは裏腹におっしゃることが実に論理的で明快なのだ。知的な面構えをした著者は知的な本を書くというイラショナル・ビリーフがようやく揺らぎ始めた。
本漁りの成果。第1冊目は河合隼雄著「コンプレックス」(岩波新書 1971年第1刷)、藤永保著「発達の心理学」(岩波新書 1982年第1刷)、藤本隆宏+東京大学21世紀COEものづくり経営研究センター著「ものづくり経営学」(光文社新書)、長山靖生著「『論語』でまともな親になる。」(光文社新書)、池田信夫著「知識社会の自由主義 ハイエク」(PHP新書)の計5冊をお買い上げ。〆て525円也。
兼好法師のように『日くらし、硯にむかいて』いるわけではない。わたしは職務上、『日くらし、クライエントに向かいて』いる。兼好法師は硯にむかいて自分の思いを書き留める。わたしの方はクライエントに寄り添う。ちなみに日くらしというのは一日中という意味だ。寄り添うといっても肩をやさしく抱きしめるなんてえ寄り添いかたじゃない。クライエントの心の動きに寄り添う、または寄り添っているということだ。
生れ落ちてからこのかた自己主張が強い方だからクライエントに寄り添うのではなくて言い聞かせたくなることが多い。先人河合隼雄さんは、『言い聞かせるのは容易な技だ。言い聞かせるつもりでクライエントに対応するのなら、辛抱しているクライエントに我慢料を払え。』と言い切っている。至言だ。わたしはまだ修業が足りないと思う。
明日の日曜の午後で肩の荷が下りる。荷を下ろしたら自然に気持ちが切り替わるので、週明けから本格的に本業に復帰することになる。人間が単純なので2足のわらじは精神に負担をかける。当初から邪念を捨てて本業のみに専念していた方がよかったのかも知れない。