旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

本棚

2008年06月29日 02時06分30秒 | Weblog
本の整理をしていると斎藤茂吉の全集が出てきた。どこで求めたのか解らない。また、確認分だけで15冊の立花隆の単行本が出てきた。「宇宙からの帰還」以外はほとんど読んでいない。いつごろ買ったのかも、やはり定かではない。100冊余りの英語の本も同様だ。たまに目を通すから蔵書していることは既知ではあるがどこで買ったものかそれがボケる。

昨日から本の整理をしている。紙は風化しやすいのでおそらくは体に悪い。ならばガラスの仕切りで風化した紙の塵を少しでも防いでみようという目論見だ。本にお金をかけない主義だから本棚にもお金はかけない。近くの「サークルワン」でデカイ本棚を2棚?買った。高さ約2メートル・横幅約1.5メートル・奥行が40㌢のものと、同じく高さが約2メートル・横幅約90㌢・奥行が50㌢のもので、いずれも頑強だ。おまけに安い。

搬入された本棚は店で見るよりさらにデカかった。ふたつの本棚に本を詰め込んでみた。段ボール約10箱とその段ボール群の3~4倍に及ぶ積み上げられたままの本の山が残ってしまった。なお収拾がつかない。目論見は大きく外れてしまった。残された余命は平均で20年。蔵書を毎日一冊読んでようやく20年間かけて完全に読破することができる量の蔵書だ。冷静に考えてみたら身震いがしてきた。

階層について

2008年06月26日 00時28分52秒 | Weblog
親に資産があって子の知能が高い。こういう家庭環境の子供たちが選択する職業といえば医師、学者に研究者、芸術家とせいぜいが名門企業の経営者あたりに相場が決まっています。彼らは一種の階層であると識別できます。もっとも経営者になろうとすればある種の試練と洗礼を受けなければなりません。

まず、そういう知的選良たちがある種の階層をつくってゆくことは避けれれそうにありません。高学(校)歴が必須条件ですから私など門前払いを食らうことになるのでしょう。私はどうも、「大酒飲みで知的好奇心が旺盛、社会人としては落ちこぼれ」という新しい階層に識別されることになりそうです。

フランスで生活した経験がある女性を知っています。階層のあり方はともかく、とんでもない差別社会で、格式があるレストランなどでは有色人種だからという理由で入店を断わられたことがあるそうです。売春婦ですら黄色はノーということがあるとも聞きます。また、ご存知かとは思います。フランスの選良といえばパリの高等師範・高等工業の卒業生たちを意味します。先の東大の上位10%に似た俊英たちの集団です。

占領軍の検閲が日本人の文化を塗り替えようとしました。しかしどうも結局のところ失敗したようです。本来的な日本文化はアメリカよりももっとヨーロッパ、特にドイツやフランスに近いと見ています。ですから、きっと日本にも、ヨーロッパの階層に類似した日本固有の階層が様々な形で出現してくるのでしょうね。

でも、「あっしには、かかわりのないことでござんす。」

アルベール・カミユにかぶれた時期があって、フランスの思想や文学の愛読書が多いのです。フランス版「法然草」ともいうべきモンテーニュの「エセー」、たまにサルトルの「分別ざかり」の英訳に目を通します。ルソーやデカルトもようやく理解できるようになりました。


ポピュリズム

2008年06月24日 00時56分03秒 | Weblog
>ハヤトさん達のように文化的教養や高学歴でもない私たちは身も蓋もないと言うことになるのですがどうでしょうか。<

私の大学入試に関していうと、目指した大学にはことごとく落ちて浪人したうえに、ようやく入った大学では留年の経験までしています。辛うじて卒業した大学も世間でいう一流校ではありません。どちらかというと「身も蓋もない」階層の人間に帰属していることをお断りしておきます。

親は名門の家の出でお金持ち、しかも高学(校)歴。本人も秀才で、これまた東大の法学部か工学部の卒業。ピアノは玄人はだしだしで文化的な素養も身につけている。こういう階層って以前からあって、日本の名家とかなんとかいう題名で幾多の出版もされています。

たとえば、死刑の執行問題で怒りをあらわにした現職の法務大臣の鳩山家とか、広島でいえば宮沢家。ちょいと傍流になるのでしょうが一橋・慶応系の石原家。政治家の世界に限らず学者の世界では湯川家。

医学の世界でもありふれています。私の知り合いには玄人はだしのピアノ演奏をやってみせるお医者さんもいます。ですから、そういう人たちが新たな階層を形作ることのどこに問題があるのかよく理解できません。


>近い将来、親が高学歴・高収入であって幼いころから豊かな文化に接してきたごく一部の子供たちは成長したあと「メンバーズオンリーの閉鎖的集団」を作るのではないかと言う事です。<

東大生に関していうと、東大生の上位1割未満は確かにどうしようもなく優秀であるが、素質からみると俗にいう2流大学の上位1割程度の学生は、少なくとも東大生の平均値を上回っているという判断をする元東大教授もいます。

果たしてその閉鎖的な集団とやらを実際に作ることができるのでしょうか。「衣食足りて礼節を知る。」とは言いますが、お金の苦労を知らない人間の集団は、オルテガが予見したような「大衆の反逆」にあって痛い目に会うのがオチじゃないのでしょうか。

世はポピュリズムすなわち衆愚(政治)というモンスターが跋扈する時代なのです。もしもおっしゃるような新しい特権階級が実在・誕生しつつあるのならば、われら衆愚がその「閉鎖的な集団」とやらを引っかき回してみるのも悪くはないですね。昔から賢人は貧乏であるというのが相場です。

文章の分析・理解能力だけの入試では真の学力を量ることはできません。ひょとしたらこれからは親の経済力も選抜のひとつの要件にになるのかもしれません。しっかり勉強していただいて世のため人のために尽くしていただこうではありませか。先日、貧乏学者は生き難い世の中になったものだと著名な大学教授が嘆いていました。

(面白い話題ですから、日記にアップしておきます。)

広島フォーク村

2008年06月21日 22時58分55秒 | Weblog
カーランスキーの「1968」にとどまらず、時代を表現した良質のノンフィクションは数あります。たとえば中公新書2005/01刊「安田講堂 1968~1969」なども、なぜ全共闘運動があそこまで高揚したのかについて、東大紛争の際に安田講堂に籠城した島泰三自身が詳細に解説しています。

「1968」は歴史の転換期であった1968年のドキュメントです。第二次世界大戦後、アメリカの民主主義やドゴールの独裁、規制の共産主義など絶対的な権威として市民の頭上に君臨してきた権威が自壊の道をたどり始めた年でもあります。

私個人は「広島フォーク村」について知りません。しかし、「安田講堂」に籠城した島泰三があれだけ説得力があるドキュメンタリーを残すことができたのは、彼が東大紛争の当事者として紛争の熱気を吸っていたからにほかなりません。

島は「安田講堂」の中で、医療制度改革や学園の民主化という純粋な動機から行動を起こした全共闘運動が権力者たち(彼らを暴力学生と報じたマスコミも含めて)に圧殺されたことによって、医療制度の改革や大学の改革が遅れたと結論付けます。

翻って、「広島フォーク村」を題材にした著書ないしは記事は、大筋でいうと「拓郎を育んだフォーク村ありき」が全てで、はっきり言って面白くもなんともない芸能記事みたいなのが多い。ざっと目を通した例の本も同様でした。

それまで既成の権威ともいえる歌謡曲に夢や希望を託してきた若者たちが、フォークソングという音楽を得た結果、キターを媒介にして自分たちの音楽を表現し始め、やがて広島の若者文化の担い手になってゆく過程を経て「広島フォーク」が結成された。私は結晶してゆく過程の方が重要なのじゃないかと考えている者です。

整理

2008年06月14日 01時32分46秒 | Weblog
定価が1円で送料が340円の中古本、大江健三郎著「揺れ動く」が届いた。まるで新本のようにきれいだ。初版で、しかも大江のサイン入りで1万円を超えるものもあったが、そういう類の本を集める趣味はない。装丁が原形をとどめていて書き込みさえなければ新本であろうが古本であろうが好奇心の赴くまま、ひたすらに買う、そして、時間が許せば読む。目がかなりきついので最近は文庫本を読むことが殆どない。ハードカバーの分厚い本を買わざるをえない。必然的に場所を食う。

職場の近くにブックオフがあるので、いい本を見つけると少々あせってつい買ってしまう。購入する本に対して読書量が追いついていないので部屋のそこいらじゅう本だらけの惨状である。本日は数年ぶりに「書斎という名の物置」で本の整理と机の移動を試みた。貧乏をしているのでスチール製の本立て6つに対して本棚は2つしかない。溢れた本が10数箱の段ボールとは別にそこいらじゅうにうず高く積まれて埃だらけである。

図書館の整理と好対照のありさまで、辞典と辞書以外はどこにどのような本が埋もれているのか殆ど見当がつかないので、本日は分類整理を断念した。各種辞書辞典だけで6段のスチール本立てはいっぱいである。たとえば英和辞典、英英辞典、和英辞典が研究社の大英和辞典をはじめとしてポケット版に至るまで大中小取り混ぜて20数冊、国語辞典に至っては全20巻の国語大辞典の縮刷版全10巻をはじめ広辞苑が新旧2冊に角川国語中辞典、成語林、日本語大辞典ほか10数冊。漢和辞典は中小5冊の蔵書である。経済学・法律学や会計学の大辞典中小辞典を合わせると20数冊という凄まじさだ。

どのように本を整理したものか思案に暮れ、本の山を見下ろしながら何度も長嘆息する。明日は系統立てて本を分類しようと思う。まず、法律学・経済学・財務諸表論や税法の社会科学系と思想・哲学・宗教・歴史の人文科学系に分ける。カミユや鈴木大拙、王陽明、三島由紀夫、林達夫、ギリシャ悲劇、ニーチェ、世界の名著、日本の名著などの全集は目下段ボールの中で冬眠している。日の目を当ててやることにした。小学館の古典文学全集や岩波の日本思想体系は装丁とその重厚感が好きなので置き場は特等席にする。

あとは、ベストセラーとなって数年後に105円で買うことにしている数々の駄本の処理法を考えなければならない。ベストセラーの蔵書数は多いが、一般に内容がたいしたことがないので売り飛ばすことも検討中だ。文庫本だけで5段のスチール本立て2杯分は裕にある。目に優しい新書本の蔵書は文庫本の点数を上回るにちがいない。整理を考えるだけで目眩がしそうだ。



雑感

2008年06月13日 01時18分36秒 | Weblog
映像や音楽で思考することはできない。ひとは文字によってのみ思考するのである。だから頭の中が文字でいっぱいというのはまずい。思考できなくなるからだ。

お金儲けに思索は不要である。だから、お金が好きなひとは素直にお金儲けに走った方が精神衛生上は良い。読書は一般にビジネスの邪魔になる。読書で暇をつぶすひとが読む本はエロ本に週刊誌、漫画と相場が決まっている。時間の無駄である

揺れ動く

2008年06月13日 01時13分12秒 | Weblog
「燃えあがる緑の木」第2部「揺れ動く」のハードカバー(といっても新品同様)はamazonなら1円で買うことができる。送料が340円。著作料も払わないでノーベル賞作家である大江健三郎の著作を読むことができる。本は安ければ安いにこしたことはない。「揺れ動く」が着くのを首を長くして待っている。

はやとの弁明

2008年06月07日 00時16分56秒 | Weblog
古本屋の開業を妄想中なのです。断じて、準備中ではありませんのでご留意ください。

つい今しがたまで大江健三郎の「燃えあがる緑の木」第一部「『救い主』が殴られるまで」という題名からすると極めて物騒なノーベル賞作家の小説を読んでいました。ハードカバーで一巻が300ページ、続編の「宙返り」上・下を加えると全5巻1500ページほどの大作です。文学好きの友人が読後感を聞きたいというので読み始めました。

原因は大江健三郎に対する評価にあります。このノーベル賞作家、ある時点を境に何を表現したいのか本人にも解らなくなっているのじゃないのか。したがって、どこかの誰かが「大江の作品ってたいしたことない。」と言いふらし始めたら意外に「裸の王さま」的な状況になるのじゃないのか、ここいらあたりをふたりで究明してみようということになって読後感を相照らしてみることにしました。わがことながらなんとも不遜な試みですね。第一部「『救い主』が殴られるまで」を読み終えました

そうそう、王陽明の思想つまり陽明学って意外に明解なんですよ。全集は漢文の読み下し文なので確かに読みにくいので、儒学について簡明に解説する「大学・中庸」をお勧めします。漢文・読み下し文・注釈・口語訳がのっています。口語訳をじっくりと読むだけで儒学の大筋が掴めます。真宗に例えれば「歎異抄」のようにコンパクトで明快です。しかもワイド版であれば活字も大きい。陽明はこの「大学・中庸」の内容をより具体的に解り易く語っています。読んでみて興味が残れば次の課題書を提示します、なんてね?

もっとも、わたし個人は別に王陽明にこだわっているわけではありません。「私の宝もの」というお題でしたので一番高価な本を紹介させていただいただけなのです。むしろ好みから言うと本人はニーチェもしくはアルベール・カミユあたりの西洋系なので、悪しからず。

島田裕巳著「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリストについて」

2008年06月05日 00時27分25秒 | Weblog
蒸し暑いので本屋で涼みながら立ち読みをしていると懐かしい名前が目にとまった。オウム事件の舌禍で日本女子大教授の座を引きずり下ろされた宗教学の島田裕巳さんそのひとだ。著者紹介によると現在は東京大学先端科学技術研究センター特任研究員と中央大学の非常勤講師を務めている。

かって中沢を助教授に据えるかどうかで東大が紛糾した。教授会が彼の就任を否決した際にはそれこそ3面記事的に解釈して、学者としての力量に盲目のまま、ただ教授会に対して憤りを覚えたものだ。若気の至りである。その事件ののち中沢は私の母校に教授として着任した。そして10数年前に中沢新一の著作を初めて2.3冊手にすることになった。

今では書斎にうず高く積まれた本の肥になって探すのも困難だ。はっきり言って面白くもなんともなかった。自らの宗教体験を無邪気に述べたてるだけで訴えるものがない。でいて、しきりにあちらさんの固有名詞や訳のわからない単語を乱発する。もしも私が東大の教授選考の担当者であったと仮定する。選考の手法についての問題を棚上げすれば、はやと教授は間違いなく中沢に不適格の判定を下したことであろう。

島田は、中沢新一がチベット仏教の体験を記した「虹の階梯」がオウムの麻原に利用されて「洗脳の書」「信徒を誘引する種本」になっていたにもかかわらず、学会やマスコミから不問に付されていることがどうしても許せないらしい。彼の出自から研究歴、チベットでの修行の実態からオウムとの関係に至るまで3面記事的手法を駆使して中沢の実態を暴きなじっている。

例えば、戒律を犯すことによって生計を成り立たせている人々がいる。こういう人々には宗教的な救済を奪われているので、逆に社会によって否定されている事項を実践することによって救済の可能性を見出そうとする考え方がある。これをタントリズムという。悪人正機説が典型だ。

この元マルキスト一家の甥っ子(中沢)が、オウムの麻原が被差別の出身であるというデマを流してそのタントリズムを強調しようとしたり、中沢が自らの出自が被差別に近いことを仄めかしていることを島田は見逃さない。中沢のオウムに係るタントリズムの解釈は、父の妹の旦那である網野善彦の歴史観を援用しようとして実は歪曲するまがいものであると明言する。

3面記事的な傍若無人ぶりには「中沢は無罪放免で、なんで自分だけが・・・」という島田の怨念がこめられている。が、文体どおり風貌どおり、羽のように軽い中沢をどこから責めてもスルリとかわされるのがおち。中沢の実態は彼の文体が物語っている。

学者世界の裏話をうんざりするほど聞かせていただきました。お疲れ様でした。島田センセに合掌。