旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

熊沢蕃山

2010年01月23日 08時13分54秒 | Weblog
陽明学の日本的展開に関心を持っている。江戸時代の陽明学に関わる著作を探していたら身近にみつけた。日本の名著「中江藤樹・熊沢蕃山」である。中江藤樹については、昨年読み始めたもののどうもしっくりこない。結局「伝習録」に「先祖がえり」してしまった。

数日前から枕読で熊沢蕃山の「集義和書」と「集義外書」を読んでいる。両書ともに今風にいうとQ&Aの形式で書かれている。しかも蕃山先生は格づけがことのほかお好きな方だ。わかりやすいコメントを加えたうえで、大胆に身分・人物の評価を下される。格づけの対象はお釈迦さまからそこいらの凡俗にまで及んでいる。だから、口語訳であることも手伝って眉間に皺をよせないでリラックスして読むことができる。

たとえばこういう学問観に共感できる。

来書
あなたは中江藤樹先生から学ばれたのに藤樹門下ではないといわれます。なにか理由がありますか。
返書(蕃山)
理由があります。私は先生の志と学問に注目しているのであって、ある時点での先生の学問を不動のものだとは考えていません。先生のある時点での学問を不動であるとする者は、後になって先生の非を認めても是とします。先生の志はそのようなところにはありません。
(日本の名著「中江藤樹・熊沢蕃山」より引用のうえ改竄)

疲労

2010年01月21日 21時43分46秒 | Weblog
仕事に疲れないための秘けつは仕事に没頭することだと思い込んでいる。たぶん無意識のうちに自分に暗示をかけているのだろう、私は仕事で疲れることが稀だ。翌朝に目覚めて前の日の疲れモドキを爽快に感じることすらある。

私のような働き者は、そつなく仕事をこなそうとする人たちから見ると迷惑な存在なのである。私だって、がむしゃらに働く同僚は迷惑だ。しかし敢えて私は仕事に没頭する、がむしゃらに働く者とは一線を画しながら・・・。
  

ヒアリング

2010年01月20日 23時59分26秒 | Weblog
任用更新の季節だ。定年年齢に達している私の場合、前職に残っていても年更新の契約社員になっていたのだから大差はない。現実を真摯に受け止めて役所の判断を待つのみだ。家族を抱えた若年や中年諸氏の場合(といっても7割がたは女性である)はそうはいかない。本来ならば、他の職業と任用更新とが競合する関係になるはずである。昨今の不況のせいで、皆さん、更新を希望する傾向が強いようだ。ほぼ全員が更新を望んでいるという噂だ。

専門職の場合、能力についてはさほど問われない。しかし市民からの風圧が高い場所だから相応の打たれ強さが必要だ。不明な点や煩わしい市民については職員さんに投げればよい。したがって職務全般はあくまで事務的だ。私のように、「与えられた環境の中でベストを尽くすのがプロだ。」と、かの片山さつきさんばりの使命感さえ持たなければ、半年も窓口に座わるだけで最低限の仕事を覚えることはできる。そして、安定した賃金と確かな労働時間が約束される。

昨日人事担当者による「ヒアリング」があった。私の場合、21年度の任用であるから3月の31日で任用は終了する。新たな任用になるかどうか(現実は再応募という手続きを踏む)については決定しだい日程を連絡するとのことだ。近いうちにヒアリングがあるとは聞いていたが、これじゃまるで一方的な通知だ。次年度の4月以降に任用されるかどうかは予算に依るという、一方通知の、しかも内容がない「ヒアリング」だった。ひとりでも多くの求職者に光明を与えるために残された2か月余りを職務に邁進することになる。


雇用問題

2010年01月17日 09時20分08秒 | Weblog
民間企業の場合、一般にマニュアルというものがあってマニュアル通りに仕事をすることが出発点になる。哲学用語でいう演繹法とは「組み立てた理論によって特殊な課題を説明する」という手法をいう。公務というものはもっとも厳格な演繹的手法によって運営されているものだと考えていた。

同じく哲学用語では「個々の具体的な事項から一般的な命題を導き出す」手法を帰納法という。私が帰属する役所では、末枝末端の例外を基本的人権の精神に照らしながら社会保障の枠内に取り込んで一般化する努力をしている。このあり様は帰納法的だ。私の考えや先入観は誤っていた。

これまで役所は、法律による厳密かつ演繹的な手法で国民を振り分けてきた。ところが国民は、政権の交代によって名実ともに国の主権が国民の側にあることを知った。国民の側が行政を振り分けていく時代が到来しているのだ。あとは、主権者である国民の側が予算の範囲内のサービスにどこまで耐えることができるのか、主権者意識と忍耐のバランス、このあたりが問題になってくるのであろう。

ようやく頭と体が正常に機能し始めたようだ。思えば末端の公務員に任用されてからというもの仕事を覚えることに懸命で余裕の微塵もなかった。

新年会

2010年01月16日 21時25分34秒 | Weblog
出勤早々の朝8時30分から13時まで、休憩1時間を挟んで午後の14時から17時まで、受け付け業務に追われた。窓口の2人で約700人の来所者の流れをさばいたことになる。受付の仕事が回ってくるとその日は立ちっぱなしだ。求職者の皆さんはそれなりに気がたっているから、わずかな対応のまずさに怒りを爆発させることがある。だから、相応のホスピタリティと丁寧かつ迅速な対応が求められる。「おはようございます」「こんにちは」「お疲れ様です」「なにか御用件は?」の挨拶や問いかけだけで1000回を超えた計算になる。もちろん案内業務もおろそかにできない。それでも月に1度か2度指名される受付業務が嫌いではない。

18時からは八丁堀で職場の新年会があった。40名ばかりが参加した。横綱格の酒豪を除くと私が関脇格の酒飲みということになっている。たまたま横綱と隣同士になった。気がついたらわずか1時間と半の間に、前頭格の後輩と3人で1升以上飲んだようだ。格にあった飲酒量だったので私が4~5合といったところか。7割がたが女性の職員なのである。にもかかわらずついぞ女性と言葉を交わすことはなかった。いつもこうなのである。腹いせに、よせばいいのにいつもの癖で2次会にお付き合いをした。群れるのが好きじゃないふたり、前頭格と私との2人連れになった。水割りを4~5杯は飲んだだろうか。1曲歌ってからママに初対面の長い挨拶をしてから後輩を少しいびって、後輩から少しいびられてスナックを出た。

広島駅まで歩いた。立ちっぱなしの受付で棒のようになった足をひきずってディーゼル車に乗ろうとしたら顔見知りに会った。旧交を温めていたら矢口駅に着き、別れ際に近いうちに飲みに行こうという話がまとまった。私と同世代かと思っていた知人が、実は一回りほど年少だったことを知った。白髪が年齢算定の邪魔をしていたのだ。

知人と別れて夜道をひとりで歩きながら、ブッダ最後の言葉である「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成なさい。」ブッダが亡くなった際にサッカ(帝釈天)が詠じた「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。」という言葉を唱えていたかどうか本人にも定かではない。気がついたら翌日の朝だった。

法事の席にて

2010年01月16日 09時47分13秒 | Weblog
A
「人生というものは思ったようにはいかないものですねえ、思ったようにいかないから人生なのでしょうか。今入っている施設の経営者には、ソロバンがあってもこころがありません。だから職員はよくやってくれているというのになにか冷たいのですね。暖かさというものがありません。」

B
「そう、みんながこころを失ってアメリカ流のお金もうけ主義にはしろうとするからこういう社会になるのです。」

A
「日本人はおたがいに助け合う文化をもっています。」

B
「そうそう、だから日本人がむかしから信仰してきた神道こそが日本の文化の中心にならないといけない。」

C
「しかし、神道には教義というものがない。農耕文化と切り離すことができない。」

A
「そうですねえ、それでも進駐軍が日本の文化を根こそぎにしてアメリカ化しようとしたさいに、神道も検閲等の対象としたことは間違いないようですね。」

A
「でも、軍隊の横暴によって満州国は建国されたことが将来に禍根を残すことになる。日本の文化を破滅させることになるであろうと公然と表明した人物が3人います。北一輝と出口王仁三郎、それに名前は忘れましたが中江兆民の子息さんで中江なにがしです。」

Aさんは今年で95歳を迎える。

冬至

2010年01月14日 21時58分27秒 | Weblog
17時20分広島発狩留賀行ディーゼル車は17時42分に下深川駅に着く。駅前からバスに乗って3つ目のバス停で下車、帰宅する。通いなれた帰路だ。つい最近までバス乗場に着くとあたりは暗らかった。

今日バス停に立って気がついた。いつの間にかバス停の時刻表が読めるようになっている。冬至から春分に向けて陽が落ちる時間が延びているのだ。早々とライトをともしたバスが滑り込む。陽が落ちる頃に地球の軸の傾きに思いを馳せる。

論語

2010年01月08日 20時56分47秒 | Weblog
通勤のディーゼル車の中で「論語」を読み始めた。乗車時間は約20分間だ。テキストは贔屓の岩波文庫ワイド版である。飾りっ気のない装丁が気に入っている。高校時代にはじめて「論語」の一部を読んだ。もっぱら著名な文節を暗記して「温故知新」だの「三省」だのとしたり顔で聖人を気取ったこともある。今にして思うと赤面の至りだ。

「三省」という言葉は孔子よりも46歳年少の門下、曾子が残した。孔子門下の俊英で、「論語」に登場する門下生の中で必ず「子」をつけてよばれるのは曾子だけだ。儒学でいう四書とは「論語」「孟子」「大学」「中庸」を指す。ワイド版「大学・中庸」のはしがきにあるように「大学」はその曾子の作、「中庸」は曾子の門人の子思の作、子思の門人が孟子であったとされる。

同じ「はしがき」にしたがうと、四書を学ぶことによって儒教の正統的な血脈がそのままに体得されると説かれ始めたのは宋学・朱子学からのちのことだ。そして、江戸時代の国教は朱子学であった。朱子学を学べば江戸時代の何かがみえてくるかも知れない。「孟子」というゴールを目指して牛歩の読書を進めることにする。

論語の第20段「先生は、怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった。」第21段「先生がいわれた、中以上の人には上のことを話してもよいが、中人以下の人には上のことは話せない。(すなわち、人を教えるには相手の能力によらねばならない。)」第24段「先生は4つのことを教えられた。読書と実践と誠実と信義である。」こういう下りは私の肌に合っている。






新年の抱負

2010年01月06日 23時26分11秒 | Weblog
昨年の春、たまたま王陽明を読んで行政官の心意気にふれた。そして現在、末端であるとはいえ行政に携わっている。陽明の時代とは社会の在り方も時代も違うことは承知している。しかも、日本の官僚制に例えると陽明はキャリアで、こっちは定年直前に転職した末端のしがない公務員だ。が、しかし、それでも行政職というこの一致が奇妙に思えてならない。

前職ではひたすら金儲けに邁進した。現在は、まるで自分の利益とは関係のない世界にいるようだ。この半年間は職を求める市民のために懸命に働いた。どこまで市民の皆さんに貢献できたのかはわからない。ただ、多くの同僚たちと同様に、いつも市民の側に立つことを信条としてきたことだけは確かだ。わたしに限っていうと、陽明思想の影響を感じざるを得ない。

新年会

2010年01月05日 20時45分51秒 | Weblog
前職の元同僚たちとの新年会に出席した。いつものように他愛のない話と聴き馴れた軽口に酒が入って盛り上がった。20年以上同じ職場にいた元仲間たちだから気が置けない。私以外の元仲間は泊まりがけだ。

いつでも会えるというのに例年、仕事始めに集まる。開催はこれで10回を越えたことだろう。元同僚で死去した人が既に2名いる。のどかな酒宴が続いた。ほろ酔い気分でホテルからJR宮島口に急いだ。雨はすっかりあがっていた。

Carl Rogers

2010年01月03日 11時24分11秒 | Weblog
Rogersの「Client-Centered Therapy」と「ON BECOMING A PERSON」を読み始めた。専門用語に当たると読書につまって速度が落ちてしまう。用語でつまったら辞書で引いて主要なtermを頭に叩き込んでおけばつまずくことがなくなる。さっそくamazonにOxfordの「A Dictionary of Psychology」を注文した。ロジャースの文章は馴染みがない専門用語を除けば平明だ。キャリア・コンサルティングの手法になお甚大な影響を及ぼしている学者である。

コンサルティングにあたっては、client(相談に訪れた人)の言動に細心の注意を払いながらひたすらclientの話を「傾聴」して、clientに備わっている自己実現への願望を本人の自覚から導く手助けをする、これがtherapistnの役割であるとする。端的にいうと「Client-Centered Therapy」がコンサルタントの要諦であるということになる。

私はこの説に懐疑的だ。個人主義の伝統がある欧米ならばともかく、事大主義と集団主義が跋扈するこの日本で果たしてこの手法が通用するものかどうか、大いに疑問を感じている。そこで斯界の大御所C・Rogersnoの著作と本格的に取り組んでみようという気になった。労働法のおさらいも始めたことだし、必要に応じては仕事関連の読書も悪くはない。これも時間的な余裕がなせる技なのだ。

恩恵

2010年01月02日 10時06分26秒 | Weblog
好きな曲をほぼラインアップした。うんざりするまで聞いてみたいような曲ばかりを厳選したつもりだった。ところがいつでも聴ける状態になると逆に、渇望感が失せてゆくようだ。悲しいことに聴かずして早くも食傷気味だ。本と同様にいつでも聴ける状態になると欲がわかない。ひとまずは蔵音しておくことにする。聴きたいときに聴けるように準備しておく、それでいいのだ。

C・Rogersという著名な心理学者がいる。その著作2冊をamazonで買った。今日には到着する。原著の英文で読むか翻訳で読むかしばし考えた。円高のおかげで原著が安い。翻訳本1冊の値段で英文原著が優に2冊は買える。先日「Moby Dick」や「The Wealth of Nations」の新本を1000円余りで買えることを知って驚いた。読書を趣味にする者には円高の恩恵が大いにあるのだ。味をしめている。さほどの迷いは生じなかった。