旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

セルバンテス

2009年10月30日 21時32分31秒 | Weblog
いつの日にか仕事を離れることができたならば「ドン・キホーテ」と「モビィ・ディック」をじっくりと読んでみたい。いずれも原語でというのだから悠長な話だ。昨夜は枕読を楽しんだ。枕元に積んである雇用に絡んだ新書が瞬く間に30冊を超えた。この種の本の内容には一定の法則がある。題名と帯を読むと大筋が見て取れる。やや食傷気味だ。

自ずと人間の叡智がこめられた書籍に向かうことになる。小説「ドン・キホーテ」はパロディの傑作だ。むさぼるように騎士道物語を読みふけった郷士の脳味噌が干からびて幻想でいっぱいになって絵空事が想像力の主座を占めてしまう。郷士の頭の中では騎士道物語の虚構がすべて事実になってしまったのである。そこからドン・キホーテの物語は始まる。

書き出しの訳注でドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャという名前の意味が明らかにされる。郷士の名前はキハーノもしくはキハーダである。そこに-oteという接尾辞をつけると「キホーテ」になる。この-oteは増大辞である。日本語流にいうとキハーノ野郎といったニュアンスである。

ラ・マンチャはスペインで最も荒涼とした地方であり、華麗で貴族的な騎士物語とは無縁な土地柄である。マンチャは汚れとか不名誉という意味を表す普通名詞でもある。したがって「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」をはやと流に訳すと「不名誉と汚辱にまみれたキハーノ御大」ということになる。

私が読書に目覚めたのは20歳を過ぎてからだ。晩生だったにもかかわらず、ドンキホーテに似た読書傾向がある。往々にして現実よりも文字化された物語の方に真実があるという錯覚をおこしやすいのだ。「ドン・キホーテ」を注意深く読みながら、はた迷惑な自分を反省することが多い。セルバンテスに感謝、である。


好きな飲み物

2009年10月25日 09時59分33秒 | Weblog
好きな飲み物は山水です。

もっとも原則無料ですから「山水」がお題の「飲み物」といえるかどうか若干の疑問が残ります。中学の2年のころ我が家に水道が引かれました。カルキ臭いのと無機質な味に閉口したものです。以前から学校や百貨店で経験済みであったにもかかわらず、殺菌消毒されているのだから仕方ないなあという味感が残っています。

それまで我が家の井戸の底で鮒が数匹泳いでいました。よくよく考えてみると鮒食用の赤い糸ミミズやプランクトンがいたから生息できたのでしょう。余り思い出したくありません。要は有機質溢れる井戸水を飲んでいたわけです。夏などそんな実態に気づかないで生の井戸水をがぶがぶ飲んでいました。

数年前から山に登ることが多くなりました。山肌を縫って流れてくる山水を見つけると無性に飲みたくなります。口に含んで味わいながら飲みます。当時のようにがぶ飲みすることはありません。我が家の井戸水に似た味感です。満足して山登りを続けます。

2009年10月24日 23時24分26秒 | Weblog
初診の日にいきなり前歯2本の神経を抜かれた。虫歯の治療のためである。1週間後には削りあげられた前歯に仮歯が装填された。その2週間後に親からもらった前歯よりもやや大ぶりな本歯が私の前歯になった。さらに2週間たった本日、10年来不自由をしていた奥歯に無事白い歯が入った。

思い起こせば芝刈りに出かけた日以外、毎週土曜日には歯を研磨された。あの金属音に身を固くしていたということだ。あと2度ばかりの通院で、ようやく不愉快な金属音から解放されそうだ。これからの治療は付録のようなものだから時間もとられないだろうし、頭蓋骨が震えるほど歯を削られるようなこともないように思う。歯科医院が自宅の目前にあったことが救いだった。治療後すぐ横になれた。

農園の管理人から嫌味を言われるほど畑が荒れかかっている。先週の日曜日に半日をかけて畑の草取りや耕作に励んだものの未だ十分ではない。日が落ちる前にブロッコリーやピーマン、ナスに肥料をやった。落花生やサトイモ、サツマイモは収穫期にある。ネギとゴボウ、ピーマンを収穫しているうちに日が落ちた。


中秋

2009年10月21日 20時54分38秒 | Weblog
○○さんゆかりの学校でやっているのはきっと委託型の公共職業訓練でしょうね。もっとも、広島県下では語学の訓練はありません。委託型は民間の専門学校に訓練を委ねます。IT、簿記会計、介護、医療事務等が訓練の主体です。こういうご時世ですから、私自身の経験でいうとこれらの訓練を受けても就職活動上さほどの効用はないように思います。

イギリスでは文部省と労働省を結合分割して教育雇用省を実際に立ち上げたことがあるようです。職業教育と雇用を結びつけるのならばともかく、一般の高等教育と職業を司るもっとも遠い位置関係にある思われた役所が部分的にではあれ、どのような経緯とどのような経過でひとつに結びつけられたのか不思議です。ネットで検索したら教育雇用省は既に姿を消して数年前に新たな省がいくつか誕生したと記されています。

自立した国民の支持を得た政治なり官僚組織が戦略的に機能しあえば可能なのでしょうね。先日、雇用問題の調査担当の職員と話をしました。彼の持論は「労働行政は補助金行政に他ならない。」というものです。生活保護や生活支援金の給付等でお茶を濁そうとしている間にも失業が飢餓を招くという考え難いような現実が社会に忍び寄っています。「政権与党よ、ちゃんと経済対策をやらんかい。失業者諸君、労働を舐めんじゃないよ。」と怒鳴りたくなるような衝動に駆られます。

長嘆息

2009年10月20日 22時31分13秒 | Weblog
どのような理由であれ職を失うと人は無気力の階段を下ってゆく。場合によっては転げ落ちてゆく。人に緊張感をもたらす組織という秩序を失うからだ。この落下を食い止めるのに地縁や血縁が有効だ。

昼休みの休憩中に長嘆息我する、ずいぶんと保守的な考え方をするようになったものだと・・・。

芝刈りと草むしり

2009年10月18日 09時14分39秒 | Weblog
昨日は山へ芝刈りに出かけた。4か月ぶりになる。青々とした山と芝生の中で無邪気に遊んだ。中学時代の同級生9人のコンペだ。憎まれ口を叩きながら和気あいあいとプレイを楽しんだ。気ままな通り雨のせいで2度、頭のてっぺんから足の先までずぶ濡れになった。体が温まっていたので雨のシャワーが心地よかった。おおむね快晴だったのでしばらくするとプレイ中に衣服は乾いた。

時間的にみると規則的な就業が続いている。おかげで十分に体調を整えてコンペに参加することができた。営業マン時代だったらなかなかこうはいかない。不調な時など往々にして重い鉛のような感情を抱えてゴルフに出かけることを強いられたものだ。

夕暮れ時にプレイを終えて、焼肉でも食いに行かないかという話になった。久しぶりに会った同窓生たちと、うまい肉を食べながら語りあうのも悪くはないと気持ちは揺れた。2週間も放置してある家庭農園の草むしりのことが気にかかっていた。自分の農園の草だけのことならどおっていうことはない。雑草の種が風にのって付近の農園に飛んでゆくことが心配なのだ。焼肉となれば酒が絡む。翌日の体調と、1時間ばかりかけて翌朝車を取りに行くのが億劫になったので焼肉の話はご遠慮することにした。

そしてこれから農園に向かう。収穫期を経過したサツマイモと里芋にナス、ピーマン、ゴボウの生育状態や、先月の中旬から下旬にかけて植えたブロッコリーやホウレンソウの発育状態が心配だ。ハクサイの種だけは何としても播いておきたい。本日はひたすら草むしりに励む。

「中庸」

2009年10月15日 21時10分35秒 | Weblog
儒学をようやく身近に感じることができるようになった。思想を身近に感じるというのも妙な話である。大きな活字の岩波文庫ワイド版のおかげで何度も何度も繰り返し読むことができる。漢文に読み下し文、口語訳に丁寧な訳注が付いているのだから読むほどに理解は深まる。「大学」では(私に無縁な)人の上に立つ者の仁徳について説いている。

通勤電車に座れたら「大学」の全編にざっと目を通す。「大学」と「中庸」は岩波文庫では一冊にまとめられている。ところが、同じく短編の「中庸」になかなか進めない。「中庸」の書き出しは「天の命ずるをこれ性と謂う。性に従うをこれ道と謂う。道を修むるをこれ教と謂う。」で始まる。この「天の命ずるを」で立ち往生している。「天命」を余すことなく理解できれば次に進めそうだ。

訳注を精読して口語訳を読み、書き下し文で腹に落とす。これが私流の儒学の学び方だ。こと儒学に関しては若かりしころ興味をもてなかったことが幸いであった。これほど教条的な思想を若い頭に叩き込み続けたらどうなるか考えるだけでぞっとする。儒学を理解するためには相応の社会経験が必須だ。儒学がある種の人間学であるからなおさらだ。

続 鈴木いづみ

2009年10月14日 23時07分43秒 | Weblog




現代評論社から「愛するあなた」という表題で出版されていたので「現代の眼」に掲載されたエセーが「愛するあなた」であったような錯覚をおこしていたようだ。気にかかったのでネット検索をかけてみた。結果「現代の眼」紙上に掲載されたのが実は「いづみのリリシズム」だったことが判明した。どうりで鈴木いづみを読み漁った当時を振り返るとリリシズムという言葉が蘇るはずだ。原因はこのエセーの題にあったようだ。

鈴木いづみコレクション⑥「愛するあなた」が手元に届いた。なんと表紙は鈴木いづみさんご自身の豊満な裸体で、その顔は食い入るようにこちらを見つめている、というよりも私をを挑発してやまない。淫乱で一途な視線は彼女の文体を彷彿とさせる。もっともいづみさん、私の方だけを見つめているのかどうかは定かでない。

先入観というものが全く欠落したひとのようだから人物評がまことにもってみずみずしい。30有余年前に私はこの感性にイカレた。また男を素っ裸の感性で語るいづみさんのお眼鏡に叶うような男になりたかった。もっともいづみさんは当代随一のサックス奏者、天才とまで賞賛されたアーチストと一緒になったからこれはかなわぬ願いであった。若かりし頃に思いを馳せながら、エセー集「愛するあなた」を読んでいる。

休日の朝

2009年10月14日 08時13分58秒 | Weblog
休日の早朝はすがすがしい。秋らしいいい気候になったものだ。仕事に慣れるために3ヶ月間を夢中で働いてきた。毎週、土曜日に歯の治療があって、土・日も十分な休養がとれなかった。思えばこの一か月と半、頭の芯に響くような歯を削る音とともに土曜が始まって歯の違和感に悩まされる日曜があっという間に過ぎた。その間、少なくとも1か月間はのどの痛みと声帯の異常に悩まされた。

しゃべることが仕事である。朝から夕方まで話し続ければ声帯を痛める。もともと体育会系であるから声帯は頑強にできていると思っていた。相手の話に応じてしゃべり方や声量を調整しなければならない。溢れる相談者に対応した金曜日の仕事が終わって同僚としこたま飲んだ翌日に歯の神経を抜いた。その際、麻酔薬や洗浄液を飲んでむせた。そして声が出にくくなった。都合一か月と半、このしわがれ声との付き合いを強いられた。

インフルが蔓延している。相談にくるひとたちや同僚たちからインフルの疑いをかけれれることも多々あった。「歯の治療でかくかくしかじか・・・。」という言い訳をしようとするとなおさら声が妙になる。先週で歯の治療が終わった。これまで本人は前歯が一種のコンプレックスになっていた。同僚たちは前歯の変化に気がつかない。「前歯が可愛くなった。」というひとが若干いる程度の反響だ。

あの苦行に思いを馳せてやや気落ちしている。個人的なコンプレックスというものは本人が思うほど他人は気にかけていないと結論付けるのは早急に過ぎるにしても、長い付き合をしている同窓生8人のうちのひとりしか変化に気がつかなかったことには少々驚いている。

4か月目にして初めての休暇である。済ませておかなければならないことが山積している。本格的な休暇を楽しむことができるのは有給休暇がとれるようになる来年の1月以降になりそうだ。それにしても秋の朝は・・・、休日の朝は心地よい。心地の良さが身にしみる。


加藤周一

2009年10月11日 23時53分58秒 | Weblog
なつかしい名前に出会った。鈴木いづみそのひとである。作家にしてポルノ女優。36歳で首をくくって果てた。廃刊になった月刊「現代の眼」に、毎月このひとの「愛するあなた」というエセーが掲載されていた。みずみずしい女性に固有の感性を感じた。だから、夢中で読んだ。私の女性観はこのひとと「婦人公論」からの影響が大きいように思う。

岩波書店から「加藤周一」の自選集が出る。若かりし頃、彼の「読書術」から大いに影響を受けた。「日本文学史序説」はわたしが文学に興味を持つきっかけになった。迷わずもとめることにした。以前ならば古本になるまで待って格安で購入したことだろう。が、今回は違う。カビではなくてインクの匂いがする新本の購入になる。活字文化を擁護するためにも質の高い出版社にはしっかり儲けてもらわなければならない。本の購入に関して心境の変化というものが起こりつつある。


2009年10月09日 22時36分00秒 | Weblog
以下が原始仏典に記され、ブッダが説いたと伝承される「教え」の骨格である。最近の朝日新聞の紙上で、漢文訳の「経」や読み下し文の「お経」の難解さに鑑み、「お経」の口語訳を進めた方がよいのではないかと提案する識者がいた。古典を原文で読むか口語訳で読むかですら議論がある。また、宗教と思想との間にある乗り越え難い壁があることも承知したうえで私はこの提案に賛同する。

ブッダならば現代に生きる凡俗に対して時代遅れの文章で語りかけることはないであろうし、ブッダの思想を理解している者ならば難解な漢文で現代の凡俗に語りかけることもないであろう。「相手に応じて法を語れ。」ともいう。果たしてわれわれはブッダの思想を理解しているのであろうか。難解な漢文経典がブッダの思想を解明することを妨げている。口語訳で広くブッダの思想を民衆に知らしめた方がよいように思う。

四つの念ずることがら
1 この身は不浄なり。
2 受は苦なり。
3 心は無常なり。
4 法は無我なりと観ずること。

四つの努力
1 すでに生じた悪を除こうと勤めること。
2 悪を生じないように勤めること。
3 善を生じるように勤めること。
4 すでに生じた善を増すように勤めること。

四つの不思議な霊力
1 すぐれた瞑想を得ようと願うこと。
2 すぐれた瞑想を得ようと努力すること。
3 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること。
4 知恵をもって思惟観察して、すぐれた瞑想をえること。

五つの勢力
1 信
2 精進
3 念
4 定
5 慧

五つの力
1 信仰
2 精進
3 憶念
4 禅定
5 智慧

七つのさとりのことがら
1 教えの中から真実なるものを選び取り、偽りのものを捨てる。
2 一心に努力すること。
3 真実の教えを実行する喜びに往すること。
4 身心をかろやかに快適にすること。
5 対象へのとらわれを捨てること。
6 心を集中して乱さないこと。
7 思いを平らかにすること。

八種よりなるすぐれた道
1 正しく四つの真理(四諦)の道理を見ること。
2 正しく4つの真理の道理をよく考えること。
3 正しいことば。
4 正しい行動をすること。
5 身と口(ことば)と意(こころ)における三種の行動を清らかにして、
  正しい理法に従って生活すること。
6 正しく道に勤め励むこと。
7 正しい道をこころにおもいつづけて、邪念のないこと。
8 正しく精神統一をして迷いのない清らかなさとりの境地に入ること。

   岩波文庫 「ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)」中村元訳~訳注より



四苦八苦

四苦とは、生・老・病・死の4つである。これに、
愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとっく)
最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)
を加えて四苦八苦という。


四諦(したい)

集諦 [編集]
集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。

この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。

苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。

さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も「愛欲」も、苦の根本原因であり苦集諦である。

滅諦 [編集]
滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。

具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。

道諦[編集]
道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。


参考

【涅槃経における四諦
大乗の『大般涅槃経』の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。

苦聖諦
この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
集聖諦
苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
滅聖諦
苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地であるが、如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
道聖諦
仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別無く一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。】


    ウィキペディアより


 



研修

2009年10月09日 22時03分06秒 | Weblog
ある支援金の手続きに関わる研修があった。必要な書類は15枚ほどだ。300枚ほどのマニュアル集には驚く。厚さは30センチに近い。一定の要件を備えた市民に給付金を支払らおうとするとこういう事態になる。たとえば所得の確認という作業ひとつをとってみても、明確な規定と応答集が必要になる。

このマニュアルがないとどうなるか、職員の恣意によって給付金の支給が行われることになる。あるひとが支給を受けることができるのに、なぜ同じ属性のあの人が受けることができないのかという矛盾が生じる。

同じ属性ならば、同じ給付を受けることができるようにするのが行政である。すべてはマニュアル化されることが避けられない。職員の行政処分に裁量権はない。したがって莫大な量のマニュアルが必要になる。口頭であろうが文書であろうが、職員は、あらゆる質疑にすべて言葉で答えなけれはならない。

3か月

2009年10月06日 23時02分28秒 | Weblog
早くも3カ月が経過した。ようやく仕事に慣れてきた。長く民間の企業にいたから最初は戸惑った。しかし、残業がない。勤務時間外に顧客に呼びつけられることもない。ひとが相手であるにもかかわらず、究極のところは「やっつけ仕事」だからひとりひとりの相談を終えるとその日の仕事は終る。後を引かない。夕方の5時過ぎには役所を出て確実に自分の世界に戻ることができる。ありがたい職場だ。

市民相手の仕事である。疲れは残る。特に昨年来の雇用環境の悪化によってハローワークには大勢の失業者が押しかけている。勤務時間の方はともかく、悪い癖でつい質を追ってしまうから疲労は並大抵ではない。慣れるために懸命に仕事をやってきたから尚更だ。4か月目からは早く仕事に慣れるためにスピードを上げて来た職務遂行のピードを少し緩める。確かさとか手堅さを旨として仕事に励もうと思う。

悪い癖で仕事関連の書籍をつい買い込んでしまう。新書15冊余りを流し読みした。当たり前のことであるが実用書というものは胸を打たない。長く映画を見ていない。いい映画を見てみたい。よい文章に渇きを覚える。三島やカミユを読んでみよう。「歎異抄」の口語訳を一気に読んだ。「ブッダ最後の旅」のブッダの言葉と同様に本人が望んでいないのに、開祖というものは往々にして後世で神格化されてしまうようだ。親鸞然りである。