旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

職業訓練

2011年11月30日 21時58分46秒 | Weblog
暇に任せて今日も行政について考え込む。

雇用保険を受け取ることができない求職者や雇用保険に加入できない求職者に職業訓練を受ける機会を与えて、就職活動を支援する。これが求職者支援制度の骨子だ。雇用保険に加入することも受け取ることもできない求職者とは非正規の労働者の多くを指す。

非正規の労働者には2種類ある。別にあくせく働かなくても生計が維持できる求職者、たとえば家庭の主婦などが典型だ。また、単身者の非正規労働者なども含まれる。ところが一方で、働かないと食っていけない求職者がいる。

湯浅誠の表現を借りると「溜めのない」求職者たちだ。こういう求職者たちに訓練期間中は月10万円の給付をして、「溜めのない状態」からさらに滑り落ちないように踏み止まらせて、職業訓練を受けることができるようにして就職活動に結びつけるための制度、これが求職者支援訓練ではないかと考えてきた。もちろんこの種の求職者には生活保護を受けている求職者の皆さんも含まれる。

ところが、どうみてもこの求職者支援制度はうまく機能していない。

その節は、

2011年11月29日 21時28分24秒 | Weblog
野菜は、生育に必要な環境を与えてやればすくすくと育ちます。人間関係のような煩わしさがありません。製造業の現場に近いのでしょうね。

近くの農家が7~8個入りの朝もぎイチジクを200円でわけてくれます。これはありがたい。このあたりに住んで25年になろうかというのに、つい最近になってこの農家が無人店舗(といっても2~3坪の掘立小屋)に、とれたての野菜や果物を置いていることにようやく気がつきました。

末端の公務員の職を得て2年と半年が過ぎようとしています。当時の悶々とした求職活動の中で「就職活動の成否は、巡り合わせによる。」という助言に救われました。職場でも、この言葉を利用させていただいています。その節はありがとうございました。

団藤重光

2011年11月28日 18時35分32秒 | Weblog
単なる情報や知識ではない。私が生きてゆくための糧になるような種類の本しか手元に置かない。昨日は久しぶりにブックオフに寄った。知り合いの古本屋の経営者はかって「いい本が売れるとは限らない。お客さんに買ってもらえる本を置かないことには商売にならない。わたしはエロ本や漫画が好きではない。でも、商売のために売る。ここをわきまえないと古本屋は成り立たない。」と語った。それから10有余が経った。哀しくなるほどブックオフには古典がない。全集がない。学術書がない。専門書がない。いい本がない。ブックオフでは新書を買うことにしている。

三島由紀夫を魅了した刑事訴訟法の大家、団藤重光へのインタビュー「反骨のコツ」(朝日新書)のなかで、95歳の御大は愛情表現だとことわったうえで、父親、梓の期待と梓との対立の狭間で最後まで苦悩していた教え子、三島は「バカなやつ、かわいそうなやつ。」だと語っている。そして「仮面の告白」は、御大の刑事訴訟法理論を彼なりに文学的に表現したもので、そこから三島は形式美の世界にいってしまった。三島が、実体法である刑法理論の勉強をして政治や社会の問題にも本格的に取り組んでいたら、ああいう最後にはならなかったと結ぶ。

団藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - )は、日本の法学者。岡山県出身。正しくは「團藤重光」。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章。



散策

2011年11月28日 10時09分43秒 | Weblog
朝方は忠犬ゴンタと散策した。緑が濃い鎮守の森、真亀神社を通って高瀬堰にでる。彼方には南原峡のダムを望む。快晴だ。黄と赤に彩られた山々を見渡す高瀬堰から、芸備線と三條川との間を縫うように走る原生林のトンネルに入る。左手は険しい崖だ。陽が昇った後も薄暗く川面を見下ろすと陽光が煌めいて静寂だ。

この静寂を切り裂くように小型車やバイク、自転車が通り過ぎる。そのたびにゴンタを引き寄せて道路脇にへばり付かねばならない。高瀬堰の土手から続く原生林のトンネルまでの約1キロを自然遊歩道にすれば良いと思う。道を遊歩道にするという計画が持ちあがっては消えている。この恵まれた自然の道端にはごみが散乱している。

自宅から原生林のトンネルを抜けるまでが約3キロ、通り抜けると間もなく菜園だ。ネギと季節はずれのピーマンを収穫した。菜園から1キロの坂道をのぼればわが家に着く。散策は終わった。のんびりと歩いたので愛犬ゴンタも満足したようだ。4回の脱糞と数えきれない放尿とマーキングをした。ゴンタは小屋に戻り、私の下着には汗がにじんで心地よい風が吹き抜けた。

仕事と日

2011年11月26日 22時45分06秒 | Weblog

貧しい境遇というものはいくらでもたやすく手に入る。そこに通ずる道は平らかであり身近にある。

神々は豊かな境遇の前に汗をお据えなされた。そこに達する道は遠くて急な坂で、始めは特に凹凸が甚だしい。しかし、頂上に到れば後は歩きやすくなる。

始めは歩きにくい道なのだ。だから、行く先々また結末に到るまで最善になることを思い、万事を自ら思量できる者こそが豊かな境遇を得ることになるのだ。

ヘーシオドス「仕事と日」岩波文庫から引用のうえ改竄


あんそくにち

2011年11月26日 22時32分19秒 | Weblog
安息日とは、「仕事を休み、礼拝を行う聖なる日。ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜日の日没まで。神が6日間の創造の業を完了し、7日目に休息したこと(旧約聖書「創世記」)による。キリスト教では、イエスの復活した日曜日。あんそくび。あんそくじつ。」なのだそうだ。

安息日

2011年11月26日 21時26分56秒 | Weblog
菜園に着く頃に日が昇った。気にかかっていた。「勤労感謝の日」以来、菜園は3日ぶりになる。先々週だったか、15センチにみたない針のような赤玉ネギの苗を50ほど植えた。根がついたようだ。勢いよく生育している。私以外の皆さんは割り箸ほどに生育した市販の苗を植えている。

私は原則、野菜を種から育てる。赤玉ネギの場合も例外ではない。たとえばキャベツやレタスの苗をひと苗50円出して買うようなまねはしない。

春菊、ホウレン草、ネギが食べごろだ。大根、人参もすくすくと育っている。今日はエンドウを植えた。来春の収獲が楽しみだ。白菜は手のひらくらいの大きさに生育していた。発芽が悪いので苗の並びがいびつだった。白菜の一部植え替えを行った。3列に整然と並べることができた。白菜の植え替えができることについては先週に実験を済ませている。移植後は水をぶっかけておいた。

水遣りはジョウロで女々しくやるよりもバケツでぶっかけた方が野菜の生育育のために良い。ただし、種を蒔いて1週間を経過したらという条件が付く。

菜園にでかける前に、近くの農家の無人販売所で旬を過ぎたイチジクを17、8個買っている。よい天気が続いたお陰で甘くとろけそうな干し柿ができあがっている。イチジクと干し柿に、ぶどう酒を加えてスウィーツをつくる。煮るか、ミキサーを使うか、つぶすかゼラチンをいれるか、フランス料理のパティシエ気分だ。

祝日前夜

2011年11月23日 08時00分43秒 | Weblog
身体と心を自然に放って疲れた個所があれば癒す、過剰な個所があれば冷やす、錆ついていれば息を吹きかける。勤労感謝の日にゆっくりと休養できるだろうと、昨日・一昨日と職務要領を繰り返し読み返した。二日間で正味8時間の精読を経た。昨夜は疲れが噴き出して心身が熱っぽかった。

脳は疲れない。脳は疲れないが目と身体は疲れる。広島バスセンター内の居酒屋で日本酒1合で少し遅い晩食を済ませた。

それから、久しぶりに「紀伊国屋」に寄った。思想・哲学コーナーには馴染みの固有名詞が並んでいる。岩波の文庫本コーナーはアカデミックな香りがする。過剰な出版の時代の中で、新書(新書サイズの本)は時代を映す鏡だと位置づけている。時代とともに歩むためにタイトルから興味が湧いた本を手に取ってみた。就職活動すなわち就活のタイトルや副題が目にとまる。おのおの数ページを読んで元の位置に戻した。

心身の疲れには甘いものが良い。眠る前に柿と餡餅をひとつ喰った。頭痛と倦怠感、熱っぽさは吹っ飛んで爽快な朝を迎えることができた。

バベルの塔

2011年11月21日 20時50分45秒 | Weblog
久しぶりに聖書を読んだ。

「神が言った。今や彼らが行おうとすることで、そのなしえないものはないではないか。さあわたしたちは下って行って、あそこで彼らの言語を混乱させ、彼らが互いの言語を聞き分けられないようにしよう。」旧約聖書、バベルの塔の一節。

祇園のイオンにて

2011年11月19日 21時36分18秒 | Weblog
イオン祇園店の広大な売り場の一角で古本の叩き売りをやっていた。ハードカバーが一律315円、ハードカバーでない本が一律210円、新書が一律105円、文庫は目の都合でパス、といった塩梅だ。叩き売りといってもバナナの叩き売りのように、威勢のいい兄さんが口上と駆け引きで本を売っているわけではない。定価や、著作の質に関わりなく古本が一律の値段で売られているから叩き売りなのだ。ひらたく言えばバーゲンセールというやつだ。主催はフタバ図書という新本の大手書店だ。古本の販売会場の上の階、2階にはフタバ図書の大口店舗があって多くの新本と少々の古本を並べている。

ロクでもない本しかないとまでは言わないが、しかし、こういう種類の会場に好い本があったためしがない。それでも、厳選に厳選を重ねてようやく4冊の本を買い込んだ。タイトルに釣られて清水義範著「ドン・キホーテの末裔」筑摩書房、少々貧乏たらしいがリチャード・テンプラー著「英国式節約術」、ギリシャの思想とヘブライの信仰というキャッチフレーズに惹かれて岩田靖夫著「ヨーロッパ思想入門」岩波ジュニア文庫、事業経営の難しさをおさらいするために「双日」の初代CEO西村英俊著「会社は毎日つぶれている」日経プレミアシリーズの4冊〆て735円也。定価だと4830円する。いづれも2007年から2010年の発行だから限りなく新本に近い。・・・本の価格についてしばし考えた。

小沢一郎の「ぼく」

2011年11月19日 10時56分58秒 | Weblog
江戸時代から明治・大正を経て昭和20年まで

 江戸時代の日本は目上の人に対する忠、親に対する孝など中国から輸入した儒学(儒教)を政治や家族制度の指導原理としていました。アメリカの占領政策によって民主化が進められたので、儒教に代わって民主主義が日本の政治や教育、家族の指導原理になりました。

その結果、長幼の序とか、忠孝とか、目上の人に対する礼儀とか、男尊女卑といった価値観は薄れつつあります。日本はアメリカのような個人の本質的な平等を原則とした国に生まれ変わりました。従って特に戦後世代では目上、目下といった価値観が薄れています。

政治家の一人称(話しかける者の側を指す表現)

 日本では国の主権者は日本国民です。政治家と国民ひとりひとりは上下関係ではありません。政治家の小沢一郎さんは自分のことをぼく(僕)と言います。「ぼく」はしもべ(僕)という意味です。年長者や目上の人に使ってきた旧い言葉です。主権者である国民に少し謙った表現ですから、表現としては妥当です。

国会議員の小沢さんが旧い時代に自分が目上であることを示した表現である「わし」という言葉を国民の前で使えば、自分の方が国民よりも目上であるということになります。上下関係がないのですからこれは誤った表現です。

対等な関係の場合は相手が誰であろうが自分を指して「わたし」というのが基本です。ですから、小沢さんに限らず日本の政治家は、国民の前では自分のことを「わたくし(私)」または「わたし(私)」、例外的に「ぼく(僕)」と言います。国会議員でも、国民ひとりひとりと対等な関係にありますから、公式の場で国民に対して「わしは、」とか「おれは、」と言うことはありません。

小沢一郎さんと同じ岩手県出身の人に、小沢さんは国民の前では自分のことを「ぼく」とか「わたくし」と言うが、親しいひとの前では何と言うと思うかと聞いてみました。「おら」か「おれ(おり)」のどちらかじゃないのかという回答でした。

某政治家の謝辞

 私が卒業した大学の先輩で、小沢さんには及びませんが外務大臣や法務大臣を務め次期の総理大臣有力候補だといわれたことがある大物政治家がいます。

数年前の話です。その政治家は来賓でした。私の短い講演の後で、後輩であるわたしに対して「的場さん、母校やわたし(私)のために、すばらしい話をありがとうございました。」と握手を求めてきました。対等な対応とはこういう関係を言います。

国会議員といえども現在の日本では、「的場君、わしはおまえ(お前)から良い話を聞いた。」とは言いません。姓を呼び捨てにする。初対面の人を「君呼ばわり」をする。または、親しくないのに自分のことを「わし」と言い、相手を「お前と」呼ぶのは礼儀を欠いた対応だということになります。


~1歳年長の中国人に  
     



悪夢

2011年11月17日 19時44分59秒 | Weblog
「診断室」血圧で下90、上140以上を高血圧という。ところが、今日の健康診断では下が140を上回った。上は200を優に越えた。近くのスーパーに置いてあるのと似たような血圧計だったので嫌な予感がしていた。若くてきれいな医師が言い切った。「いつ血管が破れてもおかしくない数値です。放置すれば血管がポロボロになって1年以内にどこかが破れる可能性が高いといえます。」

美貌に見とれながら「でもね先生、わたしの血管は強靭だから、血圧が少々高くてももつという推論は成り立ちませんか?」と反論したら、「2週間後に診断結果がでます。同じ質問を主治医の先生にしてみてください。あがってきたデータでは、ほかに悪いところはないようですから・・・。はい、次の方。」

施設をでた瞬間に胸のあたりがむかついた。一瞬、激しい動悸に襲われるのではないかという不安に駆られた。しかし、思い起こせば、バリュウムを飲まされたうえに板の上で踊らされたから30分も経過していない。人間、空腹だとロクなことを考えないし、必要以上に弱気になる。むかついた原因は心筋梗塞の発作ではなかった。

10時をまわったというのに起床時から何も食べていなかった。水すら口にしていない。手始めに、広島バスセンターで380円のうどん定食を喰った。紙屋町から広島駅にでて、地下街で照り焼きバーガーセットを食べた。11時には役所に戻って、12時からの昼食に、サンドウィッチを1人前喰った。しばらくして、昼休憩が終了する頃、旺盛な食欲が高血圧の原因のひとつだということに気がついた。嗚呼。


健康診断

2011年11月17日 03時58分30秒 | Weblog
昨夜の9時から何も口にしていない。今朝は水分さえ摂れない。絶食を強いられる。辛い。今日は朝の8時半からの受付だ。7時半には家を出る。そして、ほぼ1年ぶりの健康診断に挑む。

スプーン一杯と半の砂糖を入れて、日に3杯はコーヒーを飲む。チョコレートをはじめ総じて甘いものが好きだからカロリー過多であろうことは自覚している。通勤で毎日2キロ以上歩いて2年が経過した。週に一度、菜園で身体を動かす以外それらしい運動をしていない。気にかかるのはこのあたりだ。

それでも、深酒はしなくなったし、パソコンに向かうのは原則、日に2時間以内と決めている。判でついたように規則正しく、また、摂生が効いた生活をおくっているので、甘いものの過剰摂取と運動不足以外に身体に悪いことはしていない・・・、ように思う。

昨年の健康診断で前々回の測定と比べて身長が3㎝縮んだ原因は、トレーナーから身体が「く」の字になっていたからだと判定された。「く」の字症状はかなり改善されたように思う。今回の測定が楽しみだ。なぜそこまで身長を気にするのか訝しがるひとが多い。なぜ気にかかるのか、その原因は私だけが知っている。

最大で唯一の懸念は血圧だ。ここのところ、下115に上170と高めの状態が続いている。自助努力にもかかわらず血圧は下がらない。絶えず刺激を求めてやまないという困った性格をコントロールできない。だから、日常的に「交感神経が興奮して心臓の収縮を強めている。」、過去の不摂生による動脈硬化が高血圧を後押しする。

過去の不摂生は取り返しがつかない。治療できる可能性があるのは、好奇心の塊のような私の脳または心の働きや性向の方だ。見捨てられないうちに検査結果を携えて敬愛する主治医の先生に相談してみることにした。


仕事

2011年11月15日 19時41分07秒 | Weblog
公務が身につきはじめる一方で30有余年かけて培った民間技能が失われてゆく。公務の場合は職務の範囲が明確だから、時の経過とともに専門性が高まる。経験がものをいう世界だから、居心地もよくなってゆく。もともと3度の飯よりも活字が好きだ。法律から要領に至る膨大な文書を読んで飽きることがない。民間から公務員の世界に転職した当初は、環境の激変にめまいがした。歯を食いしばっているうちに身体と心が慣れ、最近では、あれほど惚れ込んでいた前職の企業文化が疎ましい。「保険を売る哲学者」転じて「期間業務職員」に化けて2年余り、人間は環境の産物だということを身をもって知った。