旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

2010年11月29日 23時44分36秒 | Weblog
秋は都会の雑踏よりも山や公園がいい。もみじの紅葉に銀杏の黄葉、褐色に色づいたクヌギの中をぶらりぶらりと歩き、刈り上げられた芝生のうえを這いまわっているうちに3日間の連休は終わった。最終日にはシャンソンのコンサートというおみやげまでいただいた。

これでことしのゴルフは打ち止めだ。読書の日々に戻る。残された人生は短く読みたい本ばかり堆(うずたか)い。読書を義務にするつもりは毛頭もない。ただ、密度の高い読書は続けたいと思う。

今年の冬は銀世界で2、3日過ごしてみたい。民宿か日本旅館ならなおいい。ここ数年間、この夢を見続けている。今年も夢の続きにならねばよいが。

緑化公園

2010年11月29日 20時13分18秒 | Weblog
広島市の郊外に「緑化公園」という県営の自然公園がある。山の裾野に広がる飾り気のない公園だ。これまで何度となく入園した。たまたま公園の上の方から下るコースをみつけたので紅葉狩りをしゃれこんだ。 

公園の上の方にレストランというよりも休憩所、レストハウスと呼ぶのがふさわしいような食堂がある。30人も入れば満杯だ。久しぶりの緑化公園だから、そばとおにぎりを食べによった。ちょうど昼時だった。

なかにはギターをつま弾きながら歌う初老の男の人がいた。たまたまシャンソンを歌い始めた。「愛の讃歌」だ。そばをすすりながら耳を傾けた。声量のある少しかすれた声だ。小田和正的な声質をしている。聞き終えたら涙がこみあげてきた。

いちど堰が切れたら涙もろい。「枯葉」「パダム・パダム」「ろくでなし」「パリ・カナイユ」と独演が続いた。ギターの音色に合う声をした初老の男の人がだれか知らない。本人も自分を売り込む気がないことは読んで取れる。男の声が褐色の公園を潤い色に染めた。

再任用

2010年11月25日 05時21分37秒 | Weblog
今日一日を務めあげれば3日間の連休だ。明日の午前中は蔵書の整理を済ませてから午後は街に出かける。明後日の土曜は中学時代の同窓たちとゴルフを楽しむ。そして日曜日は休養する。

ひとさまのお役に立つ仕事をやりながら少なめの報酬を得る。きっちりと定められた労働時間と軽い拘束が心地よい。筋肉痛に悩まされなければ日曜日は美術館か映画に出かけるという選択肢もある。

もう1年ほどこの仕事を続けたいように思う。再任用か否か、あと数カ月で決まる。

イエスの国からのクリスマスプレゼント

2010年11月23日 07時48分27秒 | Weblog
サンタさまからクリスマスプレゼントとしていただけるのならば、アダチ版画研究所の「富嶽三十六景」(北斎)を所望したく思います。全46葉で日本円で60万ちょいします。天命に誓って、いやいやイエスさまに誓って研究所の回し者ではありません。わたしは原始仏典を愛読し、たまにコーランを読む、どちらかというと仏教徒ですが、この夢が叶うのならばイブだけでもクリスチャンになっていいくらいの覚悟があります。

富嶽三十六景 北斎 

2010年11月22日 20時28分25秒 | Weblog
赤富士   



三越の画廊でアダチ版画研究所「北斎 富嶽36景」の展示即売会をやっているという情報を得た。北斎と聞かされただけで心が騒いだ。わたしは身内・友人には知られた北斎クレージーなのだ。山奥から繁華街まで車を駆けて三越の会場まで出かけた。

正直それほど期待していなかった。ところがである、わたしは釘づけになった。固唾を飲んだ。魅せられてひとことの言葉もなかった。担当者が心配して大丈夫ですかと声をかけてきたほどだ。藍の碧さ、森の萌黄色、その透明感と底抜けの明るさに目が覚める思いがした。恐れ入った。

ゴルフ

2010年11月21日 22時12分08秒 | Weblog
昨日は久しぶりに前職の元同僚とのゴルフに興じた。自分でカートを引きながらの素朴なプレイだった。健康のためにも良い。後半では、前半ハーフのスコアーから20ほどスコアーが落ちた。通勤途上の日々の徒歩がものをいったようだ。持久力が勝って疲労感がない。デスクワークに明け暮れているにもかかわらず心配した基礎体力の低下から免れている。

来週の土曜日には中学の同窓生たちとのコンペがある。昨日は、ボールがヘッドの真っ芯に当たる爽快感を10数度味わった。身体と脳の連携を妨げるような気がかりがないので、今回も、イメージトレーニングに励む余裕がある。

今日、爽快な疲労感に肩を押されて久しぶりに血圧を計った。105の155だから主治医の先生にいわせるととんでもない数値であろうが、患者の身からすると許容範囲だ。日々の摂生と禁欲の成果ががようやく数値に現れつつあるとこみあげるものがあった。節制と放縦、禁欲と本能、これをうまくコントロールできれば血圧は下がると思う。それでもなお本態性の高血圧の場合、血圧が高止まりする原因がわからないから本態性だというところが厄介だ。心に余裕がある。魔物との戦いに正面から向かい合うことができそうだ。

八幡高原

2010年11月15日 20時07分42秒 | Weblog
霧ヵ谷湿原から臥竜山麓まで走り抜けた。晩秋の八幡高原の大気は澄んでいた。かなたで舞い散る落葉が傾いた陽に輝いて蝶の群れのようだ。標高1200mの臥竜山頂付近のブナ林は冬支度を急ぎ、恐羅漢では、燃えるような紅葉、黄葉、茶褐色のナラ林を眺めた。八幡高原、恐羅漢の秋は深い。

文芸春秋

2010年11月12日 19時59分05秒 | Weblog
野ぶどうの実はあくまで青く、葉は黄に色づき始めた。ヤマボウシは玄関で褐色にたたずんでいる。淡い赤紫のオーシャンブルーは小ぶりの花をひとつ残すだけだ。赤い実がこぼれおちそうなザクロを収穫してみた。庭の柿は名も知らない鳥にくれてやった。たおやかな時間が流れて行く。

久しぶりに休暇を取った。気にかかっていた税務署と市役所で所要を済ませることができたのでほっとしている。帰りに月刊「文芸春秋」を買った。

特別企画が「安保と青春」で「されどわれらが1960」という副題だ。私よりひと回り年長の世代が当時をふり返りって十人十色の青春を語っている。全編、少々退屈だった。こちらは高い本代を支払い執筆者たちは高い原稿料を、社員たちは高い給料を受け取っているのだろうから、安保50年後の青春について披歴していただくくらいの斬新さを発揮していただけないものだろうか。企画があまりに陳腐だ。

などとホザきながらも購読ウン十年だ。


紺屋の白袴

2010年11月11日 22時13分29秒 | Weblog
「紺屋の白袴」とは、他人のためにのみ忙しく自分のことに手が回らないことの喩えをいう。また、いつでもできることなのに放置しておくことの喩えでもある。医者の不養生に近い諺だ。ことわざ集を読んでいて、たまたまこの「ことわざ」に当たった。

読み方はもちろん、文字通り「こんやのしろばかま」だと思いながら「ふりがな」を読んむと、そのテキストでは「『こうや』のしろばかま」になっている。注意深く読み返してみても「『コウヤ』ノシロバカマ」だ。誤植とか表現の誤りをみつけるのが好きという困った性分の持ち主なので、ふりがなの誤りとして片づけて出版社に抗議しようとしていた。

しかし、今になって思えば虫の知らせか、どうにもしっくりこない。「こうや」という表現を、そのむかし、どこかで聞いたような気がするし読んだような気がする。この誤りとおぼしきふりがなについて再確認しておいた方がいいように思って日本国語大辞典全20巻に当たってみた。

紺屋「こうや、こんや」は同義とある。岩波国語辞典にいたっては「紺屋の白袴」は「こうやのしろばかま」であって、「こんや」の語にはこの諺の項目すらない。国語大辞典によれば「こうやのしろばかま」「こんやのしろばかま」ともに「あり」だ。「こうや」の発音が「コーヤ」であることまで記されている。

「でどころや、生まれ」のことを出自という。かって、この出自をなぜか出目と読み、会話でも文章でも数年間に渡って「しゅつもく」と表現してはばかることがなかった。幸いその際には、出自という表現自体が日常で使用する頻度が低く、出目と言ってもこの誤りに気がついた人は殆どいないと思う。「しゅつもく?」と問いなおすひともいなかった。恥をかく前にみずから辞書で誤りを確認できたと憶測している。「不幸中の幸い」だった。

該当者を「かくとうしゃ」と読むひとが多い。これは誤りだ。施工と施行は「せこう」に「しこう」と教わったが、いづれも「せこう」と読んでも誤りではないようだ。正しい日本語云々などと言うつもりはない。せわしい世の中だからなおさら、記憶が怪しい漢字に出会ったらまず辞書に当たってみるくらいの余裕は持ち続けたい。言葉は生モノなのだから通じればそれでいいとわきまえている。正しい日本語がどうのこうのというつもりは毛頭もない。私の場合は、表現の物差しとして辞書・辞典が役に立っている、ただそれだけのことだ。

日曜日の午後

2010年11月09日 21時18分34秒 | Weblog
机の上にあったパソコンをパソコンデスクに移動した。床に積みあげていた本を思いっきり書棚に詰め込んだ。それだけで書斎が広くなった。

ひろしま美術館で「印刷の歴史展」をみた帰りにBrian MacArthur著「Speeches」と川島勝著「三島由紀夫」を買った。後者は2時間ほどかけて一気に読み終えた。著者の川島は編集者で、三島の文学とか思想にふれないで三島の生い立ちや家族との交流、著者の三島観から三島由紀夫というよりも平岡公威の個性を描き出している。

Speechesは文字通り演説集だ。ジョン・F・ケネディの「アメリカ人諸君よ。国が諸君に対して何ができるかを問うことなかれ。諸君が国のために何ができるかを問いたまえ。」とかマルチン・ルーサー・キングが「I have a dream.」と熱く語る演説等を含め、欧米の著名な演説をほぼ網羅している。トロッキーやヒトラーの演説が入っているのには少々驚いた。



ジョブカード そのⅢ

2010年11月01日 18時46分30秒 | Weblog
職探しを始めると採用試験について考えざるをえなくなる。そこで、自分を売り込む面接の作法とか、担当者に訴える職務経歴書の書き方とか、相手に好感を与える服装についてとか、饒舌なコンサルタントの登場となる。彼らが説くのは厚化粧のやり方についてである。そんなもの、私に言わせると「悪魔の囁き」に過ぎない。
           
まず履歴書・職務経歴書についていうと、自分が思った通りに書けばよい。「文は人なり」なのである。飾りっ気なしに仕事に対する自分の考え方を明らかにすればよい。面接についても、同様に普段着の自分を表現すればよい。目が利き、鼻が利く担当者ならば応募者を見抜く。人事担当者が厚化粧を見抜けないようであればその企業も長くはない。

確かにこのご時世では選ばれることは難しい。しかし、本人の適性から程遠い職種や会社に入るとひどい目にあう。留意すべきは職種や会社との相性だ。