旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

人体実験

2009年01月27日 23時27分33秒 | Weblog
凄まじいという言葉は嫌いではない。ところが、凄まじい高血圧に見舞われているとなると好きだとか嫌いだとか言ってはおれない。明らかに体は変調をきたしている。高血圧が原因であろう、わたしの血圧計では測定不能とでた。どうにか測定ができたかと思うと下が125に上が188である。とんでもない数値に怖れおののいてしまう。

主治医の先生のところでも奇妙な現象が起きた。一回目は下が135に上が155、これじゃ生きているのが不思議だということになった。3度目か4度目の測定でようやく120に170あたりの値になる。かろうじて生身の人間に戻ることができた。人体実験をしているようなものだと、先生は最近わたしに対して冷たい。おそらくは見放されたのであろう。どこかの循環器科で詳しく診てもらわないと大事に至るかも知れないとそっけない。あきらめ顔だ。

溺れる者は藁をも掴むという。わたしの場合、こころが溺れそうになったら本を掴む。さっそくわたしは松井孝嘉著「慢性疲労は首で治せる」を掴んだ。新本屋なのか古本屋なのか紛らわしい新幹線口のフタバ図書でみつけ新書だ。その問診表に「頸性神経症症候群」の症状が掲載してある。わたしは中症の「頸性神経症症候群」の患者であることが判明した。

問診のひとつに血圧が不安定であるかどうかという項目がある。まさしくわたしの症状だ。日に4~5時間はPCに向かう。集中力が高いのでほぼ休憩なしのぶっ続けである。首を酷使していることは承知だ。読者やPCから離れると確かに血圧は下がる。運動不足も自覚している。ここでひとつ、適度の首の運動でも心懸けるかと思い立つが寒いのでやめた。そして今日もわたしの人体実験は続く。


Apologize

2009年01月17日 23時03分51秒 | Weblog
I'm holding on your rope,
Got me ten feet off the ground
I'm hearin what you say but I just can't make a sound
You tell me that you need me
Then you go and cut me down, but wait
You tell me that you're sorry
Didn't think I'd turn around, and say...

It's too late to apologize, it's too late
I said it's too late to apologize, it's too late

I'd take another chance, take a fall
Take a shot for you
And I need you like a heart needs a beat
But it's nothin new
I loved you with a fire red-
Now it's turning blue, and you say...
"Sorry" like the angel heaven let me think was you
But I'm afraid...

It's too late to apologize, it's too late
I said it's too late to apologize, it's too late

It's too late to apologize, it's too late
I said it's too late to apologize, it's too late
It's too late to apologize, yeah
I said it's too late to apologize, yeah-
I'm holdin on your rope, got me ten feet off the ground...


反抗的人間

2009年01月12日 00時49分06秒 | Weblog
何かに迷うと濫読に走る。様々な迷いを吹っ切るために読み始めて30年以上が経過した。そして、現在も迷いの最中にある。


久しぶりにカミユの「反抗的人間」を読み直してみて、改めてカミユの知識の量と質に圧倒された。自らの世界観を明らかにするという目的をもって書かれたカミユのこの著作は、わたしの様に場当たり的な読書をしてきた者には手ごわい。しかも、その妙な一貫性と理屈っぽさには辟易とさせられる。それでも読む。翻訳に難があってもなお文体は明晰である。

数十年前には懸命に読んでも理解が及ばなかった「シーシュポスの神話」にもざっと目を通してみた。カミユがアルジェリア生まれのフランス人であったことを差し引いたにしても、ギリシャ神話に取材したこの著作によってヨーロッパ文明の無味乾燥な面に触れたような気がした。カミユはこの著作で不条理と死について論及する。不条理・・・、懐かしい響きがある。


多分にテレビや映画、DVD、ネットの影響であろう、最近になって遠いヨーロッパを身近に感じ始めた。文化の背景を容易に視聴覚で確かめることができる。ありがたいグーグルの検索機能によって腑に落ちるまで文字や映像で追うことができる。ネットの向こう側には情報に富んだフランスがある。

フランス人カミユと日本人はやとの文化の差は急速に縮まった。今やカミユを読むことは、鴎外や漱石を読むのと同様のギャップしかない。それにしても、フランス人というよりもフランスの思想家や作家はどうしてああも理屈っぽいのであろうか。かなり呆れかかっている。

カミユ・サルトル論争

2009年01月10日 16時00分32秒 | Weblog
      サルトルとボーボワール




時間つぶしに寄った書店で渡辺淳著「二十世紀のフランス知識人」を手にとってみた。ジィド、マルロー、ベケット、ルカーチ、サルトル、カミユ、メルロ・ポンティー、レヴィ・ストロース等馴染みの思想家やその名を聞いたこともないようなフランスの知識人たちが織りなす思想的格闘、協力と離反劇が克明に綴られている。迷わず買った。

著者は、「アンガジュマン」をめぐる「サルトル・カミユ論争」にも数ページを割いている。カミユが「絶対的な反抗による連帯」を唱えたのに対して、サルトルは「人間は自らについて責任があると考えるが、それは全人類に対して責任を持つということなのである。・・・だから私は自分の自由といっしょに他人の自由をも望まないではいられないし、実際に自他は相互に依存し合っている。だから実存主義は楽観論であり、行動の教義なのである。」(一部改竄)という。

われわれの学生時代は実存主義に傾倒する者が多かった。かぶれるものが多かった。わたしも例外ではなかった。西洋的個人主義すらろくに理解できない身でサルトルやカミユを読み漁った。上記のような実存主義の要諦を理解できるようになったのはつい最近のことである。われながら随分思想的に奥手だと思う。

著者も触れているように、「風貌や作品の風合いとは異なって、サルトルはカミユより8歳年長である。カミユは貧しい家庭の出で、北アフリカで共産党に入党して政治にコミットしていた。一方サルトルはブルジョアの出身で政治への参加はカミユよりも遅かった。カミユが詩人肌で感性派なのに反して、サルトルは理論家肌で知性派であった。」

読み進むうちにその博識ぶりに著者のことが気にかかってならなくなった。東大仏文科卒(そういえば難解を極めるノーベル賞作家、大江健三郎も東大仏文科の出だ。)で東京都立大学名誉教授であるから学者としては別に特記するような経歴ではない。

ところが、生年を見て少なからず驚いた。渡辺淳、1922年三重県のお生まれとある。この新書の発行が2004年の2月であるから御年80歳台での著作ということになる。現職はフランス文化・演劇・映画の評論家であるという。思わずもう一冊読みたくなってamazonで氏の作品を検索した。


株で儲けるのは難しい

2009年01月10日 00時12分15秒 | Weblog
アメリカを震源地とする金融恐慌は、日本・中国・大韓民国やユーロ圏からの対米輸出攻勢と不動産担保による消費者への過剰な融資が主要因であったことが鮮明になりつつある。

米国民の過剰な消費は不動産価格の急落によって(これこそがサブプライム問題の根幹をなす。)終焉を迎えた。次いで供給(輸入)が過剰になって米国経済はインフレ経済からデフレ経済へと変貌しつつある。

将来の景況判断は株価に反映する。オバマの選択肢(構想)の殆どは既に市場に織り込み済である。期待が大きい分、失望の「売り」が先行するとみるのが妥当だ。したがって21日の米国株式市場は大幅に下げる。下げて当然だ。

ところが、わたしの予想が下げるという確信を大きくするほどに株価が上昇する可能性は逆に高まる。全知全能を傾けたわたしの株価予測が当たった試しがないという経験の賜物だ。

株に理屈や理論は不要である。大口の投資家たちの動向を用心深く観察することの方が重要なのだ。大口の投機筋の動きに逆らうと痛い目にあう。妥当で大方の予想に反して大口は買う、買い進むに違いない。

そして上げるだけあげておいて一斉に売りに転じる。大口がいつ売りに転じるかを読むのはなおさら難しい。一般投資家は翻弄されて右往左往するばかりである。(だからわたしは株をやらない。)

ドル安に販売不振、わが国の輸出産業は大きな打撃を受けて現在に至る、しかも21世紀の日本を牽引してきたのは自動車や家電、産業用ロボット等の輸出産業である。日本の政治的リーダーシップに期待できないことは周知、したがって日本の命運はアメリカの新大統領の政策次第というお粗末な状況に陥ってしまった。

金融恐慌が世界の経済恐慌にまで進むかどうかは、1月20日にオバマが大統領に就任するまでに残されたあと10日間ほどの間にオバマや彼の閣僚やブレーン達がどのような経済政策を構想しどのように市場から評価を受けるかにかかっているといってよい。この救国構想にしばらくの間、市場は敏感に反応することであろう。

どこから資金を調達するのかという問題をさておくと、米国の金融恐慌を沈静化させるためには政府による資本の注入や資金の提供、金融機関の国有化がもっとも有効である。

実体経済と金融との相関はジャーナリズムが騒ぎ立てるほど深刻な問題ではない。むしろ景気の浮揚策がもっとも重要である。その浮揚策を打ち出せないから米国や日本、ユーロ圏および世界各国は恐慌前夜なのだ。

「究極のところがオバマ任せの世界経済」であることに気がついたので経済・金融関係の本を読むのはやめた。経済というものはなるようにしかならない。わたし自身が景気の波に乗ってうまく立ち回ることができるほど器用でないことは重々承知だ。




ピラカンサス

2009年01月04日 00時29分18秒 | Weblog
        ピラカンサス


今年はピラカンサスの大木に赤い実がたくさんついた。実の重みで太い枝さえねじ曲がってしまった。重そうである。弐階建てのわが家の窓に届くほどだから高さが4mはある。ピラカンサスは愛らしいと思ってきたが、ここまで赤い実に覆われると荘厳である。

赤い実をたわわにつけるようになるまでには涙ぐましような努力があった。数年前までは蛾の幼虫にやられて見る影もなかった。無数の幼虫に新芽を食べられて冬になっても枝だけという惨状であった。

一昨年は蛾を近づけないようにするために近づく蛾を徹底的に竹箒で追い払った。叩き落とした。それでも昨年はいずこからともなく蛾が現れ卵を生んでいったようだ。凄まじい数の幼虫がピラカンサスに巣くった。窓の上から殺虫剤を散布した。無数の幼虫たちは庭から姿を消した。

死骸がないのであるから姿を消したとしか言いようがない。以前ピラカンサスの木に殺虫剤を撒いた数日後、近くの山茶花の葉にたむろしているのを見たことがある。もちろん、山茶花は丸坊主にされていた。

こげ茶色と橙色でまだらの3、4㌢のワームが幼虫である。木にとまる時、羽を広げているので蛾じゃないかと判断しているものの、成虫の風采はむしろチョウに近い。目下、ピラカンサスの天敵であるこの蛾の正体をネットで調査中である。

新年

2009年01月03日 23時55分56秒 | Weblog
無為な時間を過ごすのに飽きてきたら剪定鋏、刈り込み鋏や鋸で庭の杏や富有柿、紅葉の剪定をする。今年は思い切って枝を切った。高さが4mほどの柿や杏は太い幹だけの裸状態である。

杏は春先に綺麗な桃色の花をつける。富有柿は好物だ。杏は思い切って選定した方がいい花をつけるし富有柿は大振りの実をつける。

庭にちょぼちょぼと生えた雑草は冬に相応しくない。だから、隅から隅まで徹底的に抜く。そうして竹箒で庭を掃き清める。庭はようやく新年の装いだ。