旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

兆候

2008年08月22日 00時59分33秒 | Weblog
見えるはずがないものが見えたり、感じることができるはずがないことを感じたりする妙な体験が続いている。ひょっとして神がかり状態なのか、何かに取りつかれたのか、お迎えが近いのかなどととりとめのない考えを巡らせる。

こっちの認識力や視力が落ちているので、現実的には異なっているものが同じように見えただけのことかも知れないし、知り合いもわたしが感じたことを同じように感じていたという例もあるので、とりたてて原因を本気で究明しようとしているわけでもない。妄想の連鎖のような妙な体験が続いている。

兆候 Ⅰ

三島の「太陽と鉄」を読み終えたかと思ったら数日後「SUN & STEEL」がブックオフで売られている。週に一度は洋書売り場に足を延ばして2年になる。「SUN & STEEL」が売りに出ていたのは今回が初めてだ。

陽明学と三島について考察しようとすると「行動学入門」のなかに「革命哲学としての陽明学」があったことが突然脳裏に閃く。早速読んでみた。大塩中斎(平八郎)の乱をネタにして三島は「認識と行動」の一致こそが陽明学の要諦であると説く。

わたしは違うと思う。三島がいっている「認識と行動」は言行一致とか不言実行に近い。予想通り三島は、三島なりのやりかたで強引に陽明学を理解しようとしていることが「革命哲学としての陽明学」から読んで取れる。

陽明学では「認識と行動」よりも「認識の根底にある善なるものに対する確信」は、それこそいかにして認識されるのかを問題にしているのであるという風に、わたしの考えがまとまったかと思うと、探していた「近代日本の陽明学」が難なく見つかる。1か月ほど前からどこにいってしまったのか気にかかっていた本である。

「革命哲学としての哲学」は過去に読んだことがない。ところが先日わたしは三島は陽明学を十分に理解していない旨のブログを書いている。こりゃ一体何なのか。何がしてわたしにそういうことを書かしめたのか。不明である。

兆候Ⅱ

1年ほど前に数百キロ離れた場所にいるはずのひとをこの目で見た。そのひとはわたしの数10m先に現れた。言葉を交すことができなかった。バスの陰にはいり、通り過ぎたらこの人物は見当たらなかった。ほぼ同時刻に危篤状態に陥たそのひとは2日後に数百キロ離れた自宅で亡くなったことを葬儀に参列して知った。遺影はわたしの前に現れた時とまったく同じ紺色の服を身にまとっていた。(わたしの目撃談には証人がいる。)

兆候 Ⅲ

妊婦さんを見ただけで生まれてくるのが男の子か女の子かがわかる、というか、どちらが生まれてくるか感じることができる。過去3年間で10回の予想をして一度も外れていない。


その他にも幾多の「兆候」がある。最近酒に弱くなっているのでアルコール中毒性の妄想でないことを祈るばかりだ。