旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

苅尾(臥龍山)のブナの実

2013年06月30日 09時41分15秒 | Weblog

昨日の早朝に家を出て八幡湿原の霧ヶ谷湿原を目指した。時節が早すぎたようだ。湿原は野草で覆われていた。人の手を入れないとあの風景は維持できないらしい。毎年、湿原の草刈りをする皆さんに感謝した。

裾から眺める山々は深い緑に覆われていた。ことのほかブナの原生林あたりの緑が濃い。惹かれるように苅尾(臥龍山 1126㍍)の8合目まで車を走らせた。先には車道がない。黙々と「雪霊水」を汲む人たちの姿が妙に神々しい。木洩れ日が眩しい頂上付近をしばし散策した。

薄緑のブナの実をひとつ拾った。車でしばらく下ると「原生林内では落ちている植物の実を拾ってはならない。」という古ぼけた掲示があった。慌てて道路脇に車を止めてブナの実を置こうとしたら、拾った時に固く殻を閉ざしていた実がはじけて、中の青い果実が露にわになっていた。 

                       


労働者

2013年06月27日 19時19分45秒 | Weblog

あと一日踏ん張れば休みに入る。この場に及んで、好きなことをやりながら収入があがるブルジョア生活をふと思う。今週も少々疲れが残ったようだ。コーヒーの砂糖の量が増えている。ところが毎週、2日間の休養を経て月曜になると決まって体がむずむずしてくる。根っからのプロレタリアートなのだ。働くことが好きなのだ。これから休日の休養計画を練る。


腫物と丸山眞男

2013年06月26日 19時11分52秒 | Weblog

右眉の上部を何かの虫に刺されて1週ばかり経ったというのにまだ腫れが引かない。患部はすっかり赤くなって芯のあたりがむず痒いので、近いうちに黄色い膿がでて快癒するのじゃないかと期待している。腫れたといっても、直径は1円玉ほどもない。高さは数ミリといったところだ。顔面にできた腫物は小さくても鬱陶しい。加えてこの蒸し暑さだ。除湿がよく効いた部屋で昼寝というわけにもいかないので、食後の休憩を本屋で涼んだ。

一昨日は丸山眞男著「現代政治の思想と行動」を買った。2004年の第157刷版を105円で売っていた。見た目は新本だ。読まれた様子もない。定価は3500円とある。思うところあって同じ丸山の「日本政治思想史研究」を引っ張り出して朱子学、国学、徂徠学について読み進む。進んだだけでは歯が立たない。もっと時間を割くことができそうな時に読み返してみることにした。おかげで本日も眼精疲労に悩まされた。

  


「桐島、部活 やめるってよ」

2013年06月24日 20時42分28秒 | Weblog

昨晩から、わたしにとっては朝井リョウの2冊目、「桐島、部活 やめるってよ」を読み始めた。読めばアニメを見ているような気分になる。瑞々しい感性または表現というのだろう、鮮かで繊細な日本語で高校生たちの心模様を描く。

昨今の高校生や大学生気質に触れたくて1冊目の「何者」を読んだ。就職活動に揺れる大学生たちの日常生活が、われらの時代よりも洗練された行動様式の中で描かれていた。もっと野性的でぎらつくような言葉も作法もそこにはなかった。

いづれの小説もストーリーというよりも、心の風景の移ろいをうまく表現している。本日、本屋に寄って、他の朝井リョウの著作を2、3みつけた。題名を見ただけで次の3冊目を買うことはなかった。


菜園の返還

2013年06月23日 22時08分18秒 | Weblog

本日は早朝6時から家庭菜園で草むしりに励んだ。借りた時の原状を回復して地主さんに返還しなければならない。苦節3年、ようやく土や日照・風の癖を把握した。土づくりも終わった。まことに無念だ。年貢は高くとも小作人だってこんな仕打ちを受けることはあるまい。賃借人の悲哀を全身で受けとめた。

6月初旬から忙しい。この土曜日に有給休暇をもらえたので、久しぶりに日曜・月曜と併せた3連休でゆっくり休養する予定にしていた。ところが世の中、儘ならぬ。急な予定の変更があって重要な書類の手渡しのために連休中に仕事が食い込んできた。私の連休は仕事で汚された。

うち1件は昨日の夕刻に所要を済ませた。明日の朝一番で相手先に書類を届ければ食い込んできた仕事はきっちりと終わる。書類を届けた後は緑井の「メガ」で本を眺めながら思いどおりの午前を過ごす。時間の縛りから解き放たれた、わたしの連休を取り戻すのだ。


中原中也

2013年06月22日 19時34分25秒 | Weblog

昨日、「中原中也全詩」(角川ソフィア文庫集)を買って、大岡昇平の「中原中也伝」から読む。かれの出自や家族関係を詳細に紹介したのち、大岡は「中也は生涯すべてを自己の力を通して見、強い、独創的な自分、弱い雷同的な他人という簡明な対立で世間を眺めた。」と評している。アト・ランダムに中原の詩集を読んでいる。

本日、泉谷しげるのCDを買って「春夏秋冬」や「黒い鞄」、「人には厳しく 自分には甘く」から聞く。泉谷しげると中原中也の詞と詩には相通ずるものがある。絵画に例えれば中也の詩は抽象画だ。「泉谷は半生を自己の力を通して見、弱いが独創的な自分、強い雷同的な他人という図式で世間を眺めている。」。泉谷の方が処世術に長けている。

教科書的に言えば、中也の代表作は「サーカス」か「汚れちまった悲しみに・・・」だ。ところが、全集を読むにつけ、中也の詩はこちらの経験で照らしたり、思い当たるふし色に解釈できることが明らかになってくる。先入観は持たないほうがよい。抽象的な詩を読む側からすれば、中也をどのように感じ取るかが問題なのだ。

      泉谷しげる         中原中也 


クジャク法

2013年06月19日 20時27分31秒 | Weblog

年に数度は本を読みたくもないと思うことがある。決まって仕事の関係で活字を追わざるを得ない日々が続いたあとか、やはりPCに向かわざるを得ない日々が続いたあとだ。そういう物理的な環境の下で働かざるを得なくなると、数日後から活字を見るだけで気分が悪くなり始める。眼精疲労の症状に違いない。

ここ数日デスクワークが続いてその症状が出始めた。外は雨が降りしきる絶好の読書湿りだというのに、読書に関心が向かない。こういう日は難しい本から離れて、こころにかかわる本よりももっと即物的な、たとえば松下晴雨著「もっと『きれいな字!』が書ける本」といった類の本を読み流す。読むのが嫌になったら放り出せばよい。

思えば思春期以降、持ち前の悪筆に悩まされ続けた。自分が書いた字が読めないなどという事態に見舞われるのは序の口で、公民館の図書室で本を借りようと自分の名をサインしたら、窓口でぴしゃりと「読めません!」と言われた。わざと読みにくい字で書いているのではないかというような怪訝そうな視線を感じることすらあった。

ほかにも自らの悪筆には多々恨みがある。ところが、わが身を振り返ってみて、ここのところ悪筆を不勉強の言い訳にしてきたのではないかという自責の念が頭をもたげかけている。鉛筆の持ち方でいえば「クジャクの手に毒蛇がそーっと」で始まる「クジャク法」があることを数年前に知った。努力すればなんとかならないでもない。

美しい文字を書こうというのではない。せめてひと様に読んでもらえるレベルの字を書くために何かせざるを得ないと少々焦り始めた。

 


挿し木

2013年06月15日 23時33分04秒 | Weblog

 昨夜来の雨に降られてトマトとパッションフルーツの緑が勢いを増した。熱帯原産ならずともこの暑さと湿気なら挿し木がうまくいく。さっそくバラと雪柳を挿し木にした。3週ほど前に土に挿した十数本のバラの茎はすでに芽や葉をつけ根が張ってくるのを待つばかりだ。そういえば、ここ数年は挿し木で庭の雪柳やバラがずいぶん増えた。

 

雨上がりの庭には、黒褐色の土に橙色の杏子が数個ころがっている。


万歳

2013年06月11日 23時54分58秒 | Weblog

本日は質の高い労働で暮れた。明日から週の中盤に入る・・・、予定だった。番狂わせが生じて金曜は有給休暇をいただくことになった。明日から早くも週の後半に入ることになる。サラリーマン万歳だ。

  オルテガ・イ・ガセット 

セルバンテス「ドン・キホーテ」、オルテガ「大衆の反逆」、フリオ・イグレシアス「さすらい」、順にスペイン語圏の小説であり、評論であり、歌だ。ところが、この3名がわたしの魂を揺さぶり続けて久しい。初級だが習得に熱が入る。NHK「テレビでスペイン語 6月号」のテキストを買って番組を予約した。


Nathalie ナタリー

2013年06月10日 19時04分30秒 | Weblog


Nathalie
en la distancia       
tu recuerdo
vive en mi
yo que fuí
tu amor del alma
y a tu vida
tanto dí.

ナタリー
あなたは遠く離れているけれど
あなたの想い出は
僕の心の中に生きている
あなたの魂の愛と人生は僕であり
僕はそのどちらもあなたに捧げた

¿Qué será de ti?
¿dónde estás? que ya
a mi atardecer
ya no has vuelto más
¿Quién te cuidará?
vivirá por ti
¿Quién te esperará?,
Nathalie.

あなたは今どうしているのか?
あなたは今どこにいるのだろう?
既に夜が更けたのに
あなたは戻ってこなかった
誰があなたを守るのだろう?
どうやって自分らしく生き
誰があなたを待っているのだろう?
ナタリー



Nathalie
ayer mi calma
hoy cansado
de vivir,
de vivir
sin la esperanza
de que vuelvas
junto a mi.

ナタリー
昨日までは平静だったけれど
今では生きることに疲れている
あなたが僕のもとに
戻って来る希望もないまま
生きることに

¿Qué será de ti?
¿dónde estás? que ya
el amanecer
no oye tu cantar
¿Qué será que a ti?
no te importa ya
que yo sufra así,
Nathalie.

あなたは今どうしているのか?
あなたは今どこにいるのだろう?
既に夜が明けたのに
あなたの歌声が聴こえない
あなたにとって
僕はどうでもいいのだろうか?
こんなにも苦しいのに
ナタリー

¿Quién te cuidará?
vivirá por ti
¿Quién te esperará?,
Nathalie.
¿Qué será que a ti?
no te importa ya
que yo sufra así,
Nathalie, Nathalie, Nathalie

誰があなたを守るのだろう?
どうやって自分らしく生き
誰があなたを待っているのだろう?
あなたにとって
僕はどうでもいいのだろうか?
こんなにも苦しいのに
ナタリー、ナタリー、ナタリー


薔薇

2013年06月08日 20時29分04秒 | Weblog

                   品種は ジャネット 

 

 

ほかに、テスオブ・ザ・ダーバービルズという品種の赤いバラが咲く。

たくさんの蕾を吹いている大輪の赤いバラの品種については調査中だ。

 

                               

 


2013年06月08日 20時24分44秒 | Weblog

             

          

 

『桃李言わざれども下自ずから蹊を成す』
桃や李(すもも)は何も言わないが、花の美しさに惹かれて多くの人が集まってくるから、木の下には自然と道ができる。徳望のある人のところには、自(みずか)ら求めなくても、その徳を慕て人が自然と集まって来ることの喩え。(どこかの漢文教科書から引用)

庭の杏子(あんず)は桃や李(すもも)の花よりも華やかで美しいというのに木の下にひとは集まらない。家の主が成蹊の対極にあるような人物なのだからやむを得まい。個人的には、杏子の花よりも実をつけた杏子の木のたたずまいが好きだ。


酔っ払いと詩

2013年06月07日 21時34分27秒 | Weblog

暑い日にはビールで暑気払いといきたい。ところが故あって飲めない。花の金曜日は李白の詩を読んで酔った気分になる。最近、李白を読みながら思うのだが、李白は大酒飲みらしいのに詩には酔っぱらっているふしがない。どうみても酔った時のことを思い起こしながら詩っている。だから、李白の詩は壮大だ。