旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

新井将敬

2007年02月28日 00時19分15秒 | Weblog



日本に帰化した新井将敬という政治家がいた。日興証券に対する利益要求の容疑で特捜部から事情聴取される直前の1998年2月に首を吊って自殺した。日興コーディアル証券の闇は深い。真理子夫人がようやく事件の本質が解明されそうだと語っていた。

新井と同じ在日韓国人の河信基が書いた「代議士の自決」副題「新井将敬の真実」を一気に読み終えた。わたしの一気とは2~3時間である。石原慎太郎の公設第一秘書は、新井のポスターに「41年北朝鮮から帰化」というシールを貼って捕らえられた。

指紋押捺時の屈辱に絶えられなかった新井は帰化の道を選び、東大を出て、のち当時の大蔵省に入省した野心家である。次代の総理との呼び声も高く、長身でハンサムな政治家であった。

新井の親分であった故渡辺美智雄は彼の出自に関して、「ご先祖様を7から8代も辿れば、殆どの日本人は朝鮮人と血が混ざる。」と意に介さなかった。かって同じ選挙区で戦った石原慎太郎は、ナショナリズムを標榜して「帰化人の総理大臣」に疑問を投げかけた。

軍神東郷元帥や終戦時の東郷外務大臣の出自は、朝鮮出兵時に朝鮮半島から日本に移住した陶工である。また、著名なキッシンジャーやソロス、シュワちゃんも帰化人である。

ビジネスが不調なので、いろんなことに首を突っ込んで気分を紛らわしている。今月だけで3回のコンサートもしくはディナーショーもどきに出かけた。津軽三味線・シャンソン・ピアノのコンサート「もどき」がそれである。

また、先週は徳山の「栄ふく」に筋肉質なフグを食べに行った。量といい、味といい申し分ない。フグ刺し、フグのから揚げ、フグちりを満喫した。古い女将の「食べとるかね。」というぶっきらぼうな対応がいい。

いつもなら「下松の健康ランド」で映画を見て、ひと風呂浴びてついでに泊るのだけれど、某ホテルの総支配人さまを接待する身だからそうもいかない。食べるだけ食べ、呑むだけ呑んだら早々に切り上げてKさんの運転で広島にとって返した。

シャンソンナイト

2007年02月25日 00時50分39秒 | Weblog
ディナーショー風のささやかなシャンソンコンサートに出かけた。全日空ホテル22階のレストランバーが会場であった。市内でシャンソンの歌唱指導をしている宮瀬征子さんの「シャンソンナイト」なので、お弟子さんの風の観客も多く、どちらかというと家庭的もしくは手作り風のコンサートだった。食事はイタリア料理のコースである。着席するやいきなり、チケットの手配をお願いしていた女性から「まあ、はやとさん、今日はハーレムね?」と言われてたじろいだ。こちらにはKさんという女性の同伴者がそばにいたのだ。

コンサートは、「愛の賛歌」に始まり、いま流行の「千の風に乗って」で終わった。宮瀬さんは、エンゲルベルト・フンパーディンクやプレスリーが歌った「太陽は燃えているか」をスペイン語で熱唱した。「千の風に乗って」や「太陽は燃えているか」がシャンソンの範疇であるかどうかは知らない。しかし、フリオ・イグレシアスの「青い瞳のナタリー」をスペイン語で歌って、周りをあっと言わせようと目論んでいる身からすると大いに参考になった。

もともと「食べて・歌って・恋をして」のラテン系の日本人だからシャンソンは好きだ。以前はアダモやアズナブールの宇宙人のような歌声や歌詞が好きだった。最近では年相応にピアフやシャンソンのスタンダード・ナンバーもも悪くはないと思えるようになっている。宮瀬征子さんのコンサートは2度目である。前がそうであったように見渡せば会場の90名ばかりの観衆のなかに男性の姿は10もなかった。「命短し、恋せよオヤジ。」である。

「セシボン」がサッチモ(ルイ・アームストロング)によって発掘されたシャンソンであり、まずアメリカ国内でヒットして、後フランス国内のシャンソンの定番になったというエピソードの紹介があった。ドリフターズまたはプラターズの「ラストダンスは私に」が、純粋なアメリカンポップスであるにもかかわらず、シャンソンの名曲として知られるようになったのことと対比しみると興味深い。

年齢を重ねると、恋の始まりを告げるときめきや、やがて訪れる別離の悲しみの心模様を実感として掴めるようになってくる。だから、愛することの喜びを高らかに歌いあげるシャンソンへの思いはつのる。最近になって、わたしが好きなシルビー・バルタンの「アイドルを探せ」がシャルル・アズナブールの作詞作曲であることを知った。何か、騙されてきたような気がしてならない。それでも、シャンソンへの思いは熱い。

Kさん、どうだった?





教行信証

2007年02月18日 02時50分14秒 | Weblog
「風に吹かれて」は、何回読んでも心にしみる、いい詩です。曲もいい。若い頃は、どちらかというと風貌が好きで、あの外見にかぶれていましたが、最近になってようやく、彼の詩を理解できるようになりました。ディランはかなり早熟ですね。

今でもディランの詩を読みますし、曲を聴きます。かなり挑発的な歌いっぷりの"Like a rolling stone"。てっきり女性を誘惑する歌じゃないかと思っていました。違っていました。都会に出た田舎者のお嬢ちゃんの孤独を皮肉っていたのですね。

この歳になると、よくお経を聞かされます。昨年は曹洞宗のお経を聞かされました。先月は、浄土真宗のお経でした。ともに何が言いたいのかさっぱり聞き取れないお経でした。もともとが不精な性格なので、本格的にお経を読んだことすらありません。平明な中村元さんの原始仏典の和訳もので、お茶を濁して来ました。

最近になって、「教行信証」が英訳されていることを知りました。翻訳したのはかの鈴木大拙さんです。中央公論「日本の名著」の口語訳で読むか、英訳で読むか思案中です。 アラビア文字が読めないので、やはり口語訳を読むしかないのですが、「コーラン」もなかなかいい詩的センスで書きつづられています。愛読書のひとつです

千の風になって

2007年02月17日 02時57分01秒 | Weblog
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています



この歌詞からは、縁があったひととの永訣は悲しいけれど、涙が枯れ果て、永遠の別れを惜しむだけ惜しんだ後に残された者が、やがて生命の息吹を感じることによって癒され、改めて永訣した者とともに生きていく自分自身を取り戻してゆくのだという力強いメッセージが読みとれます。

いまだに名前すら知りませんが、歌手の音量があるバリトンとドレスアップして凛とした風貌が求道者のようでなかなかいいですね。

ボブ・ディランの「風に吹かれて」も名曲です。ディランも風の中にひとの証を問いました。風とか潮騒、森や湖、川の流れには、古今の東西を問わず、われわれを癒してくれる何か神秘的な力があるようですね。きっと精霊が宿っているのでしょうね。

候補者

2007年02月12日 00時47分35秒 | Weblog
老市会議員が引退を決意した。甥に当たる人物が当然のこと後継者として立候補するものと思っていた。周りの人間もそのように考えていたようだ。ところが彼は出馬を断念し、代わって衆議院議員の有力な後援者の子息が急遽立候補することになった。

甥っ子に当たる人物が立候補することを決断したらしいと早とちりして、後援会の事務所までのこのこと出かけた。老市会議員は、甥っ子を指しながら「こんなが立ちゃあ、一番ええんじゃが・・・。」と言葉を濁した。

後継者は既に後援者の子息に決定している。老市会議員の後援会の事務所の裏は若き後継者の後援会事務所になっていた。「今からでも遅おないけん立候補を決断しんさいや。」と甥っ子に声をかけた。彼は、中学の1年先輩でともにサッカーをやった仲だ。いいゴールキーパーであった。

知り合いの隣町の町会議員がつめていた。町会議員は甥っ子の相談役だ。昨年、甥っ子の立候補に彼の妻や家族が猛反対していてたいそう気に病んでいるらしいと聞かされていた。甥っ子の中学の同級生である彼は甥っ子の出馬はないとみているようだ。

後援会の運動員が、忌々しそうにはき捨てた。「後継者は○○町内へ住むゆうとるんじゃけえ、ええじゃないか。」老市会議員の後継者は隣町の出身で、隣町で商売をしている。老市会議員は○○町の出身なのだ。

大柄な甥っ子の表情は暗かった。昨年の夏に会ったときと同様に精彩を欠いていた。苦悩の後がうかがえた。市内でも中堅どころの土木工事業者の役員である。10年ほど前に老市会議員がかって代表を務め、当時は娘の夫が経営する土木工事業者は倒産している。

莫大な負債を整理する過程で、この妙な禅譲の準備がなされたような気がしてならない。8年ほど前の選挙に私が応援した候補者を甥っ子は応援してくれた。私が応援する候補者なら応援するという、ただそれだけの理由で。出馬するなら微力ながら彼を支援するつもりであった。私は首を傾げながら老市会議員の後援会事務所を後にした。

基準値

2007年02月11日 23時22分04秒 | Weblog
血液検査を受けた。基準値外の数値が数箇所あった。養生しなければならないと思い、病院の検査がわかる「検査の手引き」なる本を買い求めた。ところが、この本の基準値は、私が受けた人間ドックの基準値と異っている。

たとえば、日本人間ドック学会では、「健常人の測定値を推計学的に処理して得た平均値mと標準偏差値SDから、次の計算式によって基準値を求めている。
基準値=平均値±2SD
基準値は、健常人の値の上下±2.5%を切り捨て、残りの95%を正常範囲としている。」

この基準値の設定法は、いづれの検査施設でもほぼ同様であるが、健常者の集団が異なるし検査の方法にも差異があることから基準値は検査施設によってかなり異なるのである。

赤血球数などでは広島市医師会の臨床検査センターが400万、広島市民病院が427万、東大の付属病院が440万以下を基準値以下とするなど異常値の判断もまちまちである。

知り合いが、1週間に2度血液検査を受けた。血液一般検査では似通った数値が出た。この数値を例に取ると、日本人間ドック学会の基準値ではかろうじて正常値、市民病院の基準値では軽い貧血であると判断される。

以前は基準値のことを正常値と称した。現在では一般に基準値という表現だ。ところが、この基準値を少し外れると境界型、大きく外れると異常であるという判定を下す検査機関があれば、単に基準値を外れると異常値だという判定を下す検査機関もある。

「誤診列島」という本を読んでいる。著者は日本の医師に対して「検査結果で医療をするな!患者さんを診て治療をせよ!」とニッポン医療の無謀とも思える投薬ぶりに警鐘を鳴らしている。

三島由紀夫全集

2007年02月08日 23時11分33秒 | Weblog
「アルベール・カミユ全集」に続いて「三島由紀夫全集」を手に入れた。新潮文庫で代表作の殆どを揃えてはいるのだが、文庫は目に優しいとはいえないので読みづらかった。小遣い銭に不自由する昨今である。「三島由紀夫全集」の掘り出し物を見つけて女友達から借金をしてまで買い求めた全35巻は、年内に読破する意気込みだ。割引券3000円もありがたかった。

王陽明に関しては岡田武彦全集が手堅い作品ではないかと思われる。「王陽明大伝五」を読み通して得るものが多かった。懸案中のビジネスがうまく行ったら自分に対するご褒美として全巻を買い求めることにした。真説「陽明学」入門はひどいしろものだった。読者をビジネスマン対象とした著者の限界が見て取れる。

格闘技の愛好家としては、「猪木寛至自伝」や「最強伝説グレイシー一族の攻防」が興味深い。

日本古典文学全集「平家物語全2巻」を買った。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」という書き出しは、「中インド舎衛国にある釈迦が説法をした祇樹給孤独園という大きな寺の精錬行者の宿舎内の無常堂の四隅にある鐘は、病僧が臨終の際、自然に鳴って『諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽』を説き、病僧は苦悩を忘れ往生するという。」という意味。

真説「陽明学」入門

2007年02月07日 23時30分39秒 | Weblog
概説書らしきものを読み終えたのだけれど、
安岡正篤さんが登場したので興ざめだな。
細木数子さんまで登場して、
安岡正篤さんの最後の奥さんが彼女だったとはねえ。
信奉者たちも困っているのじゃないだろうか。
帝王学どころか俗物・・・。
などというと罰が当たるかな。
読むのじゃなかった。
何が、シュタイナーだよ、まったく。

副題が「黄金の国の人間学」林田明大著


王陽明

2007年02月06日 21時26分50秒 | Weblog
王陽明
『こころの本性というものは善悪を超越したものである。善と悪の感情が生じると、ひとの意志が働く。ことの善悪を識別する良心の作用こそが良知である。善を行い悪を退ける、即ち、ひとの欲を退けることが格物である。』



格物

    「物事の道理を窮めただす意で、理想的な政治を行うための第一段階。
    以下、致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下に至る。」

    「宋代以降の儒学で主体の陶冶方法として特に注目された概念。」

    「朱子学では「物にいたる」と読み、個々の事物の理を究明してその極に
    至ろうとすること。窮理。」

    陽明学では「物をただす」と読み、対象に向かう心の働きを正しく発揮す
    ること。


御文

2007年02月03日 20時21分16秒 | Weblog

  白骨の御文



  それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきも
 のは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、い
 まだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いま
 にいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

  我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれ
 さきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。され
 ば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

  すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに
 とじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の
 よそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめ
 ども、更にその甲斐あるべからず。

  さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりと
 なしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろ
 かなり。

  されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人
 もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいら
 せて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 
  
 (注)
  浮生 ふしょう   
  始中終 しちゅうじゅう   
  万歳 まんざい   
  人身 にんじん   
  形体 ぎょうたい
  朝 あした  
  紅顔 こうがん
  桃李 とうり
  眷属 けんぞく  
  夜半 よわ 
  不定 ふじょう  
  後生 ごしょう

  蓮如「御文・第五帖」真宗聖典(東本願寺)842ページ



レモン哀歌

2007年02月03日 20時17分01秒 | Weblog
                     
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう

             高村光太郎



永訣の朝   

2007年02月03日 20時07分18秒 | Weblog
 
 
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ



              宮沢賢治
 
 
 
 


●ルビ
陰惨(いんざん) 蓴菜(じゆんさい) 
陶椀(たうわん) 蒼鉛(さうえん) 二相系(にさうけい)

●註
※あめゆきとつてきてください
※あたしはあたしでひとりいきます
※またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないやうにうまれてきます