旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

カウンセリング

2011年10月30日 19時15分40秒 | Weblog
『「キャリア・カウンセリングのシステマティック・アプローチ」とは、カウンセラーとクライエントとの間によい人間関係を作り。共同してカウンセリングの目標を定め、計画を立て、その計画を達成するための方策や処置を体系的に進めるアプローチをとることである。キャリア・カウンセリングでは一般に、このアプローチをシステマティック・アプローチとよんでいる。』木村周著「キャリア・コンサルティング 理論と実際」(財団法人雇用問題研究会 発行)より抜粋
場当たり的・対症療法的対応で実技試験に臨む限り合格は覚束ない。技能の検定なのだから、理論面よりも、もっと実践的・マニュアル的でブレがない方策や処置を体系的に進めることができるようになるために、システマティック・アプローチを実技試験に応用する作業を進めている。

矢先に小沢牧子著「『心の専門家』はいらない」という本にでくわした。裏表紙には、『「相談という商品」を「一緒に考え合う日常の営み」に取り戻す道を探る試み』とある。2年ほど前にキャリア・コンサルティングに興味を覚えた頃に感じた疑問に対して網羅的かつ詳細だ。「対等関係であると言いながらカウンセラーが知る者、導く者として上位にあり、クライアントが悩みを抱えた至らざる者であるとして下位に置かれていることは自明の構図である。」とか、『クライアント側の問題のみを見つめさせ、最初に問題提起されたものに目を向けさせないようにしてしまうのが「問題を設定をすり替えてしまう技術がカウンセリングではないか。』等かなり辛辣な意見・見解を述べている。読み進むか、即刻、受検勉強に戻るか思案中だ。

リベラル

2011年10月29日 13時30分27秒 | Weblog
個人主義に根差した民主主義体制を信奉します。John F. Kennedy " So,my fellow Americans,ask not what your country can for you -ask what you can do for your country."ジョン・F・ケネディの「松明はアメリカの新しい世代に手渡された」("The torch has been passed to a new generation of Americans") という有名な演説の一節です。新しい民主制の方向性を示しています。"A new frontier"の演説もいい。政治には若さが必要です。

信仰

2011年10月29日 13時27分27秒 | Weblog
原始仏典「ブッダ最後の旅」がいつも手元にあります。 神格化される前の人間ブッダの思想が肌に合います。 「マタイによる福音書」の英語版をよく読みますし、 「コーラン」和訳も興味深い。儒学から学ぶことは多い。 「大学 中庸」や陽明・孔子を暇な時に読みます。 当面、新興宗教には興味がありません。 宗教に纏わる奇跡についてはヒュームの分析に近い。 伝統的な既存宗教や新興宗教とは一定の距離を置いています。無神論者でもありません。

光陰

2011年10月28日 21時34分02秒 | Weblog
今週5日間の仕事が終了した。この仕事に就くまでは、1週間で仕事が終わるとか、今日の仕事を今日中に終えるとか、そういう種類の仕事で報酬を得たことがなかった。営業は通常は一週、一か月、一年間の単位で仕事をする。

営業から末端の公務員に転じてはや2年になろうというのに、いまだに公務に違和感を覚えることがある。「昔は昔、今は今」と割り切ればよいのだろう。ところが、頭で割り切れても何十年もかけて体で憶えた習性をそう易々と変えることはできない。「光陰矢の如し」を思う。

「光陰矢の如し」とは「月日がたつのは早いというたとえ」なのだが、さて、光陰とは?光が太陽で陰が月だから日月は、月日という意味になる。「月日矢の如し」じゃ軽い。「光陰」であれば厳かな表現になる。

光陰の意味をもっと深く知りたくなったので自慢の「日本国語大辞典全20巻」に当たった。光陰という語は続日本書紀や正法眼蔵、沙石集、李白や朱熹が「月日」という意味合いで使用し、謡曲では「光と影」という意味で使用されている例が引用されている。「光陰に関守なし」「光陰の矢」「光陰の矢文」とは暦のことだし、「光陰人を待たず」といった用例が掲載されていた。

暇疲れ

2011年10月27日 21時05分42秒 | Weblog
仕事が暇だ。こういう時には読書に限る。雇用保険法、職業能力開発法、求職者支援法と片っぱしから読み飛ばす。新しい制度の施行に伴って手渡された160ページ余りの「要領」は職務の手引書だから熟読を要する。これがけっこう疲れる。

ついで服務規程すれすれのところでキャリコン(キャリアコンサルティング)関連のテキストを読む。「キャリア・カウンセリングのシステマティック・アプローチ」という日本語だか米語だかよく解らない部分が使える。技能検定にも効きそうだ。

それにしても暇疲れは予想以上に疲れる。根が貧乏症だから余計疲れる。明日出勤したら土日の2連休だ。休日だけが楽しみという哀れな人間になり下がってしまった。随分堕落したものだ。野菜の水やりを4日ばかり怠っている。土曜の早朝は菜園にでかける。倦怠感を吹き飛ばす。

安藤昌益

2011年10月23日 08時44分01秒 | Weblog
             狩野亨吉

「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」の上巻を読み終えた。カナダの歴史学者による英文著作の翻訳であるにしても、随分と内容が粗雑だ。さまざまな文献をつなぎ合せて、かろうじて江戸時代の封建制や安藤昌益の思想に迫りかけている。しかし、日本の学者の研究に遠く及ばない。しかも、昌益の発掘という意味では狩野亨吉というかなりエキセントリックな先駆者がいる。私は狩野亨吉の方に興味を覚え始めた。


以下ウィキペディア(フリー辞書から引用

狩野亨吉
久保田藩(大館支藩)(現秋田県大館市)の藩士で代々学者の狩野家に生まれた。父、狩野良知。明治7年(1874年)父が上京(内務省へ)、明治9年(1876年)、母と共に上京。番町小学校を経て、明治11年(1878年)東京府第一中学(現在の都立日比谷高校)変則科に入学。同級に親友の澤柳政太郎、松崎蔵之助、岡田良平、上田萬年、幸田露伴、尾崎紅葉がいた。のち、教育令改正のため、第一中学から新制 大学予備門(のちの一高)に繰上げ入学した。明治17年(1884年)大学予備門を卒業し東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学)理学部に入学。明治21年(1888年)帝国大学理科大学数学科を卒業し、翌年に帝国大学文科大学哲学科2年へ編入。明治24年(1891年)同哲学科卒業。在学中、英文科在学中の夏目漱石と親しくなる。その後、大学院入学。教育者の道を歩み、明治25年(1892年)金沢の第四高等中学校教授となる。明治27年(1894年)退職。明治29年(1896年)漱石の招きで熊本の第五高等学校に赴任。

明治31年(1898年)34歳の若さで第一高等学校の校長(1898-1906)となる。夏目漱石が英国留学後、一高講師になったのは狩野の推薦による。また、理科から文科哲学へと若かりし日の狩野と類似の軌跡を辿った田邊元なども教え子。名校長の誉れが高く、一高の校風はこの時期に確立したといわれている。後任の校長(1906-1913)は、新渡戸稲造であった。

明治39年(1906年)京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)。内藤湖南、幸田露伴ら正規の学歴がない民間学者を京大に招き、波紋を呼んだ。英文科に夏目漱石を招くことも強く望んでいたが、漱石は拒絶し朝日新聞社に入社した。ただ、その後も交友関係は続き、漱石の葬儀にあたり友人代表として弔辞を読んでいる。

明治40年(1907年)文学博士。翌年、先述の人事などでの文部省との軋轢や健康の悪化などから神経衰弱を理由に辞職、東京に戻る。以後、学校関係の定職にはつかなかった。大正12年(1923年)東京市小石川区大塚坂下町の長屋に「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、書画や刀剣の鑑定などで生計を立てた。浮世絵や春画の蒐集家としても有名で、改造社社長の山本実彦からは「春画蒐集にかけては日本一」と折り紙をつけられた。また、浮世絵研究家の金子孚水は「浮世絵の秘画の収集は世界最大のもの」と評している。自ら絵筆を執って描いたあぶな絵も数百枚に及ぶ。これらの自筆の絵に合わせる形で、ノート30冊のポルノ小説を遺したことも知られている。

狩野の学識を惜しむ沢柳政太郎から東北帝国大学総長に推されたこともあるが拒絶。山縣有朋や浜尾新の意向で、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育掛に推されたこともあるが、「自分は危険思想の持ち主である」として拒否した(安藤昌益の思想に共鳴しており、将来の共産主義実現を予測、そのため内心では天皇制に反対していたらしい)。

一高在任中の明治32年(1899年)江戸時代の思想家安藤昌益の著書『自然真営道』を見出し、昭和3年(1928年)『岩波講座 世界思潮』第三冊誌上に「安藤昌益」を発表し紹介。また、天津教古文書のいわゆる竹内文書について文献批判を行い、昭和11年(1936年)6月、岩波書店『思想』誌上で「天津教古文書の批判」を発表し偽書であることを証明した。なお、昭和17年(1942年)天津教の裁判に検察の証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷している。

明治45年(1912年)から大正2年(1913年)にかけて、10万点以上の貴重な蔵書を東北帝国大学に売却。この蔵書は、同大学図書館に狩野文庫として所蔵されている[1]。また、東京大学駒場図書館にも、狩野文庫として亨吉の日記・来翰が所蔵されている[2]。

生涯独身で、童貞だったとする説もある。生前には一冊の著書も刊行しなかった。多磨霊園に葬られている。



文献 [編集]

安倍能成編 『狩野亨吉遺文集』 岩波書店、1958年。
青江舜二郎 『狩野亨吉の生涯』 明治書院、1974年。のち中公文庫、1987年。
鈴木正 『狩野亨吉の思想』 第三文明社〈レグルス文庫〉、1981年。のち増補版、平凡社ライブラリー、2002年。

E Herbert Norman

2011年10月22日 09時03分20秒 | Weblog
                    ノーマン   



それにしても昨夜はよく降った。携帯傘だった。宴会帰りの夜道ではずぶ濡れになってしまった。楽しい会合だったので心まで冷えることはなかった。10月の雨は身に優しい。

気にとめていたノーマン著「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」上下(岩波新書アンコール復刊)を手に入れた。紙屋町の地下街「シャレオ」で開催された古本市の最終日、しかも、市が終る直前になってこの本が目にとまった。やや高めであると知りつつ新本同様のこの本を買い求めた。あとでamazonで確かめてみたら相場価格だった。丸山真男あたりが持ちあげたせいもあってこの思想家は人気がある。

著者 E Herbert Norman (ハーバート・ノーマン) 1909~1957
『第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、現地の平和維持と監視のための国際緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI調査官によるアメリカ上院における証言によって共産主義者との疑いを再度かけられ、1957年4月4日にカイロで飛び降り自殺を遂げた。』
ウィキペディア(フリー辞書)

痴愚神礼讃

2011年10月15日 19時52分46秒 | Weblog


軽妙な語り口は「白鯨」や「ドン・キホーテ」に通じる。重いテーマを軽くしかも興味深く説いてみせるのは才能のなせる技だ。世界史では「愚神礼讃」と憶えた。担当の世界史の教師は、「まあ、あの時代にキリスト教をこき下ろしたのだからたいしたものだ。」的なことを言ったように記憶している。

エラスムスは、「ルネッサンスの爛熱と宗教改革の嵐の中で、激動する政治社会に横行する人間の痴愚・狂気に対し痛烈な風刺を放った。『世界の名著 渡辺一夫』」そうそう、渡辺さんはかの大江健三郎の恩師筋に当たる。その恩師筋も「ドン・キホーテ」と「痴愚神礼讃」が愛読書だそうだ。エラスムスに興味は尽きない。

「猿の惑星」

2011年10月14日 20時41分25秒 | Weblog
最近の天気予報はよく外れる。降ると予報しておいて降らないことが多い。昨日は念のために菜園にでかけて、夕闇の中で水やりをすませた。そして今日の夜明けを待って肥料をやり、土寄せをして、降水に備えた。天気予報は外れなかった。午後に入ってから恵みの雨が菜園をうるおした。

翌金曜(今日)は休暇だ。土日とあわせると3連休になる。菜園の作業をすませたら映画を見たくなった。シネマコンプレックスで「猿の惑星 創世記」を鑑賞することに決めた。娯楽作品にしては骨太で、文明風刺が効いている。行き詰ったアメリカ文明の姿を映像で再現した秀作だ。久しぶりにいい映画を見た。

教訓

2011年10月10日 20時34分25秒 | Weblog
菜根譚 五四
心を洗い清めさっぱりとして、そこで初めて書物を読み古聖賢の道を学ぶべきだ。でないと、ひとつの善行を見るとそれを口実にして利己的なことを計り、ひとつの善言を聞くとそれを借りてわが欠点をとりつくろう口実にする。これでは、敵兵に武器を貸し、盗人に食料を与えるような利敵行為になる。

奇跡

2011年10月10日 19時35分00秒 | Weblog
ヒュームによれば、奇跡とは「自然の法則に対する侵害」のことであり、厳密には「神の特別な意思あるいは何らかの目に見えない発動者の介在による自然の法則に対する背反」と定義される。奇跡は、それを目撃した人の証言によって伝えられる。奇跡は証言や証拠にもとづいて証明されるのであろうか。

① 歴史全体を通じて、十分な良識や学識を備えている数多くの人びとによって確言された奇跡はない。②論証が対立する場合には、過去におけるより多くの観察に適合するものを選択するという原則がある。③すべての超自然的で奇跡的な報告が、主として無知で野蛮な人びとのあいだに多く認められる。④超常現象の証言は、無数の証人によって反対される。即ち、奇跡は証言の信用を破壊するのみならず、証言そのものが自己崩壊している。

ヒュームの論証は、「人間知性研究」第10項として1758年に出版された「奇跡について」は出版当初は黙殺されたが、やがて熱心な神学者たちによってとりあげられキリスト教宗教界の基盤を根底から揺るがすことになった。

増谷文雄

2011年10月08日 21時25分22秒 | Weblog
増谷文雄著「仏陀 その生涯と思想」(角川選書)では、ブッダの臨終の言葉の一部を「諸行は懐法である。」訳している。諸行無常(中村元は「ブッダ最後の旅」の訳で、「もろもろの事象は過ぎ去るものである」と表現している。)という表現は知られている。聞きなれない『諸行懐法』という言葉の意味を調べざるをえなかった。

増谷訳には「えほう」とふりがなまでふってある。角川漢和中辞典の「懐」に『懐法』という用語例はない。また、「懐」を「え」と読む用例もない。ところが、道元の弟子で正法眼蔵随聞記を著した「懐奘」の名は「えじょう」だ。ようやく漢語林(大修館書店)で引いて呉・人で「え」と読む場合があることを確認することができた。頭が少々混乱している。大漢和辞典に当たってみる必要がありそうだ。

ブッダは死に臨んで弟子たちにどのような言葉を残そうとしたのか、何を伝えようとしたのか、増谷が表現した「懐法」という難解きわまりない表現では把握できない。しかも広辞苑、日本国語大辞典(全20巻)にもこの語はない。増谷はこの言葉に脚注をつけていない。「仏陀 その生涯と思想」の関連がありそうな箇所を改めて読み直してみる。

2011年10月06日 21時28分47秒 | Weblog
勤務日の峠を下ってゆくほどに心が高揚する。頭の中からすっかり仕事を追い出すことができる、金曜日のアフターファイブを思う。あとは3日の休日が秋色の装いで待ち受けている。

菜園にハクサイと赤玉ねぎ、ニンジンに、できたらレタスの種を撒く。

イギリス経験論の理解が捗らない。ヒュームの「人性論」を引き続き読む。「マタイの福音書」「徒然草」を読み返しておきたい。この仕事に就くまでは仕事と読書がどこかで固く結びついていた。今では読書と仕事が結びつくことはまれだ。よい傾向だと思う。読書をひとり楽しむよい季節が訪れた。

モード

2011年10月04日 21時16分13秒 | Weblog
明日の昼過ぎに1週間の平日勤務の峠を越える。祝日や有給休暇がなければ平日は5日間続く。日に7時間半労働だから、1週間の累計では週37時間半の労働ということになる。37時間半を2で割れば、上りと下りの分岐点がちょうど明日の13時15分(水曜の13時15分)に当たる。ここまでは上って明日(水曜日)の13時15分からは下る。2年と3カ月ばかりこういうイメージで力の配分をやってきた。平日の上りでは仕事に集中する。下りでは徐々に仕事を緩めて金曜日には休養モードで軟着陸をする。随分暇な計算をしてひとり悦に入っている自分を思って可笑しくなる。