明治維新関連の中公新書を、すでに20冊余り購入している。解説は並べて平明で、いづれも似たような史実を背景にしている。維新に大きくな影響を与えたイギリス・フランス・アメリカ本国の戦略に切り込んでいないし、近隣の中国・朝鮮の内情には殆ど触れていない。確かなのは、断末魔の権力であった江戸幕府を追い込んだのは西郷や木戸ではない。薩長土肥を盟主とする諸藩であったということだ。諸藩の内情をさらに掘り下げる。
六日出勤後の二休、それから四日出勤というのはきつい。今日がその四日目の金曜日にあたる。健康診断があった。採血を済ませて身長と体重を測ろうとしたら腕から血が滴っている。かなりの出血なので回りが心配して止血してくれた。看護師さんが飛んで来るまで気が付かなかったからワイシャツは血まみれで、床には十数滴の赤い血を見て取れた。掃除と処置のあとで皆さん「血圧が高いから、きっと採血した血管から血が噴き出したのよ、ふふ。」「気分が悪ければ少し休んでいかれたら?すぐ治りますよ、ほほ。」とかなんとか呑気なことを言っている。血を抜くと血圧が下がるという古い治療法もあるようだから流血なんて全く気にかからない。滴る血の処置を受けながら床に落ちた血の滴数を数える妙な余裕もあった。こちらだって能天気なものだ。(以上で血という文字を15回使用、記事が血だらけになった。)
懸念していた血圧は高めにでた。再検査を願い出たら更に高く出た。気を悪くしたので次の検査を済ませてから3度目の測定を試みた。事態に追い打ちをかけるような悪い数値になってしまったので観念した。今思えば、バリウムを飲んであっち方向こっち方向に散々転がされた挙句に数分の休憩で測定して良い数値になりようがない。体重はめでたく70キロを切った。腹囲も例年並みの数値だったので大筋では満足している。それにしても、わたしが健康診断を受ける場所場所で笑いの渦が巻き起こった。健康診断を終えて、根っからのひょうきん者であることを改めて自覚した。
海沿いの学園は就職の季節だ。校外から目が眩みそうな熱いメッセージが届く。舵を取るクライエントの傍で私は地図を読み、重い期待に応えるために汗を流す。わが家に着くと、庭の片隅でオリーブの花が微笑んでいる。オリーブには勢いがある。
早朝から頭が鉛色でどんよりしていた。眠気覚ましに熱いコーヒーを飲むと自分が蘇ってくるようだ。さらに軽いストレッチをして眠気に追い打ちをかける。朝方から雨が降る。「微分」で遊んでみたら頭がシャキッとしてきた。
今日は金曜日だから心待ちにしていた土・日に心も弾むハズだった。生憎急遽、明日の土曜日は出勤で日曜と月曜が休日になってしまった。今となっては他人様が働く月曜に休むことに密かな喜びを覚えている。他人様が働く平日に書斎に籠ると想像するだけで気分が晴れる。
書斎で横になる場所を確保するためには書庫が必要だ。大型のストックハウスを買うか自分で書庫を建てるかいまだに定まらない。本の風化も始まって書斎の空気が悪くなってきた。つい最近、「いつごろまで働く予定か?」と問われて、躊躇なく「死ぬまで働く!」と答えた。書斎では寛ぎたい、本の置き場と良い空気を確保するために本の移動が緊急の課題だ。
よく整理されたレジメに沿って淡々と話した。声は籠って小さい。私が知る限りよく喋るし、相対では勘が鋭くて押しが強い。雄弁な女性じゃないかと思っていた。予想は外れた。彼女は原稿で道筋をつけ、懸命に言葉を選びながら講演を続けた。
開演前の打ち合わせで、「ぶっ倒れたら、後はお任せしますね。」と言われていた。あれ?っと思った。約50分間の講演を終えた彼女の顔から微笑みがこぼれた。深い安堵を感じた。このひとは信頼できる話し手だと思った。
就職支援を使命とする職員なのだから、生徒と対話をする機会を増やしてゆく。場合によっては積極的に教職や生徒に働きかける。主役は生徒ひとりひとりだ。就職のシーズンが間近に迫って学校が動き始めた。今年の夏は忙しくなりそうだ。
昨夕はフタバ図書の中古本を漁った。小島慶三著「戊辰戦争から西南戦争へ」(中公新書)を中公新書版「明治維新前夜の群像」シリーズの補足本として躊躇なく買った。森健著「グーグル・アマゾン化する社会」(光文社新書)については昔買ったような記憶がある。所在が定かでないので買い足しておくことにした。阿川弘之(阿川佐和子の父)著「高松宮と海軍」(中央公論社)の隣に、同じ阿川著で美本の「雪の進軍」(講談社)がころがっていたので2冊とも買った。昔取った杵柄、故あって数学を教えている。最後に「大学入試センター 過去問題集 数学Ⅰ・A/Ⅱ・B 2014年版」(代々木ライブラリー)で漁りを終えた。
予想通りというべきか、「戊辰戦争・・・」と「大学入試センター・・・」以外は(「グーグル・・・」は読んでいない。)つまらない本だった。「戊申から・・・」は、木戸孝允、大久保、西郷の確執を軸に西南の役を解明する。確執の原因に迫るほどに、どこかの大企業や役所にありそうな現代的な権力闘争にみえてくる。当時の志士たちが受けた教育と、現代人のそれとは根本的なところが違うし、歴史的・文化的な背景も大きく異なっている。同じシリーズで、史的唯物論の視点から幕末の長州藩を描いた「幕末の長州藩」と比べてみても、経済的な視点を欠いた「戊辰戦争から西南戦争へ」は歴史的な視点からの切込みが浅いように思う。
心を澄ませば自然やひとがあるがままの姿で心に映るのじゃないか、ひょっとしたら他人の心が読めるかもしれない、社会を解読できるかもしれない、と脳裏に閃いた。さっそく今朝から心を澄ましてみた。何のことはない、澄ました瞬間から塵芥のような情報や雑用が脳裏を暴走して止むことがない。心が安らかになってゆく夕暮れ時になって、小雨に佇む青い紅葉が目に染みた。あの境地に達するためには仕事を捨てなきゃならないのか。
村上秀著「論文捏造」(中公新書ラクレ)は、たまたま「言論統制」の近くにあった。10年余り前にアメリカの名門、ベル研究所でおこったチーム・リーダー、シェーン博士(当時29歳)による論文捏造事件を取り上げている。この事件は明らかに理研、小保方さんの例と似通っている。2006年に発行されたこの新書が昨日の朝日新聞で取り上げられていた。
働くことの意義や企業の実態についてかれらよりも知っている。だからといって、こちらの社会経験や知識を盾にしてかれらを諭すとか説得するとかいう手法は採らない。かってわたしがそうだったように、かれらは働くことの意義や企業の実態に触れていない。したがって、わたしの務めは、諭したり説得したりする前にかれらの話に耳を傾けてあげることじゃないかと考えている。聴いてくれる他人がいるだけでかれらは輝き始める。自らの手法を自覚してゆく。