旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

学園紛争

2006年01月29日 00時02分15秒 | Weblog
未熟なわたしはヘルメットをかぶるどころか、学ランを着て、セクト同士がどつきあうのをただ眺めていました。凄まじいどつきあいをやっていましたよ、連中は。わたしの同級にも嵌ったのがいて、「自己批判しろ!」なんてわめきながら、元裁判官の教授を追い回した挙句、どつくのがいました。件のあいつ、今頃どうしてるんだろ?

世代論でいうと、一般に若者は潜在的に暴力的ですから、口実さえ与えればすぐに顕在的に暴力的・威嚇的になるようですね?残酷にもなります。でも、昨今「理由なき反抗」に走る若者たちについては、徹底的に取り締まって、くさい飯を食べてもらうのが一番の薬じゃないかと考えるようになりました。どうやら、理念のない暴力に心底苛立つ年齢になってきたようです、いやだ、いやだ。

学園紛争当時も、どちらかというと腕っ節が強そうでドグマにはまり易いのが、オピニオンをリードしていました。企業の仕組みを受け入れて自己否定すれば、たちまち企業戦士に早変わりというわけです。

入ったのが、名目上は法哲学なのですが、現実にはマルクス主義法学と労働法のゼミで、いきなり「資本論を読め!」で面食らいました。「経済学批判序説」でお茶を濁しましたが、この本を読んだことによって学問の何たるかについて多くのヒントを得ることができたように思います。多分「怪我の功名」というやつでしょう。

スペイン語

2006年01月29日 00時00分38秒 | Weblog
一昨日、ブックオフで、英語ではないアルファベットの単語で綴られた本に遭遇しました。妙なことに、読み進むにつれて意味がおぼろげながら把握できるのです。特に哲学思想系の単語の意味が通じ易い。表紙を眺めて納得できました。スペイン語で書かれたアリストテレスの「二コマコス倫理学」だったのです。そもそも哲学・思想系の単語はギリシャ・ローマのラテン系が起源、スペインもラテンですからさもありなむ。
フリオ・イグレシアスが好きですから、いっちょスペイン語をものにして歌ってやるか、待てよ、好きな「ドンキ・ホーテ」を原文で読んでみようかなどと妄想しているうちに、約束の酒宴が始まって、いずれもつかの間の夢に終わってしまったようです。

近況

2006年01月25日 22時43分49秒 | Weblog
8年前にタバコをきっぱりとやめたように、そろそろアルコールをやめようかと思っています。まず、いくら呑んでも酔わないから何のために高いクラブやスナックで呑んでいるのかわからない。そもそも、そこいらの男どものように飲み屋のおねえちゃんには、まったくといってよいほど興味がない。だからといって、男に興味があるわけでもない。ならば、好みの酒をディスカウンターでたくさん買いこんで、ひとり酔いしれた方が合理的だ。しかし、嫌いな方じゃないから、日々酔うほどに呑めば、数年もすれば、間違いなくりっぱなアル中になる。合理的に考えると、タバコと同様にアルコールというものは悪魔のような嗜好品のひとつなのだ。

異邦人

2006年01月22日 18時35分16秒 | Weblog
「安楽死」って人類にとっては意外に普遍的な問題なんじゃないでしょうか?キリスト教世界には天国があるように、仏教にも浄土思想があります。

アルベール・カミユはその著作「反抗的人間」で、殺人には「衝動的殺人」と「論理的殺人」のふたつの種類があるという書き出しで、彼のいう「反抗的人間」について述べています。
論理的殺人とは、文字通り相手を殺すことが合理的な殺人であって、かなり飛躍しますが、個人主義が蔓延する近未来で、自らの意志を貫徹するための殺人というものは一定の個人的な論理性を備えているであろうから、殺人者を裁判官が裁くのではなくて、逆に、殺人者が裁判官を裁く妙な事態になるであろうという予見をしています。確かに、最近の犯罪にはこのタイプが多いように感じます。

安楽死の実行なんて典型ですよね?生きている者を殺すのですから安楽死は殺人です。しかし、一定の要件を備えた安楽死殺人の場合、その責任を問わないが故に、逆に裁く側がその責任を問わない理由に答えなければなりません。だから、立法化が急がれるのではないでしょうか?
だけど、法によって殺人罪を免責する根拠を論理的に証明することって難しいでしょうね?安楽死を実行する者は論理的殺人者、つまり典型的な確信犯なのですから。安楽死殺人の場合、判例法ではどのような判断を下しているのでしょう?

自らの意思が機能しているうちは、他人の意思でもってわたしの生死与奪の議論はして欲しくない。医学的にみて人間としての意思を完全に失ったら、焼くなり埋めるなりお好きにどうぞってことになります。だって、何が起こっているのかわたしには解らないのだもの。
われら凡俗には、この境界を裁量することは多分できないことでしょうね。だからこそ安楽死は、究極のところ神様、仏様が決定する領域なんでしょうね?人間の英知にも限界ってものがあるのですから。

難問

2006年01月14日 21時55分39秒 | Weblog
なぜ人を殺してはいけないのか?と問われると言葉に詰まります。ざっくりと「人を殺してはいけないのだ」ということを前提に話を進めます。

国権の発動としての戦争を、異なる国民・民族(近代国家はその殆どが民族国家ですね?)相互の殺し合いであるとみるかどうかで、結論がかなり違ってくるように思いわれます。もちろん戦争には人を殺しあうという側面もありますが、単なる殺し合いじゃないことだけは確かです。教科書どおり、国家の意思もしくは国民の意思(民主国家の場合)とでも言うのでしょうか、政治の延長線上に戦争があるのだと解釈します。

すると、戦争中の「無差別殺戮と安楽死を行うこと」との間にはおのずと大きな因果の差があります。
安楽死の対象となるひとは特定されており、行うひとだって医師であれ身内であれ特定されているのです。個人的な行為であるということになります。
一方、交戦中の軍隊ならなお更、上官の指揮命令に従わない場合、将兵が銃殺刑に処せられることだってありうるわけです。勝利のためには無差別殺戮だって行われます。殺戮は個人的な事情によらず、組織的に行われます。

だから、ひとを殺すことは悪いことだという前提に立つと、安楽死であろうが戦場での殺害、殺戮であろうがいずれも、先験的に、いけない誤った行為であるということになります。人道上も許されない行為であるということになります。軽重の差はありません。ひとひとりの生命は地球よりも重いのですから。


快楽病

2006年01月11日 21時35分18秒 | Weblog
人工透析病院を経営する敬愛する先生から興味深い話を聞いたことがあります。命にかかわるから、暴食はやめなさいと指導する。患者さんは平気で暴飲を繰り返す。そこで、家族の協力も得て家庭内でも監視する。すると、外食で暴飲を繰り返す。仕方がないから入院させる。ところが好物を病院に持ち込んでやはり暴飲を繰り返す。医師として怒り心頭に達して、そんなことを繰り返していると死んでしまいますよと叱責する。すると患者さん、しかられた子供のようにしょげかえった風をするが目は笑っている。こういう患者さんって最後には決まって、どうせ死ぬのだから、うまいものをたらふく食って死にたいと平然と返すのだそうです。
この患者さんのように何でも自分に快感を与えることに流れ、自分をコントロールできない患者さん、透析患者の何割かを占めるこういうタイプの患者さんのことを、先生は「快楽病患者」と呼ぶそうです。そして、こういうタイプの患者さんには、死に対する恐怖感というものが希薄なのだそうです。

パターナリズム

2006年01月11日 21時34分13秒 | Weblog
今月号の「月刊現代」で立花隆と「脳外科の最高権威」片山容一日大教授が対談をしています。

片山教授
『患者の最善の利益の決定の権利と責任は医師側にあり、医師は自己の専門的判断を行なうべきで、患者はすべて医師に委ねればよい。』こういう考え方を医学用語でパターナリズムといいます。患者の利益になると思われることをする。それ自体は正しいと思います。しかし誰が患者の利益を判断するのか。医者が判断するのであれば、医者の独善に陥る恐れは常にあります。医師の善意による行動が、結果として患者の不利益になった例は枚挙にいとまがありません。・・・パターナリズムが医療の核心であるから、究極的にはその医者を信じるのかどうか、すべてはそこにかかってきます。患者としては、担当医がこの方法こそが最善であると信じているならば、わたしはそれに同意しよう。結果的にそれが正しくなかったとしても、甘んじて受け入れる。結局はその一点に尽きる。
だからこそ医者は、この原理を重く受け止めて、独善に陥らず、常に自戒して、拡大解釈を許さないように努めなければならない。

禁じ手の「まるごと引用」で申しわけありません。治療継続かホスピスか、このあたりの判断はお医者さんに任せるしかないようですね。

お医者さん

2006年01月11日 21時32分22秒 | Weblog
頭から血が噴出して止まらない患者の治療を終えたばかりの医師からこういう話を聞いたことがあります。
「さっきの患者さんは頭蓋骨を骨折しており、未だに、痛い痛いと呻いている。でも、その痛みは人体が受容できないほどの痛みだったろうから、患者さんご自身は痛みを感じていない思う。
人体というものはよくできていて、頭上で原子爆弾が炸裂しても、その爆音は聞こえないし凄まじい閃光はみえない。同様に人体は、許容できないほどの痛みを感じないようにできている。
患者さんは今、痛いという夢をみてうなされているにすぎない。痛みを感じ始めると、驚嘆して麻痺した痛みを感じる脳の機能が回復し、やがて治癒に向かうということになる。」
こういう話は、激痛というものに対して恐怖感をもっているわたしのような者を癒してくれます。死の恐怖をいくぶんか和らげてくれます。

「痛みの中枢は脳のここにあります。ここを切開すると痛みを感じなくすることだって可能ですよ。でも、メスがすべると言語障害になる可能性もあります。脳のここらを針でつつくと白昼夢を見ることができます。お望みの夢を見ていただけるかどうか、そこまで医学は進歩していませんが。」
天皇裕仁の例を待つまでもなく、医者の処方によって患者の死亡時期は調整できます。だから、単に延命のためだけの治療をやめれば人は楽に死ぬことができるということになります。見ず知らずの他人の意思に左右されるような安楽死は嫌ですから、わたしは信頼できるホームドクターに最後の判断をゆだねています。また、医者の殆どは、患者の安らかな死を望んでいると考えています。

狭間

2006年01月08日 18時05分39秒 | Weblog
故あって自分が生まれた町の歴史に興味を持ちました。官制町史によると、わが町は室町から戦国にかけていわば権力の緩衝地帯に位置し、支配者がめまぐるしく変わったためか資料が欠落していて、どのような統治がなされたのか定かでありません。
それでも当時の農民たちは、農作業に明け暮れていたわけで、収穫した米やら根菜類をどのようにして生活に必要な物資と交換していたのか、また、めまぐるしく変わったといわれる支配者たちは農民たちにどのような賦役や負担を課したのか。
教科書では取り上げられることのないであろう権力の狭間に置かれた農民の生活史、というものに興味をそそられて飽くことを知りません。藩史や市史、県史を紐解いて大筋を把握してから、当時の農民の生活史に迫ってみたいと思います。

未必の故意

2006年01月08日 18時00分11秒 | Weblog
例えば、思想とか宗教関係で多いように思うのですが、「資本家を殲滅せよ」とか「武士道というは死ぬこととみつけたり」とか、「生きながらにして死ぬ、即ち死をも乗り越える尊い悟り」等々、こういう類の教えなり思想なりを唱える宗教家や思想家は巷に溢れています。
これに洗脳されてお金持ちを殺害したり、自殺したりする信者や門弟が出てきた場合、やはり宗教家や思想家たちは未必の故意によって刑事訴追を受けることになるのでしょうか? 最近ではオウム真理教の事件、遠くは全共闘まで大事件中小事件を含めて、例は結構多いように思われます。
説法なり教育をしていると、ひょっとして誰かが真に受けて人を殺しかねない、自殺に追い込まれかねないくらいの認識は、宗教家や思想家の側にもあると思われます。そういう蓋然性が認められるから未必の故意、そうでなければ正真証明の故意であるということになります。

天馬が音也に自然保護というある種の思想を吹き込んで、自然破壊をもたらであろう裏地の売却を進める兄を殺害させることと、精神科の医師や心理カウンセラーが音也に催眠術をかけて殺人を実行させることとは根本的に違うように思います。
催眠にかけて殺人を実行させたのならば、医師たちが殺人罪に問われることは間違いないでしょう。しかし、もともと兄に殺意を抱いていた音也に向けて、天馬がたまたま完全犯罪のヒントを与えたくらいで、殺人教唆の責任を追及するには無理があるように思います。

暗示と催眠との間の程度問題だという話になれば、また振り出しに戻ってし合うわけですが。

昨日のことです。上司に対して、「お前はそれでも日本男児、侍か?お前のようなできの悪い上司は腹を掻っ捌いて死んでしまえ!」と言ってしまいました。上司が腹を掻っ捌いて死んでしまったら、やはりわたしは何らかの犯罪を犯したことになるのでしょうか

過失と故意

2006年01月08日 14時50分29秒 | Weblog
飲酒運転が、ひとの生命や財産を脅かす反社会的な行為であることは周知の事実です。飲酒運転の危険性については、さまざまな形で警告され、飲酒が原因の事故で多くの尊い命が失われています。それでもなお、未だに酒を飲んで運転するひとが後を絶ちません。飲酒運転をする輩は、飲めば事故を起こしかねないということを知ったうえで車を運転していると判断せざるをえないというわけです。

「お上からは、正体が知れなくなるといけねえから酒を飲んで車を運転しちゃあならねえって沙汰だったろ?度重なる沙汰にもかかわらずお前さん、飲めばこうなると知って飲酒運転をして人様を殺めたのよ。
よく考えてもみな、仏さんを撥ねたときには確かに、酩酊していて何がなんだか記憶にもねえことくらいはこっちにも想像がつこうっていうものよ。でもなあ、飲む前のお前さんは素面で、飲めばどうなるかぐれいのこたあ承知だったはずじゃねえのかい?
しかも飲む飲まないはお前さんの腹ひとつ。だからお前さん、今回は厳しいお仕置きが避けられねえってことよ。ついうっかりだのなんだのと、見苦しい言い訳はもう通用しねぇぜ。
今となっては、わざと仏さんを殺めたと疑われても、お前さんには申し開きのひとつもできねえだろうこたあ、お天等さまもお見通しでえ!素直にお縄をちょうだいして、お上の沙汰を待ちねえ!」
(遠山の金さん風・・・)

「原因において自由な行為」では、飲酒が故意であるか過失であるかによって、飲酒から違法行為までの全行為によって、故意か過失かが判断されます。「未必の故意」による故意にしろ、「原因において自由な行為」における故意にしろ、飲酒運転は故意であるという推定を前提にした立法がなされ始めているということでしょうね?

免許を取得して1ヶ月目に一回、現在の会社に入社して半年目に一回、酒気帯び運転で免許の停止を受けました。でも、最近では飲んだら乗りません。


ジョージ・ソロス

2006年01月08日 11時52分08秒 | Weblog
やはり経営者でもあるのでしょう、ジョージ・ソロスを挙げます。ポパーの言う「開かれた社会」をテキストにして、隠蔽された非合理な経済現象を白日の下に晒し、投機という手法でもって、現実と期待値との落差を是正しようとしました。結果、金融資本の怖さと凄まじさを広く世界に知らしめることになりました。

林達夫

2006年01月08日 11時51分02秒 | Weblog
知識人なら林達夫を挙げます。
「共産主義的人間」で著名な評論家です。
深い学識に裏付けられた的確な切り口。
文章も明晰で解りやすい。
文明論から文芸、
思想・哲学から宗教論に至る守備範囲の広さ。
林達夫全集を手に入れた時には、
思わず身震いしてしました。