旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

「ブッダ最後の旅」

2011年09月29日 19時58分49秒 | Weblog
今日は久しぶりに、通勤列車の車中で「ブッダ最後の旅」に目を通した。読むほどに心が落ち着いてくる不思議な本だ。ブッダが亡くなるまでの旅路については、かなり詳しい伝承がある。私がテキストにしている岩波文庫版は本文170ページ訳注130ページだ。訳注の方がかなり活字が小さいので量的には訳注の方がボリュームがある。神格化される以前の、思想家としてのブッダを知るにはこういう種類のテキストが好い。私のブログのタイトルは「ブッダ最後の『旅路』」になぞらえた。

ラジオ

2011年09月27日 21時19分55秒 | Weblog
ギリシャ・ローマの昔から欧米の政治家は雄弁で演説が上手い。著名なところでシーザーからケネディに至るまで、たとえばリンカーンのゲティスバーグの演説が時代を揺り動かした。ところが、古代インドや古代中国の昔から演説が上手かったと伝えられる東洋人の政治家を知らない。もっとも大戦後の東洋は東洋的とは言い難い。雄弁な政治家がいないわけではない。

秋晴れ

2011年09月25日 08時28分54秒 | Weblog
毎週日曜日は午前の10時から12時まで日本語教室のボランティアだ。加えて今日は、午後の2時30分から4時30分まで「日本語ボランティアスキルアップ講座」に参加するので、日中はほぼボランティア関連一色ということになる。講座の副題は「ブラッシュアップしよう!共に働くために~」だ。

木田元著「ハイデガーの思想」(岩波新書)をほぼ読み終えた。ハイデガー現象学の批判的摂取にとりかかろうとした矢先、本棚の奥を整理していたら、フッサール著「デカルト的省察」(岩波文庫)がでてきた。幸運な気分に満たされた。人類の知的遺産「フッサール」、同「ハイデッガー」は数年前から蔵書している。「世界の名著」と併読して早めにフッサール、特にハイデガーの迷路から脱することを心掛ける。

菜園の風景

2011年09月24日 08時52分52秒 | Weblog
隣の菜園の奥さまから声をかけられた。まったく菜園経験がないので、とにかくいろんな苗を植えているとのことだ。なんと、ここのご夫婦はジャガイモの連作に励んでいらっしゃる。ジャガイモを連作すると収獲量が著しく落ちる。お隣が石灰を撒いているところを見たことがない。この酸性土で野菜をつくるには石灰を撒いて土壌を中和する必要があるとやんわりご教授した。

お隣の菜園に実ったナスはやせ細ってナスの体をなしていない。これからでも遅くはない。石灰に肥料、水をやって根を張らすことができれば見違えるようなナスがとれそうだと考えているうちに気がついた。ナスはナス科、じゃがいもナス科、ナスのやせ細りの原因はナス科野菜の連作にあることにお隣の菜園のご夫妻は気がついていない。

ご隣のご夫妻は農業には全くの素人さんだ。仁和寺の法師がここにもいらした。まずは土いじりを楽しむ。収獲する野菜をみていただければ解る、私が農業の先達であることに気づいていただいてから、問われたら応える。お隣同志はこの程度の付き合いの方がうまくいく。誰しも、試行錯誤しながら自分が育てたいように野菜を育てる。楽しみ方はめいめいの自由だ。これが菜園の楽しみ方なのだから。

菜園の昼下がり

2011年09月23日 21時43分25秒 | Weblog
菜園を耕していると妙な日本語で話しかけられた。こちらがしゃべっていることをうまく理解できないらしい。もどかしそうに眼と身ぶりで懸命に何かを伝えようとしている。すぐに、日本語をうまく話せない中国人(残留孤児かも知れない。)であることが解った。

臆面もなく「ぼく、にほん、じゅうにねんよ。」(この日本語だけは通じた。)というので、公民館の日本語教室でボランティア講師をやっている。教室で日本語の勉強をしたらどうかと伝えようとした。ところが、公民館の意味が解らない、教室の意味が解らない、ボランティアの意味が解らない、勉強の意味が解らない。匙を投げるしかなかった。

それでも片言の日本語で話しかけてくる度量だけはもっている。しきりに何の種を蒔こうとしているのかを聞いているらしい。どうせ解りゃしないだろうと、ぞんざいに「白菜と大根」と応えたら、「ほー、ダイコンとハクサイか、ぼくもダイコンとハクサイつくるよ。」と、ようやくまともな会話になった。

ひょっとしたら話になるかと思って、身ぶり手ぶりも加えて「里芋と薩摩芋の生育が好いだろ。」と自慢してみた。人懐こそうな顔でニコニコ笑いながら、たまに眉を曇らせる。おそらくは私の話を理解しようと頭を巡らせてはいるに違いな。が、こっちが言っていることを把握できないようだ。

バジルが良く育っている。葉を摘み取って食べてみるように促した。「ひでえ、まずい。」と唸ったので、「トマトわかるか。」「わかる。」、「チーズわかるか。」「わからん。」。「バジル、トマト、一緒に焼く、美味いね。」と言うと、小首をかしげ困惑したような表情で、「にほんご、むずかしい。よお、わからんよ。」と呟きながら自分の菜園に返って行った。


言葉

2011年09月22日 22時27分03秒 | Weblog
最近、話が通じない、というよりも言葉が通じないことが多い。私はできるだけ専門用語を使わないように心掛けているし、専門用語で故意に煙に巻くことが嫌いだから、「相手をみて法を説く。」の例のように、相手によって話し方や用語、しゃべるスピードや声質までも変える。その辺りが随分、誤解を招くようだ。最近、「もっと堂々と話しなさい。」というアドバイスを受けたので困惑している。相手をみて法を説くのだから、堂々と話すべき相手には堂々と話しているつもりだ。

職場という村の方言は使わないようにしている。たとえば手交(公式な文書等をてわたすこと、直接手渡すこと)という言葉がある。「手渡す」のだから直接に決まっているし、公式な文書以外の文書を「手交した」とは言わない。だから私は、相談記録には「手交した」とは打たない(入力はWord)。「手渡した」と記録する。また、主権者である国民を相手に「である」調の文章はない。「だ」「です」調が末端公務員の行政姿勢に叶っていると思う。

同僚の女性が、宇宙ステーションから撮影された雷や流星、オーロラの映像がきれいだったと話してくれた。宇宙の話になると思わず、立花隆のノンフィクション「宇宙からの帰還」で、母なる地球を宇宙船から眺める宇宙飛行士たちの多くが、神の存在を直感したと述べていることを話したくなる。だから話した。もっとも彼女には映像の美しさほどの魅力がなかったようだ。これは単に趣味の違いで片づけることができる。

日記

2011年09月22日 21時53分39秒 | Weblog
仕事の都合で、予定していた4連休が3連休になった。来週の月曜は出勤だ。日曜は日本語教室で2時間、日本語ボランティアスキルアップ講座の受講で2時間の計4時間がふさがった。明日の秋分の日と土曜に羽を伸ばすことになる。

明日は本の整理をする。生涯にわたって読み続けるであろう本と、すっかり関心が失せてしまった本がある。残された時間は限られている。後者については捨てる。残った本の整理と埃払いで半日がつぶれそうだ。日曜日は墓参りにでかける。時間があれば、鍬で掘りおこして苦土石灰を撒いた畝に、白菜と赤玉ネギの種を蒔く。


ハイデガーの思想

2011年09月21日 20時14分29秒 | Weblog
徒然草第52段の「仁和寺にある法師」の話を引用すれば「少しのことにも先達はあらまほしき事なり。」ということになる。先達、木田元著「ハイデガーの思想」を読み進むにつけハイデガー哲学の少なくともその片鱗が見えてくるようになった。

木田によると、「ハイデガーは、第一次大戦後の焦土の上に裸で投げ出され、抽象的な理性主観としての自己をでなく、悩み苦しみ、絶望に打ちひしがれているおのれの事実的・具体的な生をまるごと問題にしうるような哲学を探し求めていた。」

「『存在論(事実性の解釈学)』という講義の序言でハイデガーは、探求の同伴者は若きルターであり、模範はルターが嫌ったアリストテレスだった。刺激を受けたのはキルケゴールであり、フッサールが私の眼を開いてくれたと述べた。」

また、「『存在と時間』は当初、<実存哲学>の原典として受け取られた。しかし、ハイデガー自身がこうした捉え方を終始拒否し、この本の狙いは人間存在の分析にではなく、<存在一般の意味の究明>にあるのだと主張している。」

連休の最終日

2011年09月19日 23時09分21秒 | Weblog
豊平の「どんぐり村」で蕎麦の昼食を済ませてから、湯来温泉や湯の山温泉まで足をのばした。湯の山温泉が浅野藩主の元湯治場で国の文化財に指定されていることを湯来温泉の案内板で知った。改築なった湯来温泉の国民休暇村「湯来ロッジ」界隈はすっかり家族向けの施設に変貌を遂げている。のんびりと散策した。自然と調和した設計に改めて感心した。川に沿った遊歩道から階段を下ると整備された河川敷に降りることができる。梅雨時には蛍が舞う。

湯来ロッジの看板に近隣の観光地として八幡湿原の案内があった。八幡湿原の温泉郡には笑った。「湿原群」の誤りだ。

帰宅後畑にでかけた。里芋と薩摩芋ともに葉の生育が良い。試しに掘ってみたらよい芋をつけている。久しぶりに畑に鍬を入れて石灰を撒いた。次の連休で大根、白菜、春菊、ホウレン草に人参、赤玉ネギの種を蒔く。それから、台風に備えて庭の富有柿の剪定を行った。サンドイッチをつまみにビールを飲んだら眠くなった。目が覚めたら10時をまわっていた。

拾い読み

2011年09月19日 06時37分21秒 | Weblog
「拾い読み」という名詞には二通りの意味がある。①文章をとびとびに読むこと。②文字を一字一字たどって読むこと。(岩波 国語辞典) ①文章中の読める文字だけを、とびとびに読むこと。②重要な部分だけを、とびとびに読むこと。(角川 国語中辞典) ①文字を一字ずつぽつりぽつりと読むこと。また、文中の読める文字だけを読むこと。②文字をとびとびに読むこと。通読しないで、重要な部分や気の向いた部分だけを選び出して読むこと。(小学館 日本国語大辞典)

「諸国民の富」や「一般国家学」、「人性論」を「拾い読み」するという言い回しに、若干の違和感が残ったので辞書に当たってみた。私が②の意味で「拾い読み」という言葉を使っていることが確認できたのでなにやらほっとした。

読書家

2011年09月18日 08時32分22秒 | Weblog
90歳を超えてなお知的な好奇心が旺盛な孤老がいる。古今東西の哲学思想、歴史や宗教に造詣が深い。ひとたび語り始めると口調はあくまで熱く、発する言葉にはよどみがない。まるで私のようだと揶揄するひともいる。しかし私はこの歳になって、ひとが抱く観念や知識の蓄積、すなわち知性の働きそのものに懐疑的になってしまった。目下ヒュームの力を借りながら知性の働きについて探求中だ。むしろ古老の対極にいる身だといわざるをえない。

孤老によれば、人は哲学、宗教、倫理等に通暁することによって知の高みに達することができる。その高みに達するために日々思索・読書せよということだ。入滅の際に「万物は移りゆくものだ。日々精進せよ。」と弟子たちに言い残した釈迦のごとく禁欲的なのだ。読むことに理由などない。楽しいから自由に読んでいる。哲学や思想関係の本を読むことが多いのは結果であって原因ではない。だから孤老と私、彼此の依って立つ読書の意義がまったく異なっている。

連休

2011年09月17日 07時45分21秒 | Weblog
9月は諸般の事情から閑散期になる。仕事が減ってくると、いたたまれなくなるのが哀しき元営業マンの性、暇つぶしに苦慮している。街頭で新制度の辻説法をやらせてくれたら、相当数の求職者に訓練機会を与える自信がある。残念ながら街頭募集は想定外だ。この種の指示はありえない。

さて、暇疲れを解消するために本日からの連休3日間をどのように過ごすか。ケルゼンの「一般国家学」とスミス「諸国民の富」、ヒューム「人性論」を拾い読み?、木田元の「ハイデガーの思想」(岩波新書)を読み終えたい。読書が義務になってくると読解力が著しく低下する。私の読書性癖に留意して、興味が持続する限り読み、興味が減退してきたら読書はやめる。

菜園のダイコン・白菜などの種まき。八幡高原(霧ケ谷湿原)を中心にした西中国山地へのドライブ、このあたりの計画が固まっている。3連休のあとに有給休暇を1日含む4連休が待ち構えているので羽を伸ばすのは次の連休にんなる、この3連休は休養を心がける。

日本語

2011年09月12日 22時01分22秒 | Weblog
日本語教室で中級クラスのアシスタントをしていたら、同じ教室で独習していた中国人の男性から声をかけられた。読解の問題で解らないところがある。教えてほしいとのことだ。面識はない。いきなりのことなので戸惑った。問題集をめくってみたら、養老孟司や池田昌子、中島義道等の文章を読んで、4枝のうちから正しい1枝を選べという問題群のうちのひとつだった。日本語の検定試験の問題集のようだ。うち養老の問題が解けないという。養老は科学者らしく、日本人が読んでも平易で解りやすい文章を書くと解説したら、中国人は敢然と養老の問題と取り組み正解を得た。

それから12、3の問題にお付き合いした。ふたりのすべての解答は一致した。1問のみが誤りだった。講師仲間の話によると滞在が15年に及んでいて、かなり日本語ができるとのことだ。初心者向けのこの教室ではややもてあまし気味だという。本人は私に、「日本語は特殊な専門用語を使う機会しかない。仕事を終えれば、中国人社会との付き合いなので日本語が上達しない。だから、日本語の検定を受けてもっと日本語能力を高めるための努力をしている。」と言う。検定を受ける究極の目的を問うてみた。確かな回答を得ることはできなかった。この中国人の日本語能力は生徒の中で突出している。1時間ほどお付き合いしてから彼と馴染みらしい講師のひとりに代わってもらうことにした。

中級コースのアシスタントに戻って授業を聞いていたら、フィリピン人の女性が講師に「べんりな」の意味が解らないと質問した。講師はなぜか私を指名して、英語で「べんりな」の意味を教えてあげてくれという。英語で「convenient」と翻訳したら、彼女は即「解った。」と答えた。私の方から、白板に書かれた「ゆうめいな」という言葉の意味が解るかと確認してみたところ、即座に「famous」と答えた。このフィリピン人女性はかなり英語ができる。

基本的人権

2011年09月11日 12時46分36秒 | Weblog
役所の中ではいまだ実感としては少数意見にちがいない。それでも、行政にとって「説明責任」がさらに重要な意味合いを持つようになってくる。こういう決まりですからという説明では足りない。なぜそういう制度・手続きになっているのかを明らかにするのが説明責任(アカウンタビリティ)の本質だ。隣接する行政について熟知しておかないと説明責任を果たしたことにはならない。

生活保護絡みの求職者が多い。私は生活保護に関わる仕事をした経験がない。したがって制度に不案内だ。これでは満足がいく行政サービスが提供できない。さっそく生活保護の制度について勉強してみることにした。

入門書として①岩田正美著「現代の貧困(ワーキングプアー/ホームレス/生活保護)」ちくま新書2007年刊、②大山典宏著「生活保護VSワーキングプア(若者に広がる貧困)」PHP新書2008年刊、③産経新聞大阪社会部「生活保護が危ない 最後のセーフティネットはいま~)」扶桑社新書の計3冊を買った。

①は学者、②は実務家、③は記者による著作なので、異なった視線から生活保護の実態を把握できる。制度を理解するには学者による著作、制度の実態を知るには実務家、解りやすさではマスコミの記者と割り切って読み続けている。

生活保護を受ける人たちに対する先入観や偏見があったことを認めざるをえなかった。また、見えなかった生活保護の実態がようやく見えてくるようになった。岩田正美は①の著作の中で、貧困層に対する日本的な社会的排除論の危うさを指摘している。

ケルゼン

2011年09月06日 21時54分20秒 | Weblog
学生時代に欲しいと思いながら買うことができなかった本がある。ラーメン代を節約しても買うことができなかったし、アルバイト代で買うにはもったいないような、そんな価格帯の本だ。ハンス・ケルゼン著「一般国家学」(岩波書店)などもそういった本のうちの一冊だ。今日「一般国家学」を落札した。

どこやらから「いまさら『一般国家学』もないだろ。」という声が聞こえてきそうだ。ケルゼンは20世紀を代表する法学者のひとりで、戦前・戦後を通じてわが国の憲法学、法哲学に多大な影響を与えた。数10年の歳月を経た今、ケルゼンの法学や国家学にふれることができる。連休が楽しみだ。

最近は読みたい本をみつけると片っぱしから買い込む。見境がない。食欲のようなものであの店のフランス料理を食べたいと思うといたたまれないように、この本を読みたいと思い始めた途端に欲しくなる。amazon現象か?知に対する飢えか、忍耐力が減退気味だ。

現実的に考えれば、たくさん本を読んだら何かを書いて儲けてやろうと思うのが常道だろうがその気はない。または、自分の能力に照らせば、何かを書いて儲けようとすること自体が現実的ではないような気がする。

ディーゼル列車の向かいの窓から、私に向けてまぶしいほどの夕日が照りつけるのを瞼に感じながら、しばし物思いにふけっていると、「死ぬまでに一冊の著作と一枚の油絵をものにしたい。」という意欲が頭をもたげてきた。今週は土曜シフトの6日勤務だ、来週の月曜日が代休になるにしても少々きつい週になりそうだ。