旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

ジョブカード そのⅡ

2010年10月30日 07時59分34秒 | Weblog
不肖はやと、10年ほど前に職業訓練校で労務管理論を講じた経験がある。訓練校の皆さんは、どのようにすれば「良い仕事」に就くことができるかということに最も関心が高かった。

私は講義を通じて、皆さんにいつも『「あなたにとって良い仕事に就く」ということをもっと私に解りやすく説明していただけませんか、良い仕事に就きたいと皆さんおっしゃるが、良い仕事の内の「良い」という意味をもっと明らかにして私に説明してください。』と個々の訓練生の皆さんに問うていた。

中には「ちゃんとした仕事に就いている先生だから、理屈を言うことができるのだ。われわれにはそんな流暢なことを考えて議論している暇なんかない。」と問答を拒否るする人もいた。それでも私はひるまない。「いいですか皆さん、就職先からもらう給料以上の仕事をする人、こういう人にとって良いのはどのような仕事なのでしょう。また、給料以下の仕事しかできない人にとって良いのはどのような仕事なのでしょうか。そして、もしもあなたが経営者であったらいずれの応募者を採用しますか。」

もちろん答えは自明だ。「それでは皆さん、たとえばあなたが経営者であるとして、給料以上の仕事ができる応募者であれば、どのような性格の人でも採用しますか。」と問う。この質問に対する回答にも圧倒的に否定的な意見が多い。自明である。私は続ける「皆さんよろしいですか、これが赤裸々な選考の実態なのです。」

こういう講義を進めてゆくと、殆どの訓練生に仕事と会社との混同が見受けられることが明らかになってゆく。

ジョブカード そのⅠ

2010年10月29日 20時31分30秒 | Weblog
民主党の「仕分」でジョブカード制度が廃止されるようだ。ジョブカードが現実的に就職活動の役にたっていない。役に立っていないから廃止だという暴論によってこの制度が廃止されようとしている。仕分役の国会議員や有識者の見識を疑うばかりだ。

仕分役の皆さんの経歴をみただけで就職活動に苦労したことがないであろうことが見て取れる。そもそも、こういう皆さんに雇用の現場を語る資格などない。仕分ける資格などない。加えて、ジョブカードの作成現場を知らない仕分役の皆さんが、履歴書とジョブカードのどこが違うのかという呆れるような知見でジョブカード制度そのものを廃止に追い込んだ。

呆れるより他ない。高度に財政的な見地からこの制度を廃止しようとするのであれば、政治家と官僚の力の差を見せつけたいのであれば、この種の茶番劇など不要だ。蓮舫大臣の必死さと切り口が嫌いではなかったが、高度に財政的な事情という一見、公明正大な理由に踊らされるこの政権や彼女を後世の歴史家はどうのように評価するのであろうか。

ジョブカードの作成を通じて、労働者としての過去の経歴と職務、職務を通じて習得した技術や知識を踏まえて、これからの職業設計のための目標を設定し、より具体的にどのような職種への就職を目指すのかということを明らかにする。これがジョブカード制度の本旨だ。求人側に媚を売らざるおえない履歴書などよりも、はるかに求職者個人の職業観が明らかになる性質の制度なのだ。

労働行政の末端を担う者としてこの制度には少なからず期待していた。離職経験が4回を数えるわが身を振り返る時、少なくとも自分が勤めた就職先から離れるたびにジョブカードを作成してコンサルティングを受けてから次の求職活動につなげてゆく制度的支援があったならば、わたしの職業経験はもっと潤いのあるものになったように思う。

2010年10月23日 09時08分54秒 | Weblog
街路の紅葉が色づきはじめた。庭ではオーシャンブルーが咲き乱れ、柿は実り、辺り一面に金モクセイの香りがたちこめている。野ぶどうの実は朝日に輝き、庭の紅葉も冬支度を始めた。大きな白い鉢に植え替えたバラとオリーブも新しい土になじんだようだ。

このような秋の日には、窓を開け放って読書に耽るいのがよい。

制度

2010年10月16日 08時15分22秒 | Weblog
「行政といえば制度の最たるものだ。」というと妙に説得力を持つ。ところが、「制度」の意味を自問すると言葉がでてこないので辞書に当たってみた。

平凡社の哲学辞典によると、制度という言葉の意味について、『制度的現実は人間によってつくり出されたものであるが、それが人間の意思あるいは能動性の「自己客体化」されたものであることによって、人間から独立した客観的実在、いわば第2の自然として、その固有の法則としての法則と論理をもつようになる。それは人間によってつくられ役立たされている限り、人間の統御と支配のもとにあるが、そのもつ固有の法則と論理が自己展開して人間の統御と支配がそれにおよびえなくなるとき、それは人間に対して単に客観的な外在的な存在としてだけでなく、疎遠な、拘束的な力として、つまり疎外態として働くようになる。』という部分が最も明快で解りやすい。

公共職業安定に従事する者として、この制度が果たして人間の統御と支配のもとにあるのか、それとも疎外態として働いているのかもしれないという種類の判断がつくほどの年季があるわけではない。しかし、この行政が制度疲労を起こしていることだけは確かなようだ。一相談員からみれば、求職者に対してじっくり職業相談に応じるには時間的な制約が大きいし、統計からみても求職者に対して就業の機会を十分に与えていないことからも明らかだ。

株式市場

2010年10月12日 20時42分38秒 | Weblog
3ヶ月ほど前から株式市場で遊んでいる。この2ヶ月間は22連勝だ。本人も驚いている。この間、種銭(投下資本)は約1.5倍に増えた。もっとも、投下資本自体が大きくないから儲かったという実感は殆どない。

もともと投機は嫌いじゃない。わたしの人生そのものが投機のようなものだから、投機に妙な親近感を抱いている。毎日、約10分間作戦を練る。そして前の日にネット証券で作戦に基づいた銘柄の買いや売りをかけておく。この際に、ある法則に基ずく買い方・売り方で損失に対する保険をかける。これだけの仕掛けで負け知らずなのだ。

ケインズの例を肥やしに、実態の経済を理解するためには株式市場で遊んでみるのが手っとり早いなどとうそぶきながら儲けに精を出している。もっとも、他人の儲け話ほど気分の悪いものはないだろうから、この儲け話はここまでにしておこう。

八幡高原 霧ヵ谷湿原

2010年10月10日 18時03分13秒 | Weblog
八幡湿原のうちでも最も広い霧がヶ谷湿原を散策した。その昔、あたりを牧草地にするために湿原の中央に水路を設てしまった。数年後、湿原の生態系は壊滅的な打撃を受けた。やがて酪農家が廃業したので湿原の復旧工事(文字通り)が始まり、この3月に終了した。

水の流れを元に戻して湿原の基盤を整備しても、自然を取り戻すのは自然の力だ。その自然の歩みが始まったばかりだ。臥龍山から流れだす地下水がやがて湿原になる。ここは太田川の源流のひとつだ。木材で作られた遊歩道をいくと湿原の姿が明らかになる。霧ヶ谷湿原はひとの手によって壊され、ひとの手によって再生のための準備がされた希有な湿原だ。

八幡高原からみた臥龍山の頂上はあたりは霧に覆われていた。近くの山々も晩夏のたたずまいだった。山や里が色づく頃に、八幡高原や湿原はもっと華やかな姿を見せてくれることだろう。11月にもう一度でかける予定だ。

周防大島

2010年10月10日 00時25分00秒 | Weblog
午前中に書斎の片づけを済ませてから午後は周防大島にでかけた。以前から気にかかっていた久賀歴史民族資料館で明治、大正、敗戦前の昭和の時代まで使われた農具、漁具、秤、織り機、石臼に、消防具、キセル、写真、宮本常一とこれでもかといわんばかりの陳列品の数々を見学した。懐かしいといわざるを得ない石臼や天秤、となりの爺さんが使っていたムシロの製造具に見入った。非営利法人として運営されている。

周防大島には毎度、桜の季節と海の季節には必ず行く。秋には片添ガ浜の白砂がなつかしくなってくる。ホテル「サザン瀬戸」あたりの浜に腰かけて海を見ているだけで心が穏やかになっていく。かんきつ類が好きで釣りが好きで、こぎれいな場所が好きだからこの島は私の肌にあっている。全島が観光地のような島なので地図に出ている観光名所にとどまらず行くたびに新しい発見がある。

竜崎温泉あたりを歩いていたら近くに別荘地があることに気がついた。数10m行くと海だ。また、島に入る赤い橋から見上げる山の標高が600mを超えていることを山頂の展望台で今日初めて知った。

次回は釣り道具を持って訪れることになるのだろう。防波堤ではアジかイワシの仕掛けで釣りをしているひとを多く見かけた。さっぱり釣れていない。釣れないのはあったりまえのことです。こんな真昼間に釣るなら船で沖にでなさい。さもなくば上げ7分引き3分の潮時の、日が昇る頃を見計らって釣り場に来なさい。

霧と夕陽

2010年10月09日 20時26分35秒 | Weblog
山口県の萩市に笠山という小さな火山(跡?)があります。その頂上に展望台があって日本海を見渡すことができます。その展望台から眺める落日が実にいいですね。アメリカから来日した従兄も絶句でした。鳥取砂丘、日御碕、道の駅「きらら」、ホルンフェルストから萩に至る海岸線が特にいい、泣けますねえ。晴れていれば車を止めて赤い夕陽を拝みます。夕陽と山陰の景色は絶妙の組み合わせです。

今日は同じ山口県の周防大島まで出かけました。600mを超える山の展望台から見下ろした瀬戸内の島々は霧に霞んでいました。展望台には霧が流れ、眼下の赤い橋の下の潮流をゆく貨物船が目にとまりました。雨あがりのせいか広葉樹の緑と竹林の黄緑の織りなす風景が幻想的でした。時間が止まったようでした。霧の瀬戸内もいたるところでよい雰囲気を醸し出します。

辞典

2010年10月08日 23時04分01秒 | Weblog
届いた平凡社の哲学辞典で気にかかっていた項目を一気に引いてみた。まずメルロ・ポンティ、ついでフォイエルバッハ、カミユ、イデア、ハイデッガー、王陽明、認識、存在、形而上学、etc。自分の理解と辞典の内容におおきな相違がないようなのでひとまず安心した。本を読む楽しさを知ってからというもの、正確に理解できない言葉にでくわすと辞書に当たって確かめながら読み進んでいた。いまだにその習慣が続く。

今日は、疎遠になっていた古い知り合いと久しぶりに会った。事情があってこちらから交流を避けていた。先方からすると義理を欠いた奴だと思っていたことだろう。10歳ばかり年長のかれから「敷居が高いだろ。」のひとことで迎え入れられた。「体をいたわるには、ああいう方法しかなかったもので。」と返した。間を取り持ってくれた元同僚を交えてしばし話をした。むかしのように古い知り合いが主催する酒宴に招かれ、承諾してから医院を辞した。

少しばかり余裕をもって仕事や人との交流に対応できるようになった。みずからの言動に少しづつブレーキをかけ始めた控えめな自分に気がつくこともある。この3連休のうちの少なくとも1日は読書に向ける予定だ。



哲学辞典

2010年10月06日 20時22分46秒 | Weblog
岩波書店「哲学辞典」は昨年手に入れた。昨日、平凡社の「哲学辞典」を入手した。「そこに山があるから」のたぐいで「そこに哲学辞典があるから」つい買ってしまう。興味があるターム(用語)を片っ端から引いてゆくと「目から鱗」状態で新しい発見がある。そして、同じ言葉を数種の辞典で引いてみるのが興味深い。ふたつの哲学辞典はほぼ同じ規模の辞典だから比較が容易なのでなおさらだ。

哲学徒の文章は明晰であらねばならない。明晰でない哲学書は哲学徒の曇りを表現している。曇りは多くの場合、哲学徒の理解不足が原因じゃないかと考えるようになった。言葉と哲学について突き詰めて思索を重ねてみたい。読書の秋にまた楽しみが増えた。


休暇

2010年10月03日 21時01分04秒 | Weblog
来所者がやや減っている。それでも先週も日平均で15名程度の相談に応じた。うまく仕事がみつからないひとが相手なので相談ごとに緊張する。毎日、職業相談や訓練相談に臨んで最善のサービスを提供できたかどうかを自問している。

日に7~8名までなら、かなり細部まで記憶が蘇る。しかし、日に20名を超えると記憶がおおいに危うい。記憶が錯綜してしまう。それでも日々、最善を尽くしていることには自負がある。求職者の方に満足していただいたかどうかという点に関しては、たまに不安が残る。ようやくささやかながら仕事に達成感を感じることができるようになってきたようだ。

他人様のお役にたてるからという理由でこの仕事に応募した。任用されるとは思ってもいなかったので、決定の電話を受けた時は本当にうれしかった。心が躍った。第2の人生では、他人様のために働きたかった。そして叶ったのが1年と少々前のことだ。任用された時の喜びを抱きながら、これからも日々の仕事に臨む所存だ。

明けて月曜日、10月4日は久しぶりの有給休暇だ。労働法や雇用、職業訓練に関わる疑問点を明らかにしてからゆっくり休養をとる。それから5日の火曜日からの訓練相談や職業相談に臨みたい。与えられた環境の中でベストを尽くすのがプロフェッショナルなのだから。

血圧

2010年10月02日 23時41分20秒 | Weblog
毎日欠かさず人参がたっぷりはいったジュースを飲んでいる。べザトールの服用も続けている。平日は通勤で3㌔は歩く。仕事中もあっちに行ったりこっちに行ったりで日に500~1000メートルは歩いている。この努力のわりには効果が出ない。

最近、保険会社のひとに血管年齢のチェックをしてもらった。右手人差し指の先をつまんで血管年齢が算出できるというのだからなんだか怪しい。2度目で67歳とでた。1回目は「うっそー、こんな数値ありえない。」と検査担当の女性が呟いたのを聞き逃してはいない。

両手首・両足首で血圧を測った。体中に吸盤をつけられ心電図にかけられた。2年前に某病院で測定した際の血管年齢が85歳だった。だから保険会社の血管年齢の結果は怪しい。「実際の年齢と血管年齢の差が大きいかたにはプレゼントがある。」などと言う。なおさら怪しい。

昨日は職場の歓送迎会があった。主治医の先生から「大酒は血圧によろしくない。」と言われるものだからこの半年間はひかえてきた。昨日もビール中瓶1本半で渇きを癒して日本酒1合でお猪口を置いた。2次会にも行かなかった。肴が美味しかったので塩分を取り過ぎたかと、今日はわざわざ額に汗がにじむ程度の散策をした。

高めであるとはいえ血圧が下がりはじめたような兆候がある。もっとも、主治医の先生によると「夏は下がるのがあたりまえじゃ。」ということになる。こうも残暑が続けば毎日風呂につかっているようなものだからもっともなお話だ。

最近は寿司や刺身を食べても醤油をつけないし、好きなラーメンのおつゆも半分以上残す。食事は腹9分でとめている。外食は殆どしない清貧・禁欲そのものの生活が続いている。ウエストが5センチ体重が5キロ落ちたのがその証左だ。それでも最近の血圧が105~155というのはかなりさびしい。

初秋

2010年10月02日 07時41分47秒 | Weblog
澄んだ景色の果ての山際から橙色の陽が昇るのを見た。庭先まで続く濃色の絨毯のような屋根の群れがたどり着く眼下の庭先の、オーシャンブルーの青紫が鮮やかだ。今日から3日間の休養が始まる。

昨日までパリパリになっていたこころが潤いをとりもどした。月曜日から金曜日までの疲れは、土曜日の朝になるとすっかりとれている。身心ともに健康な証しだ。この心地よさが家畜のそれでないことを願う。

どうにも理解がついていかない心理学のために、昨日、心理学辞典を買いこんだ。学問の基本はterm(用語)にあると考えている。定義済みの用語を理解しない学習・研究は常識論に堕してしまうというのが私の考え方だ。

用語の理解から心理学の再学習を始めてみることになる。まず引いてみたいのは、「心理学」の項目だ。