旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

cogito,erugo sum

2008年08月29日 09時40分06秒 | Weblog
                    デカルト




哲学の第一原理
「私は考える、故に私はある。」

「私とは、その本質あるいは本性がただ考えることに他ならないところの、ひとつの実体、この実体が存在するためにはどんな場所も必要としないし、どんな物質的なものにも依存しないということである。したがって、この私を私たらしめている精神というものは、物体と全く区別されたものであり、また精神は、物体より認識しやすいものであって、たとえ物体が存在しないとしても、依然としてそれがあるところのものであり続けるであろう。」デカルト『方法序説』第4部

「エピソードで読む西洋哲学史」は、「身体とは別個に『精神というもの』が存在するという考え方は、考えるという事実があるからといって『考えているもの』が物体ではない何かであるということにはならない。また、デカルトは精神と身体が影響しあうとみたが、物体ではない、つまりかたちがないものがどのように身体に影響を及ぼすのか説明できなかった。これがデカルト流心身二元論のアキレス腱となった。現代では、『私には脳がある、故に私は考える。』というのが常識である。」と説く。

デカルト流二元論について「哲学 原典資料集」は、「色・音・香り・味などの感覚的性質についての観念が不明瞭であるのと対照的に、長さ・広さ・深さ・形・運動などの幾何学的・物理学的観念は明晰判明であって、物の実在する性質に対応しているはずのものである。感覚的性質の観念は、物それ自体に属する性質に対応するものではなく、幾何学的・物理学的性質を持った本当の物を原因として、人間の精神の内部にのみ結果として生じる主観的印象に過ぎない。『物体』の本当のあり方の探求は、感覚に依拠せずに、幾何学的。物理的観念を用いる知性の行使によって進められるべきである。自然を理性的に認識する精神と、そのように認識される限りでの物体との二元論への道がここに開かれた。」と解説する。


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