旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

中沢新一

2008年11月30日 03時01分41秒 | Weblog
中沢新一の論法は、まず圧倒的な情報量(とはいっても読み手を大いに惑わせる妙な外国語まじりの日本語表現が多いのだが。)で相手を威嚇する、次に、自らの宗教体験を前面に打ち出して相手に反論の機会を与えないという性向をもっている。10年も前ならともかく、ネットの時代には圧倒的な情報量というものが、さほど重要な意味をもたない。

したがって最近の中沢は、自らの宗教体験を前面に打ち出さざるをえず、仏教の修行者の風をとりながら個人的な宗教体験で塗り固めたひとりよがりな宗教の解説をくどくどと続けているようにみえる。

河合隼雄との対談「仏教が好き」という著作のあとがきの中で、中沢は「河合先生が知らなかった仏教は、一見すると見知らぬ仏教のように見えて、実は歴史において現実になったあらゆる仏教の表現形式がそこから生まれてくる、アジアの思想的源泉近くに生えている『原仏教』という未知の植物であることがわかってくる・・・。」と述べている。

この「未知の植物」であるという思わせぶりな表現などが典型である。中沢はこの重要なキーワードについて解明ないしは解説しようとはしない。すなわち中沢は詩人を装うが、断じて学者的ではない。

人の子たるもの

2008年11月30日 02時03分15秒 | Weblog
司馬遷の「史記」には老子と孔子が会見したという記述がある。

孔子が老子のもとを辞する際に、老子は「富貴なる者は人を送るに財をもってする。もとより自分は富貴ではない。したがって、智者を真似て言葉をもって他人を送る。」と語った後で、「思慮深い人でも、死期が近づけば他人のことを批判しがちであり、沈着な人といえども、自分の立場が危うくなればとかく他人のことを悪く言いがちである。ひとの子たるもの、おのれの憶見や執心をもって他人に対してはならない。」(「人と思想 老子」から引用ののち改竄)という教訓を孔子に送った。

老子と孔子の会見には肯定説と否定説がある。


松陰 象山 東湖

2008年11月22日 21時28分00秒 | Weblog
津和野の「森鴎外記念館」、萩の「松陰神社」、松山の「子規記念館」を訪ねたのちに、ふと思った。わたしは松陰、鴎外や子規について、その固有名詞以外にいったい何を知っているのであろうかと。

子規についていうと、かれの俳句論を読んだことはないし、句集についても岩波文庫の一冊を持っているに過ぎない。それこそ微熱を感じそうな句集であった。(現在、所在不明である。)「柿食えば・・・」とか「春や昔・・・」等の余りにポピュラーな句については知っている。かって、松山に10年余り在住したというのに句集に興味をを惹かれたためしはない。

鴎外については、過去、代表作の2作や3作は読んだ。ところが、学生時代のわたしにとっては語彙が余りに難解で、漢文を読んでいるような味気なさが先に走って、読み切るのが精一杯という惨状であった。最近「高瀬舟」を読んだ。ようやく鴎外の力量が測れるようになった。

松陰は、門下から維新の志士たちを輩出した教育家らしいというイメージでのみ捉えていた。小学生の頃、萩に2年足らず居住した。そのころから吉田松陰という名は聞かされていた。松陰神社という神社まで建てられている。しかし。祭られている理由がいまだに解らない。ようやく理由をネットで知らべてみる気になった。

松陰は1830年生まれで1859年に斬首刑に処せられている。10歳にして藩主に山鹿流兵学を講じたというから、かなりの早熟であったに違いない。しかし、最近になってわたしが儒学の素養を身につけるにつけ、ようやく、その代表作「講孟箚記」は単なる孟子の注釈書の域を出ないことを知ることになる。何たる奥手!

当面は、吉田松陰、佐久間象山、水戸学・藤田東湖の思想的相関に好奇心をそそられている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松陰神社(萩)

松陰神社
所在地 山口県萩市椿東松本1537
主祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)
社格等 県社
創建 明治23年(1890年)

明治23年(1890年)、松陰の実家・杉家の邸内に土蔵造りの小祠を建て、松陰が愛用していた赤間硯を神体として祀ったのが当社の創建である。明治40年、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して本殿とし、同時に県社に列格した。現在のの社殿は昭和30年に新しく建てられたものである。創建当時の土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る摂社・松門神社となっている。

境内には松下村塾の遺構・松陰幽囚の旧宅・吉田松陰歴史館などがある。萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。


桑原良敏著「西中国山地」 

2008年11月20日 21時33分26秒 | Weblog
今年は晩夏からいきなり冬が訪れたので、好きな紅葉を十分に楽しむことができなかった。先週は弥山のローブウェイから眺めた紅葉に心が小躍りしそうになった。さてこれから県北の紅葉でもと思いついたところに初雪である。自宅から眺める山麓も急に色づいた。県北はすでに落ち葉が舞っていることだろう。

桑原良敏著「西中国山地」をようやく手に入れた。喫茶「ミネルバ」(炉辺山荘)でそのごく一部を拝読してから手に入れるまで実に1年と半年を要した。拝読したのは著者の奥様の蔵書である。炉辺山荘で初めて目を通した。心が動いた。欲しいと思った。

著者自ら「あとがき」で述べているように「あえて千メートルにこだわったのは、それがブナの生育している下限だからである。西中国の山々の中からブナの生えている山を選び出したということになる。取り上げられているのは西中国山地国定公園内の山と周辺の標高千メートル以上の山、約70座である。」

70座の山ごとに立地や姿について説明を加えたのち、古文書を引用しながら山名の由来について詳細に述べる。登路について地図つきの解説がある。山にまつわる逸話の出典について詳しい。「地名考」や「博物誌」といったコラムもある。読書家の知人はその緻密な取材や西中国山地に対する愛着に感動したと漏らしていた。

復刻版第2刷の定価は3500円である。品薄らしい。たまたま知り合いの古本屋のオヤジが店に置いていたので定価の倍、7000円まで値切ろうとしたが果たせなかった。数日おいて見回り(?)に行ってみると、そのオヤジ、なんと前回の1.5倍に当たる15000円の値をつけていた。

その商魂にあきれかえってから苦節1年、ネットで定価の倍を下回る美本をみつけて即断した。後日、喜びが勝ってオヤジにむかって「他人の足元をみるから売りそびれるのだ。」という悪態をついたかどうか・・・記憶の方が定かではない。amazonや「日本の古本屋」で検索しても品薄で定価より高価である。件のオヤジがいまだに15000円で売りに出しているのが頼もしいような滑稽なような・・・。

猫騙し

2008年11月19日 18時48分22秒 | Weblog
             ヴェブレン



豊かな社会のお金持ちには、衒示的消費といいますか、他人との差別化を図るために、他より品質やデザインが優れていると感じるもの、より高級・高額なものを買い求める消費傾向があります。この傾向について、敬愛する社会・経済学者であるヴェブレンが、著作「有閑階級の理論」で見事に分析しています。

わたしは、車というものは乗り心地が良くて、丈夫で、性能が良くて安ければそれでよいと考えます。ヴェブレンの分析によると、そうではない消費傾向をもつ他人の方が多いようです。メーカーのマイナーチェンジはきっと、そのあたりをちょっぴり刺激して売上を伸ばすための猫騙しみたいなものなのでしょうね。

物権の債権(証券)化

2008年11月19日 01時04分48秒 | Weblog
米国は世界最大の市場ですからドルは尚しばらくは基軸通貨であり続けることでしょう。また、「市場経済」は競争を喚起しますから様々なイノベーションに欠かせないシステムです。

尊敬する我妻栄に「近代法における債権の優越的地位」という名著があります。あらゆる物権の債権化(証券化)が進む過程で、金融システムの肥大化が急激に進んで収拾がつかなくなってしまった。法律で方向性を与えれば、この混乱は早期に収拾できるのじゃないかと呑気な事を考えています。

藤巻流にいえば、「道路交通法を強化すれば交通事故は減る。」ということにでもなるのでしょうか。偶然ですね、つい先ほどまで鶴巻健史の「外資の常識」を読んでいました。

強行軍

2008年11月18日 20時40分30秒 | Weblog
広島市から三次市を経て宍道湖、足立美術館に寄ってから出雲大社詣でのあと多伎町のキララコテージ泊。(前日は宮島詣で。紅葉谷をみてロープウェイで弥山。)翌日、津和野の街並みをみてから森鴎外記念館、そのまま萩市へ。松陰神社を訪れたのち毛利家の墓地がある大照院、笠山で日没を眺めて、午後9時に広島着。翌々日は、しまなみ海道経由で松山市へ。松山城と道後温泉旧館をみて広島着。走行距離は3日で1200キロ。凄まじいばかりのドライブであった。

保険

2008年11月07日 09時05分10秒 | Weblog
長期の投資で資産を運用する生命保険会社と、保険もやっているとはいえ、なんでもありのAIGのようなノンバンクを比較するのはいかがなものかと・・・。ハートフォードは資産運用の失敗を既にゲロしていますし、プルデンシャルはダンマリを決め込んでいます。ハートフォードは日本でいうと住友生命・明治生命クラスのランク、プルデンシャルは日本生命や第一生命クラスの保険会社ですから連邦政府としても、そう易々と倒産させるわけにはいきません。米国では、資本注入やCPを引き受けが取りざたされている所以です。Socialismといわれようが、連邦政府が威信を賭けて救済せざるを得ないというわけです。

日本の保険会社も資産の劣化が著しい点はマスコミ報道の通りで、メットライフも含めて米国の生保大手3社といえども資産の劣化が進んでいることはご指摘の通りでしょう。ところが保険会社はいわゆる日銭商売のようなもので、毎年・毎月、保険料収入が入ってきますので、取り付け騒ぎ(保険の解約ラッシュ)でも起こらない限り、資金繰りに窮することはありません。また、日経平均8000円割れで日本の保険会社がバタバタと倒産した頃を思い出すにつけ、株価が戻せば急速に劣化した資産価値の回復が進むのですから、最悪の場合には連邦政府やFRBからの資本注入なりCPの引き受けという担保さえあればなんとかなるんじゃないでしょうか。

いずれにしても、この金融恐慌で証券投資や株式投資で含み損をかかえていない金融機関がないことは周知です。保険会社ももちろん例外ではありません。日本の生命保険業界の場合、保険契約者保護機構の保証がありますから(実質は政府保証が3年と半年ほど)、保険契約者諸氏におかれましては、あまり慌てないでじっくりと様子を眺めるくらいの余裕が欲しいものです。保険で儲けようなんて了見で変額保険に加入して地獄を見かかっている皆さん、投資なんてこのようなものです。山があれば谷もある。せいぜい保障ではなくて投資を売った保険会社の担当者をチクリチクリと責めてやってくださいな。

サラリーマン

2008年11月07日 08時57分09秒 | Weblog
すいません。オーバー・アチーブって、=over achieve 「会社から設定された以上の実績を挙げようとすること」という意味なのでしょうか?ググってみたら、「期待を越える」となっていますからきっとそういうことなのでしょうね。カタカナ文字に弱いものですから苦労します。

社員には二通りしかない。すなわち会社に利益をもたらす社員と会社に損害を与える社員。そういう意味では、経営者は意外に従業員のことをよくみていると思います。が、従業員はどこまでいっても賃金で雇われた労働者。経営資源を提供してくれる人間からみるとコストにしか過ぎない。

「搾取される宿命にある」などとマルキストみたいなことを言うつもりはありません(あっ、言っちゃった・・・)。一見経営者のようにみえる雇われ社長といえども、その例外ではありません。

広島では著名な会社の「元・雇われ社長」と偶然に本屋で会いました。2年ほど同じ会に籍を置いていたので「たまには会に顔を出してくださいな。」と問いかけると「いやあ、わたしは既にお役御免の身ですから。」と軽く往なされて、さわやかな微笑みが返ってきました。

会社の期待を超えるだけの実績を挙げ続けて社長にまでのぼり詰め、確か在任7年。社の内外から惜しまれながら引退した元社長は、その会社のオーナー一族による鶴の一声、即ち退任勧告でその座を追われたことを私は知っています。

オーバーアチーブに対して、会社は賃金なり、ポストなりで応じればそれでよい。けだし、『経営者の取り分>適正賃金+over achieve分』なのでしょうから。

読む Ⅳ 

2008年11月01日 21時30分36秒 | Weblog
                    アルベール・カミユ



「仮面の告白」には若干の違和感を覚えたが、三島由紀夫の「金閣寺」を読み通して小説の面白さや読書の楽しさに目覚めた。三島の作品はわたしのような文学音痴にも解りやすい、洗練された確かな日本語で書かれているので、辞書を片手に読みさえすれば親しみ易い。しかも三島自身が自らの作品について多くを語っているので作者の創作意図を掴みやすい。読書がぶれないのである。

純文学以外の「行動学入門」や「文化防衛論」「若きサムライのために」「小説とは何か」「文章読本」などを片っ端から読むにつけ三島にかぶれていった。小説は元来苦手なのである。それでも、最近になって(全集を買ってみて)三島の小説の4割方をすでに読んでいることに驚いた。三島は当時のわたしの知的な好奇心の方向に適っていたのであろう。自決後も様々な三島由紀夫「論」を読んだ。が、心に残った著作はない。

思想というものにからっきし免疫がなかったせいもあって、思想的にも三島から受けた影響は甚大であった。なんの抵抗もなく「文化防衛論」に心酔したし、「憂国」の割腹シーンに、大儀に殉じる者の潔さを感じた。40歳を過ぎる頃になってアジテーター三島の独善性と危険性に気がつくような体たらくである。

もう一度読んでみたい作品は、ありきたりのところで「春の雪」「金閣寺」「仮面の告白」である。文学作品として優れていると思う。若き日にわたしのこころを打った思想家としての三島、今では、残念ながら紛いモノであったといわざるをえない。三島も(私も)当時は純粋過ぎたのであろう。作家三島に対する畏敬の念は、彼の自決と共に消え失せてしまった。

三島の自決の直後に「実存主義入門」を読んだのがきっかけで、サルトルの著作を読むようになった。サルトルの哲学は難解で歯が立たない。翻訳も拙い。やがて「カミユ・サルトル」論争を知る。カミユの面構えが大いに気に入った。間もなくわたしと「貧困・サッカー・法律」という共通項があるアルベール・カミユを耽読するようになる。「シーシュポスの神話」と「異邦人」を読んで得たカミユの世界が不毛とか乾燥とか虚無的という私の心象にマッチしたのであろう。

「太陽の讃歌」から「反抗的人間」へとわたしのカミユ遍歴は続く。同時に余りに日本語離れした翻訳に悩まされる日々が訪れる。やはり三島の熟成した日本語は卓越していたことを改めて実感する。カミユがノーベル賞作家であり既に故人であることを知らなかった。はやと23歳。



Wikipediaより

アルベール・カミュ(Albert Camus, 1913年11月7日 アルジェリア - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家。

フランス系アルジェリア人の子としてモンドヴィ(Mondovi;現ドレアン, Dorean、アルジェリア)に生まれる。1914年9月、幼くしてマルヌ会戦(第1次世界大戦)で父 ルシアン(Lucien)を失い、聴覚障害を持つスペイン系の母と、アルジェのベルクール地区で幼少期を送る。17歳の時に結核にかかるが一命をとりとめ、アルジェ大学を卒業。

21歳の時アルジェ地区の共産党に入党し。アラビア人達に共産党の宣伝活動をするがその翌年離党する。1940年にパリの雑誌社『パリ・ソワール』の編集部員となるがドイツ軍がパリを制圧すると9月にアルジェリアに帰国する。1942年にカミュは再びフランスの地を踏み非合法誌『コンパ紙』を発行するなどレジスタンス活動に参加する。第二次世界大戦終結後はアメリカに渡りニューヨークで学生達を前に講演し熱烈な歓迎を受ける。

『異邦人』や『シーシュポスの神話』、『ペスト』などの著作で、人間存在の不条理さに光を当て、1957年にはノーベル文学賞を受賞した(『この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して』; "for his important literary production, which with clear-sighted earnestness illuminates the problems of the human conscience in our times.")。これは、第二次世界大戦後としては最年少での受賞であった(史上最年少はラドヤード・キップリング)。

哲学者、文学者ジャン=ポール・サルトルと共同で文学活動を行ったが、1951年に刊行した評論『反抗的人間』における共産主義批判を契機として雑誌『現代』においてサルトルらと論争になったことで決裂した。かつて実存主義者とみなされることが多かったが、実際には実存主義提唱者サルトルなどと文学的内容は異なっており、本人も実存主義者とみなされることを強く否定していた。1960年、自動車事故死。遺作は『最初の人間』