旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

隗より始めよ

2011年03月30日 20時33分17秒 | Weblog
まだ日も落ちていないというのに行きつけの100円寿司店が満席で待ち時間が50分とでた。同じショッピングモール内にあるスーパーで買い物を済ませてから、やはり同じモール内にある古本屋をぶらついた。買おうか買うまいか悩んでいる西尾幹二著「ニーチェⅠ・Ⅱ」はまだ売れていないようだ。欲しいのだが学者としての著者の資質に疑問を抱いている。いずれはこの著作を買って判断することになりそうだが今回も購入は見合わせた。

古本屋を経営する直木賞作家、出久根達朗の「本のお口よごしですが」と文章の書きかた論で知られる大隈秀夫の「隗より始めよ」を買った。出久根の本にまつわる話はいづれも微笑ましい。まるで小噺のような古本をめぐるエピソードの数々が、私のような本好きにはたまらない魅力だ。大隈の「文章の実習」(日本エディタースクール出版部発行)は長く私の文章作法の教科書だった。

「隗より始めよ」の中で大隈は、郭隗が賢い臣下を集めようとされるのであれば、まず私のように無能な人間を登用されるのがよいのではありませぬか、さすれば優秀な人間が集まって参ることでございましょう。」と燕の国の昭王に進言したという故事から説き起こして相撲界の八百長問題に言及する。

八百長とは八百屋の長兵衛が相撲協会の幹部にわざと囲碁で負けて相撲の興行権を得たことから、ためにする負けのこと指す。そして、八百長の語源に関わりをもつ相撲界が八百長だらけであると様々な例示を挙げる。テレビが普及したので八百長はやりにくくなってはいるが、栃若時代のある事実を指摘したうえで現在でも八百長はあると断定している。(タイトル「隗より始めよ」は2000年の発行だ、)

また、ノーベル賞作家、大江健三郎に対する評価は辛辣だ。曖昧模糊とした表現そのものが何をいいたいのか解読しずらいし、表現された漢字と「かな」との使い分けは極めて稚拙だといわざるをえない。大隈は大江の表現の多くに赤ペンをいれたくなるような衝動を覚えるそうだ。長年に渡って日本エディタースクールで文章の書き方を教えてきたルポライター大隈ならばこその指摘だ。

梶山李之、吉行淳之介や阿川弘之、大宅壮一らとの交友録も興味深い。

本の整理

2011年03月29日 20時40分36秒 | Weblog
ようやく本棚や本箱の整理に取りかかることができたので手始めに捨てる本と保存する本を分けている。捨てる本の置き場を決めると整理がはかどってハウツーもののみが積み重なってゆく。保存する本は埃を払ってから少しづつ並び変える。圧倒的にアカデミックな本が多い。分野ごとに保存するのが私の癖だ。

身内に読書家はいない。保存したにしても本を読む継ぐ者がいないのだからいつかは捨てられることになる。構わない。読書はすこぶる個人的な習慣なのだ。役所勤めをはじめてからいっそう本を読む環境が整った。自分を鼓舞する必要はない。ただ好きな作家を楽しめばよいというわけだ。

明日出勤すれば明後日は休みだ。本棚や本立てを見渡せば明後日の読書がおのずと決まる。私が本を選ぶのではなくて本が私を選んでくれるから不思議だ。長い過去に引きずられながら2・3日先を読むような読書が良い。安上がりで随分と贅沢な世界だと思う。


近代法の基礎構造

2011年03月28日 20時43分29秒 | Weblog
本棚を整理していたら、加古祐二郎著「近代法の基礎構造」が出てきた。約?0年前に学んだ法哲学ゼミの課題図書のうちの一冊で、他の課題図書、パシュカーニス著「法の一般理論とマルクス主義」とともに学生時代に読破を目論んだ数少ない著作のうちの一冊だ。後者も部屋のどこかで厚い埃をかぶって眠っているものと思う。当時は、社会科学の知識と読解力の不足のせいで、この著作が何を解明し、分析しようとしているのか理解できなかった。私にとって「概念」を理解することの困難さに直面した最初の著作であった。

ネット検索で、昭和23年に33歳で逝去した加古祐二郎に関する情報が数十あることは解った。しかし、加古の経歴に関して、いずれの情報も「近代法の基礎構造」掲載の恒藤恭「加古祐二郎君の追憶」ほどは詳しくはない。また、かれの法哲学に具体的に触れてはいない。

たとえば、論文「法的秩序の歴史的構造に関する一考察」は、1序論、2法的価値と法的実在、3法的秩序の論理的構造、4法的秩序歴史的構造、5結語の5部構成だ。結語で加古は「法学の批判は、正に法学が依拠する世界そのものの自己批判であらねばならぬ、しかも世界そのものの自己批判は世界そのものを構成しているところの現実的社会的存在の内より出発せざるを得ないと考える。」と述べている。今日では当たり前すぎる主張であるといわざるを得ない。

種イモ

2011年03月27日 18時23分02秒 | Weblog
種イモがようやく手に入った。男爵イモを北海道農業試験場(現 北海道農業研究センター)で品種改良した「キタアカリ」の種イモだ。そもそもが菜園を借りる目的の過半が採れたてのうまいジャガイモを喰いたいという欲望だった。うれしくて仕方がないとしか表現のしようがない。1ネット730円で100個ばかりの種イモが入っていた。週明けの3月31日(木)が土曜日出勤の代休なので晴れてさえくれれば精魂を込めて植え付けに励む予定だ。

たとえば冷えたビールに小粒のジャガイモの塩茹で(焼き)ジャガバター、粉吹きイモ、フライドポテトに天ぷらなどなどを思い浮かべるだけで胃袋がめまいを起こしそうだ。しかも、この品種はレストランでもポピュラーな品種だ。私はジャガイモを使った料理本をもつジャガイモ料理クレイジーでもある。種イモの調達を断念しかかっていただけに、この幸運に胸が打ち震えている。

私とて「大学・中庸」や「論語」の愛読者だからといって、上司に対する忠、親に対する孝を盲目的に信奉、実践する者ではない。どちらかというと、むしろ戦後民主主義の申し子的な傾向が強い合理主義者じゃないかと自己診断してきた。ところが今日は久しぶりにドライブがてら(といっても1週間ぶりに)85歳の母親とつれだってガーディニング店で花を見た後に食事をした。この親孝行が良かったのじゃないかと思う。(しかも、本日以外も殆どが代金は母親もちだ。)

母親の注文はジャガイモ入りのオムレツだった。ひょっとしたらこの農村地帯なら売れ残りの種イモがあるのじゃないかと思いついた。そこで帰宅の順路を逆走して某ホームセンターに寄ってみたところ、予想通りというべきか、この店にはふんだんに種イモの在庫があったというわけだ。最近、私の感はよく当たる。見方によるとこれも親孝行のお陰、功徳だから、孔子様に敬意を表して明日からの通勤列車中の読書は「大学・中庸」から「論語」に切り替えてみようと思う。

フランス料理

2011年03月27日 08時45分05秒 | Weblog
よくいえば個性的、悪くいうと協調性がない者たちが、逃げ易いということで、出入り口近くのテーブルの一角を占めた。話がかみ合わないまま、めいめいの声量のみが大きくなってゆく。閉会まで皆が、送歓迎会場の一角(円卓だから角はない?)で、しこたま飲んだ。私もなにしろ人望がないものだから、ここの一角に紛れ込んだ。かなりの確度で、2日酔いが避けられない酒量だった。  

床に就く前に特効薬を飲んでいたので翌日(つまり昨日)は朝から爽快だった。そして昨日(翌日)は転職して初めての土曜日出勤だった。8時半に勤務先に着いてから、清掃を1時間半やり終えた頃には汗がにじんだ。10時からいつも通りの職務に就いた。来所者は意外に少なくて平日の半分以下の仕事量だった。久方にマイペースで仕事を進めることができた。ちょうど5時には仕事を終えて、次のエベントがあるフランス料理店に向かった。徒歩で20分ほどの道のりだ。

美味しいというのか口に合うというのか、私はこの店のフランス料理にぞっこんなのだ。黙々と調理に勤しむご主人と、心配りが行きとどいた気さくな奥方のもてなしはこのうえなく良質だ。50年近いつき合いになる悪友3人の会食だからマナー抜きだ。わずか3人の会食だというのに、スープが冷めそうになる時間を、携帯で商談する者が約1名いたり、3人で原子力発電の是非について激しい論戦になったりで、店内が凍りついたり、白熱してしまうのではないかと危惧した。ところが、回りを眺めるとほかの席の皆さんも同様でこちらを気に留める風もない。良い料理とデザートのあとは、話が弾むものだ。

じゃがいも

2011年03月21日 20時39分27秒 | Weblog
40㎡ばかりの菜園だから、13の畝床をつくるのに昨日の農作業を合わせて3時間もかからなかった。雨がやむのを待って菜園に苦土石灰を撒いた。もうこちらの手間はない。石灰任せの土壌の中和に最低1週間はかかる。これで種まきの準備が整った。

次週に備えて種イモと種を買いにでかけた。ところがジャガイモの種イモがない。北海道の異常気象で品薄であることに加えて、入荷シーズンを2週間も超過していた。3件目でどうにか種イモをみつけた。ひとネットいくらではなくて、1個いくらのばら売りだ。

売れ残っていた1個50円の男爵イモをすべて(といっても5個)買い求め、あとは聞いたこともない品種の種イモを10個ばかり買った。サトイモについては15個ばかりで1(ひと)ネットの種イモを買った。私は米よりもジャガイモの方が好きだ。ドイツ人のようにジャガイモが主食でもやっていく自信があるく。

だから農作業中はずっと、とれたてのジャガイモを芯まで蒸かした時のあのかおりと、二つに割ると皮からこぼれおちそうな白いジャガイモの湯気ばかり思い浮かべていた。しかも私は断然メークインが好きなのに種イモは1個もない。食用のメークインを種イモにしても2・3カ月は芽が出ない。嗚呼。

農作業

2011年03月19日 20時47分03秒 | Weblog
熱いコーヒーを飲んでから車で菜園に向かった。道のりで1㌔もない。農業資材を詰め込んだポリのストックボックスとショベル、これさえあれば足りる。幅1mほどの農業用水を渡って菜園に入った。到着後の隣の区画を借りている婦人との立ち話の結果、勧めに従って地主さんに挨拶に行くことにした。農協の担当者から、先に菜園を借りているひとの助言に従ってくださいと言われている。

地主さんから、「すべては農協さんにまかせていますから、農協さんのいうとおりに利用してください。」と丁重に告げられた。菜園に引き返すと間もなく当の高齢で小柄な地主さんが小さな荷車を引いてマルチの撤去に現れた。「雑草対策に困って昨年からマルチを敷いた。とにかく耕作してくれる人が現れたのがうれしい。」と終始にこやかな対応だ。瞬く間にマルチは片付いて懐かしい匂いとともに黒い土が現れた。

地主さんの話や隣の区画の婦人の話から、私の区画は3年ほど前まで耕作されていたこと、菜園はもともと田んぼであったこと、やや日照が悪いことが判明した。何のことはない、以前に借りていた農園とよく似た環境だ。美味しいサトイモが採れそうな予感に腹の虫が騒ぐ。なんでも、「私の区画を耕作したひとは皆さんご高齢で、亡くなられるたびに借りる人が変わって。あなたで、えーっと・・・。」と余計なことを仰りそうになったのでお言葉を遮った。

地主さんに対するご挨拶と隣の区画の夫人との初めての交流を終えてから、持参したショベルで土を掘り起こす作業にはいった。数分もすると汗がぼたぼたと耕地に落ちる。農園の耕作をやめて1年以上が経過しているので身体が鈍っている。菜園を借りた目的のひとつに運動不足の解消がある。その昔、ちょうど川向こうにある区のスポーツセンターのプールに通って運動不足の解消を試みた。適度の運動が災いして太りはじめた。

そこで1っ昨年、志和口の農園100㎡、30坪を借りて農業に励んで半年、5キロの減量に成功した。農作業はハードだから減量には特に夏場の農作業が効果的だ。焼けつくような太陽のもとで3時間も農作業に従事すると全身から汗が滴り落ちる。作業を終えるだけで体重が2キロばかり減っている。補給を抑えれば自ずと体重は落ちる。昨年の夏に思いを馳せながらひたすら土を掘り起こせば作業を終えるころには、植える野菜の区割りの青写真も出来上がる。


読む 耕す 汗を流す

2011年03月19日 08時22分20秒 | Weblog
連休の第一日目は「ブッダ最後の旅」を読み返すことから始めた。この原始仏典の「大パリニッバーナ経」の邦訳では、神話化される前のブッダについて語られている。ブッダの最後の言葉は、「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。』と。」だ。求道者のそれで好きな表現のひとつだ。

「衰亡をもたらさない7つの法」の5
「修行僧たちよ。修行僧たちが、後の迷いの生存をひき起こす愛執が起こっても、それに支配されない間は、修行僧たちよ、修行僧たちに繁栄が期待され、衰亡がないであろう。」
たとえば、こういう語り口がよい。

昼前に墓参りをすませる。午後は菜園にでかけて土をつくる、陽が落ちるまで畑を耕す予定だ。

菜園

2011年03月12日 22時06分04秒 | Weblog
市農協に問い合わせてみたら手ごろな菜園が空いていた。自宅から直線距離で0.7㎞程度、道のりで1㎞もない。微妙だが駐車するだけのスペースもあるようだ。所要時間は車で3分、歩いて10分ほどだ。2区画を借り受けて来月からファーミングを再開する。

土の色で解る、土壌はかなり痩せている。まず石灰をまいて土を中和してから腐葉土を混ぜて土地を肥やす。ほとりを農業用水が流れているのでふんだんに水を使える。これはありがたい。思い通りに用地の準備ができたので悪乗りして今回は野菜の自給を目指ことにした。

2区画の内の一方はジャガイモ、サツマイモ、サトイモなどイモ類とゴボウ、ニンジン、ダイコンなど根菜類のための区画とする。他の一方はトマト、ナス、ピーマン、インゲン、ゴボウ、ホウレンソウ、オオバ、たまにレタス、キャベツのための区画とする。

ファーミングを休止してからというもの運動不足だ。この運動不足をトレーニングジムで解消しようなどというのはもってのほかだ。農耕民族の末裔としては文化の伝承と趣味と実益を兼ねて土に親しむ。肥えた土の香りと降り注ぐ太陽、収穫の喜びと冷たいビール。菜園はこれから夏に向かって走り始める。

人物像と作品

2011年03月12日 19時42分49秒 | Weblog
机の近くに本棚を引き寄せて、興味が湧かない本を遠ざけ、興味が湧いた本をそこに置いていく。それだけで頭が整理できる。広く浅く読む読書に興味はない。もちろん広く深く読むだけの時間はない。限られた時間のなかで最も興味が湧く分野を集中的に読む。マンガは殆ど読まないしエロ本は全く読まない。「趣味が読書」というとマンガ・エロ本にハウツーものという先入観をもつ人が多い。「己と一緒にするな、貧困な奴だな。」と侮蔑する。これが態度にもでるらしい。わたしは修行が足りないことを自覚している。

フロイト著「文化芸術論」とサルトル著「言葉」が本の山の中から出てきた。

前著は、かなり以前から所在が不明だった。別の本箱の埃を払っていたら隅の方に鎮座していた。久しぶりに目を通したら改めて魅せられた。フロイトは思い込みが激しく執念深い人だ。すべての文化芸術を単純な原理から解読しようとする粘着には恐れ入る。学生時分はフロイトの論旨がすべて正しいと妄信していた。表現上の一貫性に弱かったのだ。読書遍歴を重ねることによってみえてくることがある。フロイト流の無意識世界の解明には限界がある。それでもフロイトに魅せられるのは彼が独創的な思想家であり人間的には私と同様に修行が足りない人物じゃないかと思われれるからだ。

「言葉」については、読み終えたと思っていたが読んでいなかった。うんざりするほど長編の「シチュアシオン」と勘違いしていたようだ。この書はサルトルの自伝だという。無名の作家の自伝には興味がない。サルトルほどの名声を得た作家の自伝だから読まないわけにはいかない。「世界の名著」を読む醍醐味の過半は、その解説によって人物像が明らかになる点にあるといっても過言ではない。私の中では人物像と作品は一体なのだ。大物作家の自伝を読めば著名な作家が影響を与えた「時代」を読むことができるからだ。

それにしても両著ともテキストの活字が極めて小さい。前途は多難だ。

入門書

2011年03月11日 22時56分01秒 | Weblog
Mearns & Thorne著「パーソンセンタード・カウンセリング」とNorman著「認知心理学」が届いた。

前者はロジャーズ著「Client Centered Therapy」をかれの弟子たちがアップトゥーデイトにした著作で、まえがきによれば、出版に先立って「人間有機体の知恵と建設的な能力への深い尊重に基づいており、これらの価値をとりこむひとびとを励まして、自分自身の固有でユニークな在り方を発達させるだえろう。」というロジャーズから賛美の言葉を受けている。

後者は、やはりまえがきで、「私はやさしい本を書くことがこんなに時間を要するとは想像しなkかった。」と術懐し、「心理学の研究者が何を目指しているのかを明らかにすること、そして彼らの標準的研究方法と日常の関心をある程度明らかにすることを試みた。さらに、心理学は単なる実験室内の研究ではないから、私は心理学的概念と人間的経験の関係を示した。」と続ける。

タイトル

2011年03月11日 07時04分01秒 | Weblog
「吾輩は猫である」「キャリア・カウンセリング入門」とか「ドン・キホーテ」、最近ではこういう「本の題」をタイトルという。この「タイトルという外来語」を、この外来語を輸入する前の日本語ではどのように表現していたのだろうか。辞書によれば「題」が即ちタイトルの意味であり、表題とか題目とかという表現も引用している。ところがタイトル、表題と題目とでは意味内容のニュアンスが異なるように思う。

活字中毒

2011年03月09日 23時04分37秒 | Weblog
私は哀しい活字中毒患者だ。読書欲がなお旺盛で、好奇心が赴くままに本を読む。なぜ読むのか、知りたいから読むのだ。何を知りたいのか、知りたいことをより深く知りたい。それだけの理由だ。より深く知って何か良いことがあるのか、満足感以外は何もない。本をよく読む人は一般に頭がやわらかいといわれる。私の頭がやわらかいかどうか、これは私にも解らない。

休日

2011年03月09日 21時56分45秒 | Weblog
民間企業にいる間は想像することもできなかった8時30分出所の17時00分退所が1年と7か月余り続いている。大いに規則正しい勤務時間に戸惑って当初は違和感すら覚えた。それでも慣れというのは怖いもので最近は退所時間と休日のみを待ち焦がれる哀れな人間になり下がってしまった。なり下がってしまったことは残念だ。しかし、心と精神が安定し始めたのは良い兆候だ。仕事とネットに夢中になっているうちに3日間が過ぎてあと1日勤めると3連休だ。