まだ日も落ちていないというのに行きつけの100円寿司店が満席で待ち時間が50分とでた。同じショッピングモール内にあるスーパーで買い物を済ませてから、やはり同じモール内にある古本屋をぶらついた。買おうか買うまいか悩んでいる西尾幹二著「ニーチェⅠ・Ⅱ」はまだ売れていないようだ。欲しいのだが学者としての著者の資質に疑問を抱いている。いずれはこの著作を買って判断することになりそうだが今回も購入は見合わせた。
古本屋を経営する直木賞作家、出久根達朗の「本のお口よごしですが」と文章の書きかた論で知られる大隈秀夫の「隗より始めよ」を買った。出久根の本にまつわる話はいづれも微笑ましい。まるで小噺のような古本をめぐるエピソードの数々が、私のような本好きにはたまらない魅力だ。大隈の「文章の実習」(日本エディタースクール出版部発行)は長く私の文章作法の教科書だった。
「隗より始めよ」の中で大隈は、郭隗が賢い臣下を集めようとされるのであれば、まず私のように無能な人間を登用されるのがよいのではありませぬか、さすれば優秀な人間が集まって参ることでございましょう。」と燕の国の昭王に進言したという故事から説き起こして相撲界の八百長問題に言及する。
八百長とは八百屋の長兵衛が相撲協会の幹部にわざと囲碁で負けて相撲の興行権を得たことから、ためにする負けのこと指す。そして、八百長の語源に関わりをもつ相撲界が八百長だらけであると様々な例示を挙げる。テレビが普及したので八百長はやりにくくなってはいるが、栃若時代のある事実を指摘したうえで現在でも八百長はあると断定している。(タイトル「隗より始めよ」は2000年の発行だ、)
また、ノーベル賞作家、大江健三郎に対する評価は辛辣だ。曖昧模糊とした表現そのものが何をいいたいのか解読しずらいし、表現された漢字と「かな」との使い分けは極めて稚拙だといわざるをえない。大隈は大江の表現の多くに赤ペンをいれたくなるような衝動を覚えるそうだ。長年に渡って日本エディタースクールで文章の書き方を教えてきたルポライター大隈ならばこその指摘だ。
梶山李之、吉行淳之介や阿川弘之、大宅壮一らとの交友録も興味深い。
古本屋を経営する直木賞作家、出久根達朗の「本のお口よごしですが」と文章の書きかた論で知られる大隈秀夫の「隗より始めよ」を買った。出久根の本にまつわる話はいづれも微笑ましい。まるで小噺のような古本をめぐるエピソードの数々が、私のような本好きにはたまらない魅力だ。大隈の「文章の実習」(日本エディタースクール出版部発行)は長く私の文章作法の教科書だった。
「隗より始めよ」の中で大隈は、郭隗が賢い臣下を集めようとされるのであれば、まず私のように無能な人間を登用されるのがよいのではありませぬか、さすれば優秀な人間が集まって参ることでございましょう。」と燕の国の昭王に進言したという故事から説き起こして相撲界の八百長問題に言及する。
八百長とは八百屋の長兵衛が相撲協会の幹部にわざと囲碁で負けて相撲の興行権を得たことから、ためにする負けのこと指す。そして、八百長の語源に関わりをもつ相撲界が八百長だらけであると様々な例示を挙げる。テレビが普及したので八百長はやりにくくなってはいるが、栃若時代のある事実を指摘したうえで現在でも八百長はあると断定している。(タイトル「隗より始めよ」は2000年の発行だ、)
また、ノーベル賞作家、大江健三郎に対する評価は辛辣だ。曖昧模糊とした表現そのものが何をいいたいのか解読しずらいし、表現された漢字と「かな」との使い分けは極めて稚拙だといわざるをえない。大隈は大江の表現の多くに赤ペンをいれたくなるような衝動を覚えるそうだ。長年に渡って日本エディタースクールで文章の書き方を教えてきたルポライター大隈ならばこその指摘だ。
梶山李之、吉行淳之介や阿川弘之、大宅壮一らとの交友録も興味深い。